枝話「橋本美由と失恋」
誰も何も言わないけど、小百ちゃんと藤野君の空気が変わったのは明らかだ。
どんどん威生君に惹かれている感覚はあるのに、私の中にはまだ重たいものがある。小百ちゃんと藤野君が視界に入ると息がしづらい。
だから私は、集団下校の時はそれとなく一番後ろを歩いている。
そして——威生君が今ここにいれば、きっとモヤモヤしないのにと、空を見上げては星に願う。
彼の肋骨はかなり良くなった。だから彼は個別メニューからではあるが、部活を再開している。
一学期が終わるまでも、夏休みも、全然予定が合わない。
きっと私は、彼に甘えないで自力で心のモヤモヤを晴らせと恋の神様に言われているのだろう。
☆★
土曜の午前中は勉強でその後は部活。
琴ちゃんが階段から落ちてしまったので心配で練習に身が入らない。
大会組は全国大会まであとわずか。私たちよりも長く練習をするので、演奏会組だけのミーティングが行われて同期と帰宅する。
そのはずが、ミーティング後に演奏会組の二年生は顧問に呼び出された。
何かの打ち合わせだと思ったら、全く違う話をされた。
顧問の質問は『吹奏楽部の部員との間で困りことは無いか』だった。
「実は、相澤さんがそう訴えています。自分もみんなも迷惑をかけられていると」
深刻な表情の顧問の声はとても静かだ。私たちは顔を見合わせた。
梓ちゃんが「あの、相澤さんは?」と尋ねる。
「彼女の怪我は日常生活や部活に問題ないものでした。大丈夫ですよ」
「それも気になっていましたけど、訴えている本人はどちらに?」
「個別に話を聞いています」
みんなで顔を見合わせる。麗華ちゃんが私たちに「琴音さんが言ったなんて相当辛かったんでしょうね」と言いながら眉尻を下げた。私にはさらに、「ねっ、美由さん」と同意を求める。
「私たちの知らないところで『学年副部長だから』みたいに難癖をつけられたのかな」
「先生、琴音さんは最近、元気が無い時があって気になっていたんです」
顧問は『今の琴音の状況』は教えてくれなかった。 私たちに吹奏楽部と揉め事があるなら教えて欲しいと求め、琴ちゃんのことは何も言わない。
何があったかは言えない。事実確認のために、聞き取り調査をしている。それは教えてくれた。
吹奏楽部員の誰とも接触しないように、今夜は寄り道をせずすぐに帰るように。相澤琴音とは連絡が取れないけど、それは大人の指示なので心配しなくていい。
そう教えられて、帰宅を促されて不安が募る。私たちは顧問に「知りたい」と頼んだけど、受け入れてもらえなかった。
顧問は「この時間なら練習が終わっているでしょう」と言って、大会組の真由ちゃんを連れてきた。
サラッと事情を説明して、「高松さんは学年部長だから長めの聞き取りをしています」と悲しげに微笑む。
その顧問の表情に、真由ちゃんはとても不安げな眼差しで「小百合さんの聞き取りが終わるのを待っています」と返した。
「高松さんは当事者の一人なのでご両親が来ています。だから大丈夫です。帰って疲れを癒して、明日からも二人を支えてあげて下さい」
「親が来てる……それなら帰ります」
こうして、私たちは集団で学校を出た。真由ちゃんは校門前まで来ると、小百ちゃんの家の車が分かるから、帰らないで待つと言い出した。
「小百ちゃんは気が強いけど、生真面目だから肩に力が入っているだけ。とても繊細なの。だから真由香は待ってる」
こんな状況だから、「制服時は敬語」なんて注意は誰もしない。麗華が即座に「それなら真由ちゃんが小百ちゃんに会えるまで帰らない」と力強い声を出した。
「何があったのか、大丈夫なのか早く知りたい。真由ちゃん、琴ちゃんの家の車があるかも確認しようよ」
私が返事をしようとした時に、校門の向こうに剣道部員たちが到着したのが見えた。彼らが私たちに「お待たせ」と声をかける。
一ノ瀬君、早坂君、佐藤君の三人しかいない。
彼らに近寄りながら、他の生徒たちの邪魔にならないように端へ移動する。
早坂君が、田中君と藤野君が不在の理由を教えてくれた。二人ともまだ先生や親と話しているらしい。
「一朗は早くも進学相談で、颯も似た感じらしくて部活に出なかったんだ」
いつものように帰ろうというように、早坂君が歩き出す。麗華ちゃんがすぐに「私と真由香さんはまだ帰れないんです」と声をかけた。
「そうなの? 大会が近いから? 東さんは大会に出ないよね? ああ、佐島さんを待っててあげるのか」
「うん、そうなんです」
私も帰りたくないから「麗華さんを一人で待たせたくないから私もです」と会話に入った。私も、私もとみんなが続く。
それを受けて、梓ちゃんが、小百ちゃんの独奏練習に琴ちゃんが付き合っている、二人のことをみんなで待つという嘘をついた。
