26 王子はもう限界のようです
「ちょ、ちょっと待ってリンネ! 今夜はもういいから! 帰っていいから! ね!」
私は部屋の扉を勢いよく開け放ち、すかさずリンネの肩を押して精霊界へ帰還の魔法陣に放り込んだ。彼の顔は相変わらず冷静だったけれど、その瞳の奥にはかすかな挑発の色が浮かんでいた。
「……何かあったらまた呼べ」
「う、うん! 呼ぶ呼ぶ! あとでね!」
パッと光が弾け、リンネの気配が消えたのを確認した私は、次の瞬間、レイ王子をぐいっと引っ張って半強制的に部屋に押し入れた。
「……ご、ごめんなさい、いろいろ誤解させちゃって! でもほんとに、あれは別に変な意味じゃなくて!」
「じゃあ、どういう意味?」
低く問われ、思わず肩をすくめる。
(どうしよう……だってあれは命の危険すらあった。それに、咄嗟にヒロインのセリフ真似したら、あんなことになったなんて言えない……)
リンネが悪龍の死骸まで丁寧に消して証拠隠滅してくれた。学園内には、私たちが悪龍を倒したことどころか、悪龍が現れたことすらバレてない。
それを今言い訳なんかのためにバラすわけにはいかない……
必死に脳内会議を開いた末、私はとんでもない苦し紛れの嘘を口にしていた。
「え、えっと、これはその……レイ王子と桜子をくっつけるための、布石というか……作戦の一部で……!」
「……は?」
眉ひとつ動かさず、王子の声は静かに低く落ちた。だけど、瞳の奥に宿る何かが……きらりと、鋭く光る。
「君は……僕と、あの子をくっつけるために、他の男と魂の契約を交わしたと?」
「ちがっ、ちょっとだけそれっぽいことをしただけで、本当に好きとかじゃなくて、状況的に仕方なくで――」
「――ふーん」
風が変わった気がした。室内の温度は変わっていないのに、私は背筋に冷たいものを感じた。
気づけば、王子がすぐ目の前にいて、私は壁に背を押しつけられていた。
「っ……レイ、王子……?」
「違う。今は、君の婚約者のレイだよ」
低く、熱を帯びた声。私の手首を取る力が、いつもより強い。
そして、次の瞬間――視界がふわりと揺れ、私はベッドの上に倒されていた。
「えっ、ま、待ってください……! これはちょっとさすがに――」
「……目を逸らさないで」
「え……?」
「他の男の刻印なんて、目障りでしかない」
そう言って、レイ王子の手が私の髪を掻き分け、首筋へと触れた。ぞわりと電気が走る。
やばい……キスマークの位置だ――!
レイ王子はゆっくりと首筋のマークを指で撫でる。手袋越しじゃない、素肌の熱がじわじわと伝わってくる。
そのまま顔を近づけられて、私は身動き一つ取れなかった。
「あの精霊はよくて、僕は駄目なのか……?」
その言葉と共に、熱を持った唇が、私の首筋をそっと――いや、執拗に、焼き付けるように吸い寄せた。
「んっ……」
「……そんな声、出さないで……止まらなくなる」
(だめだって、これは……!)
頭の中で警報が鳴るのに、体は拒絶できなかった。息が詰まり、何も言葉が出てこない。
さらに、彼の唇は私の口元に移動し、目が合った瞬間――レイ王子は、ゆっくりと私の唇を塞いだ。
深く、舌が絡むキス。意識が溶けそうになるほど甘く、熱く、けれど逃げ場のない感触。
「ん……っ、ふ……っ」
頭が真っ白になる。
なにが起こってるのか、理解が追いつかない。
でも、彼の手が、頬を、髪を、優しく撫でてくる。
苦しさと戸惑いが喉に詰まり、思わず肩を叩いた。すると、レイ王子はようやく唇を離してくれた。
「……僕がどれくらの感情を君に抱いてるか、少しは分かった?」
「えっ、えっと……ご、ごめんなさい……」
王子の指が私の唇をなぞる。
「どうせ……君は、まだ何もわかっていないんだろうけど」
目の奥にあるのは、寂しさと、怒りと、そして、深い執着――。
どうして私、止めなかったんだろう。
声を上げれば、手を振りほどけば、止められたかもしれないのに……。
――でも、レイ王子の顔が、あまりにも切なげで……。
まるで、ヒロインにだけ見せるような表情で、目が合うだけで動けなかった。
「……君の嘘なんてどうでもいい。ただ、どんな理由があっても、君が他の誰かに触れられるのが……許せなかった」
(なんで……なんでそんなふうに言うの……?)
私は恋愛フラグなんて全部折るって決めてた。
悪役令嬢のアネットは、どうせ攻略対象に好かれるはずがないと思ってたのに――
「お願いだから……もう、僕以外の他の誰かを選ばないで」
王子の声は、どこまでも静かで、だけど底知れず熱を孕んでいた。
その熱が、私の胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。
――ごめんなさい。
私は、そんなつもりじゃなかったのに。
(……でも、どうしてこんなに……涙が出そうになるの?)




