19 これってもしや…”私のために争わないで!”ってやつ……?!
夜の寮の裏庭。月明かりだけが静かに地面を照らしている。
「……ふぅ、誰にも見られてないよね?」
私は辺りを見渡してから、両手を胸の前で重ね、そっと息を整える。
「この魔法なら目立たないし、バレないはず……たぶん」
全包囲治癒魔法であるリザレクション・オブ・セレスティアのお披露目大騒動から数日。例の伝説級の回復魔法は、校長や王子、そして多分父にも大騒ぎされながら、なんとか“測定クリスタルのエラー”で揉み消された。でも――
(あのときのレイ王子の目……やっぱり、怒ってたよね!?)
しかも、「仮ではなく、本当の婚約者になるつもり」とか言われちゃったし。あれって、私の存在が危険だから監視するってことだよね? 破滅フラグすぎるんですけど!?
「これはもう……いつ処刑ルートに突入してもおかしくない」
だから、私はこっそりと“もうひとつ”の魔法を練習することにした。最終局面でヒロインが奇跡的に手に入れるチート魔法。全魔法を無効化する『完全防御魔法』――それを、私は……入手済みだ。
「……《ディフェンティア》」
囁くように詠唱すると、空気がピリ、と震えた。周囲の風が一瞬止まり、透明な結界が私の全身を覆う。光も音も熱も、何も通さない静寂のバリア。
「……すご。これ、ほんとに防げるんだ……」
興奮と安堵と少しの罪悪感が胸をかすめた。
(いや、これは正当防衛のため。破滅回避のため……)
そのときだった。
風がざわりと揺れ、木の陰から何かが……いや、誰かがこちらへ歩み寄ってきた。
「き、きゃ……」
私は思わず悲鳴を上げそうになった。その瞬間――
「……声を抑えろ、人間」
突然、背後から回された腕が私の口を塞いだ。冷たい指先に、ぞくりと鳥肌が立つ。
「んっ……!」
月明かりに照らされ、目の前に現れたのは……
深緑と碧色のグラデーションが綺麗な長髪。異様なほど透明なエメラルドの瞳。人間離れした美貌――だけど、その奥にどこか野性の気配を孕んでいる。
「相変わらず、お前の魔力は悪くない。答えは出たか?」
「な、何この状況……!」
言葉を発しようとすると、再びその手が口を覆う。――でも、その時。
「なにしてんだ……!」
耳に届いたのは、聞き慣れた声。寮の裏口から、ノクスが剣を手に現れた。
「っ、離れろ……!」
ノクスがリンネに向けて剣を振りかざすと、リンネは碧の電撃のようなものを纏いながら高く飛び上がり、その剣筋を軽く躱す。
「精霊……?! なんでこんなとこに……」
リンネは、冷たい目でノクスを見上げる。
そしてすぐに私の方へと視線を向けた。
「気に入った。こいつは我のものだ」
「「は、はぁ?!」」
私とノクス、同時に声を上げた。
リンネは続ける。
「魔力が甘い。透明で、どこまでも綺麗だ。だから我は、お前に触れたいと思った」
そう言って、さりげなく髪を梳くように撫でてくる。なんか撫で方が、慣れてる。犬とか猫にするやつじゃない!?
「ま、待って、なにこの急展開!? えっ、リンネってこんなスキンシップ激しかったっけ……!? 設定にそんなのあった……っけ……?」
アネットに対しても、ヒロインに対しても、初期リンネは冷たかった。
"我と契約したいのなら、そのくだらない魔力をどうにかしろ"と冷たく見下されて……
だけど、その瞳の奥にある、リンネの"本当の感情"を感じ取ったヒロインは、リンネに近付くために魔法の練習をするんだよね……
混乱の中で、わたわたと手を振る私とは対照的に、ノクスは隣で明らかに顔を引きつらせていた。
「……クソ、またかよ」
小声でぼそりと呟くノクス。その額には青筋。手元の剣が小さく震えていた。
「な、ノクス? 何か怒ってる? ちょ、リンネ、触るのやめて……っ」
リンネはちらとノクスを見やっただけで、また私に顔を向けてくる。
「……お前がどうしようと、我はお前が気に入った。しばらく様子を見させてもらう」
「ちょ、ちょっと待って!? 勝手に様子見とか、もっとふさわしい子がいるのに――!」
私の言葉なんて全く聞いていないようで、リンネの手は今度は私の指先を取って、ふわりと包み込んでくる。
「……離れろ」
ノクスの声が低く、怒気を孕んでいた。だけどリンネは、ふん、と喉を鳴らすだけで離れる気配はない。
(……え、これ、どういう状況?)
