18 笑顔で惑わせるのは禁止です!
静かな執務室の中。私はレイ王子の前に正座していた。いや、正確には椅子に座っているんだけど、精神的には正座である。背筋を伸ばして、呼吸を整えて、あくまで“善良な優等生令嬢”を演じるモードに切り替える。
「アネット。君の魔法、あれは……本当に“偶然”だったのかい?」
レイ王子の声は穏やかだったけど、その目は笑っていなかった。ああ、これは詰められてる。バレてる。でも、バレちゃいけない。
「はいっ、私もまさかあんな……魔法が出るなんて……っ!」
「……伝説級の高等治癒魔法だと。ルミナリア王国の宮廷魔導士すら知らなかった」
「え、ええ……ですよね、ですよね〜……!」
何とか誤魔化し笑いで逃げようとするも、背中にじっとりと汗が伝う。あれは本来、ヒロインが最終章のラスボス戦、負けイベ後に覚醒して習得するはずのチート魔法。まさか、入学初日に私がうっかりぶっ放すとは。
いや、だって。
何回もル魔恋を周回してたせいで、完全に手癖になってて……
それに私、もうすでに“完全防御魔法”まで手に入れてるんですよね……。
しかも、周回者用の技を使ってサクッと。ちょっとした裏ルートをたどったら、「おめでとうございます!」って勢いでスキル欄に追加された。
だって、完全防御魔法+リザレクション・オブ・セレスティアを覚えておけば……魔法攻撃での処刑はまのがれる。
あと、あの空間転移だけは、どこかのタイミングで覚えておきたい。
「……君の魔法適正、“A”と聞いている。だが今回の件は見過ごせない。どういうことか、説明してくれるか?」
「し、知りません……? 精霊のしわざでは?」
あ、今の言い方だとリンネと契約しちゃった。みたいな感じに……! やばいやばいやばい!
レイ王子が静かに手元の書類に目を落とした。やめて、その冷静さが一番怖い。バレてる空気がこっちの精神を削る。
「……アネット。正直に話してくれないか?」
この瞬間、私は悟った。
(うう、もうこれ以上詮索しないでください。これ以上踏み込んだら……チート級魔法を使って“全魔法無効化+高等治癒魔法+空間転移”で全ての攻撃を回避しつつ逃げ切る不死身系悪役令嬢になっちゃうよ? いいの?!)
そんなセリフを心の中で叫びながら、私は爽やかに笑った。
「きっと、これは神様のイタズラですねっ!」
勢いで笑ってみたけれど、返ってきたのは沈黙だった。
……いや、沈黙というには、あまりに“重い”。重すぎる。
書類を閉じたレイ王子は、静かに私を見据えた。笑っていない。さっきまでの理性的な王子らしい落ち着きすら、そこには無かった。
その双眸が――冷たい。
背筋にぞわりと寒気が走る。まさか……私、今……本気で怒られてる……?
「アネット」
低く、抑えられた声。
足音ひとつ立てず、レイ王子がゆっくりと私に歩み寄る。
――あ、これ、終わったかもしれない。
不正魔法使用、隠蔽、破壊行為、国家機密級魔法の無断所持。
冷静に考えたら、これ全部やばいやつじゃない……?
「え、ええと……ご説明しますと、ほんのちょっとした事故というか、偶然というか、自然の摂理といいますか……!」
じりじりと距離を詰められ、私は後ずさる。
それでも王子は止まらない。まっすぐ、私だけを見ている。
――ひいっ……!!
