枝話「藤野颯は学習する」
勝手な行動をした俺は問題から隔離され、いくつかの命令が下された。
その一つは天宮さんと約束通り下校すること。
指示通り天宮さんと歩き出す。
今後はお互いに接近禁止なので、この短時間は何を話してもいいことになっている。
ただ、一回の下校で「気が合わなかった」ことにするから、仲の良い姿は見せないように、そう指示されている。
そんな指示がなくても、俺としては天宮さんと仲良く歩くなんてあり得ない話だ。
俯いた彼女を置いていきたい気持ちがあるから自然と歩く速度が上がる。
ととっと速く歩き出す天宮さんに気づいて少し待つ。その繰り返し。
彼女のいる右側がゾワゾワして落ち着かない。
ふわりと鼻腔をくすぐった桃っぽい匂いに顔をしかめた。
目撃してもらうために、吹奏楽部の下校時刻に合わせたから自分たちに視線が集まっている。
「あの、颯君」
距離の近い生徒がいないか確認して、天宮さんに返事をした。
「名前で呼ばないで下さい」
「……あの」
俺の怒りの理由のほとんどは高松と相澤さんを傷つけられたことだ。それを謝っても許さない。この世には謝っても許されないことがある。
「でも試しに一緒に帰る……だから。みんなが見ているので」
「だからなに? 俺は下の名前で呼ばれたくない」
「でも……」
天宮さんの声は闇夜に溶けて消えていった。
誰かに話しかけられたら「既に気が合わない。話題がないから三ヶ月は無理そうだ」と言う。
天宮さんはそれに乗る。そういう指示がされている。彼女は俺のことはもういいと周囲の人間に宣言しないとならない。
タイミングが悪いことに、校門前で剣箏部のみんなと遭遇した。なぜか政の姉もいる。
「えっと……颯、その感じは何?」
困惑顔の和哉が誰よりも早く問いかけてきた。
「話したいって言われて……話してみようかなって」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。
こんなに演技ができないのに、自分とは性格があまりにも違う日野原を真似してみようなんて考えた自分は浅はかだ。
人は追い詰められると頭がイカレるのだろう。
「……あっ、先輩。その、既に気が合わない気がします……」
天宮さんは、とても弱々しい声を出した。この流れは指示を実行するチャンスだ。
「だから言ったのに。俺は面白くないって」
「……」
天宮さんは返事をしない。彼女はますます下を向いた。唇を少し噛んでいる。女子の唇を見て、氷のような気持ちを抱くことなんてあるんだと驚く。
「じゃあ、約束したから今日は二人で帰るんだ。また明日」
これ以上ここにいると感情が爆発しそう。
奥歯を噛んでそそくさと歩き出す。天宮さんがちょこちょこした早歩きでついてきた。
夏の夜の湿気たっぷりの風がジメジメと嫌な感じ。湿り気のある匂いだから雨が降るかも。
海鳴の校門まで二人とも無言。木村先生が予定通り俺に声を掛けた。
「天宮さん、悪いんだけど待っててくれる?」
我ながら棒読みだ。
「聖廉さんの大事な生徒さんに一人で帰りなさいなんて言えない。天宮さん、君も来なさい」
木村先生と三人で歩き始めて、ホッと胸を撫で下ろした。これで自分の暴走の尻拭いは終わり。
俺の『嫌われる作戦』もこれにて終了。実行前に終わった。
表向き、お互いに興味を無くした俺たちは、これにてずっと接触しない。
行事関係は学校が非接触になるように配慮してくれる。
「藤野君!」
橋本さんの声が背中にぶつかったので驚いて振り返る。
さっき、背後で「あれは何だ」と叫んだ和哉なら分かるけど、なぜ橋本さんが声を掛けてきたのだろう。
「えっと、あの、先生に呼ばれて。どうしたの?」
俺の質問に橋本さんは眉間のしわを深くした。