もう頭が追いつかない。
でも――
(ちょっと待って。もしかして私、また攻略対象に変なフラグ立ててない!?)
破滅フラグを回避したいのに、なんで毎回こんな展開になるの!? 助けて!!
本当ならリンネはヒロインと契約するはず。
アネットがリンネを魔法で騙して、ヒロインとの契約を妨げたって勘違いされたら、リンネの魔法で殺される……!
まだ完全防御魔法は習得したばかりだし、精霊であるリンネの魔法を防ぎきれるかどうか……
リンネが私の手を包んでいるあいだ、ノクスはじっと黙っていた。
けれど、見なくてもわかる。彼の周囲の空気が、ひりついている。
「……いい加減に、離れろって言ってるんッスけど?」
それは、静かな声音だった。けれど、低く、冷えたような声。ノクスがこんなふうに誰かに怒ったのを見るのは、ゼイン様との対峙の時くらい……。
「……迷惑か?」
リンネが手を離し、すっと立ち上がる。その顔は無表情で、声に揺れもない。けれど、ただの無口というよりも、「それを言うのか」と言いたげな不満が滲んでいた。
「迷惑じゃないけど、私、突然触られるのはびっくりするっていうか、あの、ほら、シナリオが狂うというか……」
「……無自覚にもほどがあんだろ」
ノクスがため息をついた。肩の力が入っている。剣を鞘に納めようとしながらも、明らかに未練がましくリンネを睨んでいた。
「我は契約を急がない。ただ……」
リンネは私の前に立つと、ふっと深緑の長髪を揺らし、冷たい美貌を向けてきた。
「お前と契約する時、我はお前に全てを捧げてやる」
彼の手がそっと私の額に触れた。
「……その気になったら、名前を呼べ」
さらりと碧色のもやを残して、リンネの姿はふっと空気に溶けるように消えた。
「……え、えぇ……」
私はしばらく呆然として、ぽかんとその場に立ち尽くしてしまった。
そして――
「……くそっ」
すぐ隣で、そんなノクスの声が漏れた。
「ノ、ノクス……?」
顔を見ると、いつもの冷静な彼とは少し違っていた。表情は険しく、唇は真一文字に結ばれ、なによりその目には、強い焦りと苛立ちが見え隠れしていた。
「……契約するつもりなのかよ」
「え、いや、別にそういうつもりは……」
「じゃあ、なんであんなのに隙見せんだよ」
ノクスの声が、震えるように低く響いた。
「……なぁ、俺がどれだけ――……」
そこで言葉が途切れた。ノクスは視線を逸らして、拳をぎゅっと握りしめた。
「他の男と契約なんて、絶対にさせないからな」
ぽつりと落とされたその言葉は、静かで、けれど熱を帯びていた。
「ノクス……?」
「もう戻るッスよ。夜に騒ぎを起こして王子に何か言われたら、俺が叱られるんだからな」
そう言って私の手を取る。いつもの軽口っぽい言い回しなのに、その指先は強くて――温かかった。
「……あれ? なんか、ちょっと怒ってる?」
「はぁ……やっぱり自覚ないんスね」
「えっ、なにが!?」
(――え、本当に何!?)
夜風が冷たく感じるのは、魔力のせい? それとも、隣にいるノクスの手の熱のせい――?
(……なんか、また、余計なフラグ立てちゃった気がする)
予感は当たってほしくないけど、たぶん、手遅れ。