ついにソファに足がぶつかり、逃げ場がなくなったその瞬間。
「……っ、きゃっ!」
私はあっけなくソファに押し倒された。
――至近距離。
レイ王子の顔がすぐそこにあった。俯く形で、私を見下ろすレイ王子の表情――さっきまでの冷たさとはまるで違う。だが、それ以上に分からない。怖い。いや、怖いというか、何このシチュエーション。
「やばい……殺される……っ!」
ごくり、と唾を飲み込む。
私は必死で手足を縮こまらせ、身を守るように構えた。
「……殺さないよ」
思わず漏れた私の一言に、王子がため息を吐く。まるで心底呆れたように。
「君は、全く僕の気持ちを分かってない」
「え……?」
その言葉の意味を掴めないまま、頬に温もりが触れる。
レイ王子の指先が、そっと私の顔に添えられた。
指の腹が頬をなぞるたび、背筋に電流のような震えが走る。
「……ッ」
目が合った。
今度の王子の瞳は、さっきとは違う。冷たくもなければ、怒りでもない。
ただ、ひどく優しく――切なげで。
「僕はただ、アネット。君のことを、心配してるんだ」
「……え?」
一瞬、何かを言いかけて、けれど言葉が出てこなかった。
胸の奥で、何かがぽとりと落ちる音がした。
「……え? なにそれ、王子、まさか……なにか企んでますか……?」
その瞬間、王子の眉がぴくりと動いた。
一拍の静寂。
「……どうして、君はそうなるんだ」
今度は苦笑だった。少しだけ肩をすくめる。
「君の思考回路だけは、魔法なんかよりも解読が難しすぎるよ」
やばい。怒ってはいない。怒ってはいないけど――まるで、レイ王子がゲームの中で見せる"ヒロインへの顔"みたい。
私の中ではまだ結論が出ない。
――この人、なにがしたいの?
――もしかして、レイ王子ルート……?
いやいやいやいや!
レイ王子はこの乙女ゲーム世界の正統派攻略対象。最終的にはヒロインと結ばれるルートだから、そのためにアネットとのイベントも多いってことだよね?
「……どうして、君はそうなるんだろうね」
レイ王子はそう言って微苦笑を浮かべながら、私の頬から手を離した。
その指先の温もりがふっと消えて、ようやく私は一息ついた。……というか、心臓の音がバカみたいにうるさい。やばい、これは心臓に悪い。
けど、それもそのはずだ。だって今の雰囲気、なんというか……。
え、もしかして、レイ王子ってば……誰か好きな子ができた……? それってきっと、ヒロイン……
ひゅんっと胸が冷たくなる。
あ、そうか……きっとそれだ。
こんなに優しくて余裕のあるレイ王子が、あんな風に動揺したのは、ヒロインのことを私に話すタイミングを探してたんだ……!
「……王子!」
「ん?」
「気になる子はできましたか?」
にこり、と私は最高の笑顔を作って尋ねた。
するとレイ王子のまぶたがゆっくりと瞬き、私をじっと見つめ返す。……なんでだろう、無言の圧がすごい。
「私、レイ王子の恋愛を邪魔するつもりはないと約束します! だから気軽に話してくださいね!」
ヒロインと王子との恋が始まるなら、私が口を出すわけにはいかない。破滅フラグ回避のためにも、ここは全面サポート体制を取らねば!
それに、もう始まってるのかもしれない!
「……ふふ」
レイ王子が、笑った。
ただの笑顔。でも……なんだろう。今のは、寒気がするほど、静かで、ぞっとする笑顔だった。
「……安心して。君と仮婚約を解消することは“絶対に”ないよ」
「え?」
「むしろ、仮なんて中途半端なものじゃなくて――君には本当の婚約者になってもらうつもりだから」
――空気が、止まった。
言葉の意味が分からなかった。いや、理解はできるけど、脳が処理を拒んでる。
「えっ……あ、あれ……?」
私の口から、情けない声が漏れる。
レイ王子は淡々と、いつもの穏やかな口調のまま微笑んでいた。けれど、瞳の奥は冷たく静かで、どこか逃げ場をふさがれるような気配があった。
「わ、私……なにか、怒らせました……?」
「怒ってないよ。ただ――どうして君は、そうまでして僕の気持ちを誤魔化すのかな、って」
「え、ええと……?」
「ねぇ、アネット」
静かに名前を呼ばれる。
私の胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。
「君が考えてる“正解”って、本当にそれでいいの?」
レイ王子はそれだけを言い残し、立ち上がった。
その背に、私はなにも返せなかった。
心臓がばくばくとうるさくて、自分の考えすら掴めない。
それでも――ひとつだけ確かに分かることがあった。
私、今、とんでもない勘違いをしてるかもしれない。
でも、それが何なのか、全然わからなかった。