一朗の祖父の家で日野原と喧嘩した時のような怒り顔だ。彼女の怒りの理由が分からない。
「私が二人で一緒に帰りたいって言ったらそうしたんですか?」
「えっ?」
今の問いかけの意図はなんだろうか。
「天宮さんに『いいよ』って言ったなら、私だっていいですよね?」
涙目で睨まれて、ますます困惑した。
「あの、橋本さん?」
橋本さんは、目を閉じて唇を震わせると叫んだ。
「藤野君の嘘つき! 大嘘つき! 小百ちゃんだけのくせに何をしてるの!」
この台詞で俺は「嘘つき」になっていたと気づいた。橋本さんは高松から俺の話を聞いている。そのことは想像に容易い。
高松はきっと橋本さん——友達に「藤野君ともうすぐ付き合う」と報告しただろう。俺が一朗にそうしたように。
それなのに俺が高松以外の女子と二人で歩いていたら「私の友達に付き合うと嘘をついた男子」である。そりゃあ、友人想いの橋本さんは怒る。
「天宮さんのせいでしょう! 小百ちゃんに何かしたんだね!」
橋本さんは俺をさらに責めることはせず、天宮さんに向かって怒鳴りながら、詰め寄るように近寄った。
「私の友達の悪口を言いふらすだけじゃなくて、もっと何かしたなら許さない!」
俺は……橋本さんに信用されていたのか。
天宮さんが何かしなければ、藤野颯は高松小百合以外と下校しない。
自分が高松の友人に、そのような信頼を得ているなんて考えたこともなかった。
己の愚行は間接的に高松の友人も傷つけたと胸が痛む。しかし、高松と親しい橋本さんからの信用はとえも嬉しい。じんわりと熱が体中に広がっていく。
「いきなりなんなの! みんなして私のことを悪く言って! 私は事実しか話していないのに!」
天宮さんが反撃のように喋った。その内容にギョッとする。
あのメールは嘘しかないのに「事実しか話していない」とは認知が歪んでいる。まるで清田だと、俺はますます天宮を嫌悪した。この感じだとまた近寄ってきそう。
「君は高松さんの友人ですか?」
木村先生に問われた橋本さんは、大きく頷いた。
「事情が分からないままだと不安だろうけど、今は事情を話せないので帰宅して下さい。藤野のこと、それに高松さんのことは聖廉さんと合同で対応していますから」
聖廉の教頭先生も来て、橋本さんを始めとした剣箏部のみんなに帰宅を促す。
橋本さんはじりじりとゆっくり後退して、呼吸を整えるように深呼吸しながら手のひらで目や頬の涙を拭った。
申し訳ない気分の中、木村先生たちと共に校舎へ向かった。高松の友人を泣かせたくなかった。足が重くて泥の中を歩いているみたいだ。
聖廉の教頭先生が天宮さんを連れて行こうとした時に、木村先生はそれを止めた。
「藤野。天宮さんのことはいつから嫌いだ?」
木村先生は俺の背中に手を添えて、そんなとんでもない質問をしてきた。
「あの、なんでそんなことを聞くんですか?」
木村先生は俺にだけ聞こえるように耳打ちした。
「教育して止めるが、このままだと再犯するかもしれないから予防だ」
俺の目の前で、天宮さんが小さな声で「嫌い? なんで?」と呟く。彼女が『自分は嫌われていない』と自覚しているなんて思いもしなかった。
「予防なら……」
誰かを『嫌い』と言うなんて苦手。悪口は人の心を突き刺して何年も傷つけ続けるから。
それなのに、天宮香織という女子は酷いものだ。言いたい放題、やりたい放題。
高松は彼女に慰められたことがあると言っていたので、いいところもあるはずだけど知りたくもない。
「苦手だと思い始めたのは、一朗におざなりなお礼をした頃です」
天宮香織という存在を視界に入れたくなくてうつむく。
「天宮さん、心当たりはありますか?」
「ありません。おざなりなお礼ってなんですか? 私、そんなことはしていません」
「藤野はなんで『おざなり』って思ったんだ?」
木村先生の大きな手が背中を撫でる。大丈夫というように。
「……一朗は誰よりも頑張って助けたのに、大して何もしてない俺にはお礼品や手紙だったので」
「颯君はあんなに助けてくれたのに、何もしてないなんて思ってたんだね」
「だから名前で呼ぶな。藤野でも嫌だけど。相澤さんも高松も許すみたいだけど俺は許さない。二人や二人の友達に何かしたら全部世間にぶちまけてやる」
顔を見たくないのに、思わず睨みつけてしまった。天宮さんは青ざめている。怖がる女子を見て『ざまあみろ』と思うのは初めてだ。
「私が悪いことをしたって信じないで。騙されないでよ!」
本当にこいつは清田みたいだ。
「俺は自分の目と耳で判断してる。騙されてない。俺のことを好きなら俺の気持ちや俺の友達を大事にしろよ! 高松みたいに!」
叫んでから、しまったと慌てた。高松を引き合いに出すと彼女に迷惑をかける。
「私は颯君のために……」
天宮さんはポロポロと泣き始めた。これでも彼女の心には響かないらしい。そのことに戦慄する。
俺は日野原の過去話を「いいアイディアかも」と思ったけど、こんな彼女と毎日対話して嫌われるなんて無理だったと改めて痛感する。
いや待て、確か……。
「俺のためになることをしたいなら、俺に近寄らないで。高松と彼女の友達にも。俺のためになることをしたいんだよな?」
日野原は確かこんな感じの話をしていた。今の俺の低い声とは違い、明るく軽やかな声でだったけど。
「そうだよ。私は颯君の力になりたいの。騙されて欲しくない」
日野原という男子はあれこれ目から鱗。やっぱり、新しい価値観は使えるかもしれない。
「力になりたいなら先生と親の言うことを聞いて、俺たちに近寄らないで。できるよね? 俺が好きで俺のためになることをしたいなら」
都合のいいところだけ正論で攻めるのが日野原っぽいから、こう言ってみた。
天宮さんは戸惑い顔で「そうじゃなくて」と小さな声を出して首を横に振った。
「違うの? 俺のことを好きじゃないなら俺がどうなろうと関係無いよな」
「私は……その……」
彼女の照れ顔なんて見たくないのに、もじもじされて憂鬱。
「俺が好きなら俺のためになることをできるよな? 俺たちに近寄るな。俺を好きじゃないなら、このまま赤の他人」
俺のこの発言に、天宮さんが目を見開いて固まる。
「えっと……」
「藤野。終わりでいい。天宮香織さん。色々、ゆっくり理解していきましょう」
木村先生は聖廉の教頭先生に「では」と言って会釈をすると、俺の背中を押して歩き出した。
「藤野」
「はい、なんでしょうか」
「上手いこと道を塞いだな。ハッキリ言わせて、聖廉さんに強く言う理由強化とカウンセラーへの情報提供だったんだけど、ああ言うとは」
「……仮交際して、あんな感じで嫌われようと思ったんで。上手かったですか?」
「今のはダブルバインドっていうテクニックだ」
「二つで縛る……そうなんですね」
日野原と勉強会で会った時は、橋本さんに変な男、一朗の幼馴染でなければ関わりたくないと思ったのに、今はもっと話してみたいとは不思議な縁だ。
「あれは時間がかかる。些細なことでも報告しなさい。親しい友人にもサポートしてもらう」
「ありがとうございます」
「自分を押し殺したり傷つけることは、自分を大切にする人を傷つける。今後はそのことをよく考えて行動しなさい」
「……俺はそのことを知っているのに忘れていました。されたら嫌なことを、高松や相澤さんに押し付けようとして、二人の友達まで泣かせてしまいました」
「そうか。高松さんと会った時といい、反省の色が見えて嬉しいよ」
背中に添えられた手はとても温かい。頬が緩んで口の端が動いた。