「どういうこと? 相澤さんは一朗と親と夕食だろう? それなのに居残り練? 明日じゃなくて?」
一ノ瀬君の突っ込みで、私たちは自分たちの主張の矛盾に気づいた。確かに、今夜、琴ちゃんが田中君と保護者会に来る父親とご飯に行く話はみんな知っている。
空気がピリついて、変な感じになった。早坂君が「何かあった?」と心配そうに私たちの様子をうかがう。
その時だった。
「まさ君。こちらが噂の箏曲部の皆さん? こんばんは、政道の姉のシオリです」
女子生徒に話しかけられたので振り返る。佐藤君と似てない女子生徒は友人二人と一緒で、愉快そうに笑っている。
「姉貴。えっと、姉貴です」
佐藤君はおずおずと姉を手で示した。みんなで「こんばんは」と挨拶をしながら会釈をする。
「ねぇ、まさ君。なんで教えてくれなかったんですか? 藤野君がうちの部員を気にかけていたって」
何の話だというように佐藤君が首を傾げる。
「何ですかそれ。シオリ先輩、そんな噂があるんですか? うちの颯は幼馴染と付き合ってるんですけど」
早坂君が「付き合っている」と断定したからズキズキと胸が痛んだ。そんな話は知らない。どんどん鼓動が早くなっていく。
「幼馴染? その感じだとその幼馴染は吹部じゃないですよね?」
「シオリさん、弟君のお友達は天宮さんを『好きではない』って言っていましたよね。知らないから仮って」
天宮という、今、私の中では不穏な響きの名前が出てきて別の意味で心臓が嫌な音をかき鳴らす。同期たちもそうみたいで、次々と渋い顔になった。
「そうなんですか? 私、その場にいなくて、小耳に挟んだだけなんです」
「うちの藤野が天宮さんっていう部員と何かあったんですか?」
「姉貴、何の話?」
答えたのはシオリさんではなく、彼女の友人らしき隣にいる女子生徒だった。
藤野君は今日、昼休みが終わったくらいの部活が始まる時間に聖廉吹奏楽部に教師と共に顔を出したそうだ。
そして、天宮さんに「付き合う」と申し出た。何も知らないから『仮交際』で今日から一緒に帰ろうと提案したという。
あまりにも衝撃的な話で瞬きを忘れる。真夏の夜なのに冷たい風が吹いた気がした。
一ノ瀬君の低い声がその風に乗る。
「はあ? あいつ、いきなり何をしてるんだ? 断った御礼品を押し付けられて困ってたのに」
そんな話は知らない。早坂君と佐藤君が知らなかったという言動をした。二人が知らないなら、私が知らないのは当然だ。
すると、驚くべきことに話題の中心人物の藤野君が女子と並んで歩いてきた。隣にいるのは驚いたことに天宮さんだ。
二人はぎこちない感じで歩いている。私たちの近くまで来ると、二人は私たちに気づいて立ち止まった。藤野君は片手を髪に添え、天宮さんは俯く。
「えっと……颯、その感じは何?」
早坂君が誰よりも早く突っ込んだ。
「話したいって言われて……話してみようかなって」
藤野君の目に輝きはなく、誰とも目を合わせない。こんな彼を初めて見た。
「……あっ、先輩。その、既に気が合わない気がします……」
天宮さんはとてもか細い声を出した。
「だから言ったのに。俺は面白くないって」
「……」
天宮さんは藤野君の言葉に返事をしないでますます下を向いた。
「じゃあ、約束したから今日は二人で帰るんだ。また明日」
藤野君は言うやいなや足を動かし始めた。天宮さんが足早に着いていく。
思わずみんなで追いかけたけど、誰も話しかけられない。海鳴高校の前で、藤野君は教員らしき男性に呼び止められた。話があると。
「天宮さん、悪いんだけど待っててくれる?」
「聖廉さんの大事な生徒さんに一人で帰りなさいなんて言えない。天宮さん、君も来なさい」
二人が先生と共に、海鳴の校舎へ向かって去っていく。
「あれは何だ!」
早坂君が叫んだ。その声が背中にぶつかる。美由さんと私の名前を呼ぶ麗華ちゃんの声も背後でした。
走っていたのは無意識で、大声を出したのも同じく。「藤野君!」と名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。
「えっと、あの、先生に呼ばれて。どうしたの?」
「私が二人で一緒に帰りたいって言ったらそうしたんですか?」
この口は、なんでこんなことを発した。
「えっ?」
「天宮さんに『いいよ』って言ったなら、私だっていいですよね?」
「あの、橋本さん?」
困惑顔の藤野君が私を真っ直ぐ見つめる。
会話をしたことは何度もあるけど、彼がこんな風に自分だけをジッと見てくれたことなんてない。
今、私だけを見つめる藤野君の目や表情は、小百ちゃんへ向けるものとまるで違う。
なぜかその瞬間、ヒビ割れていた心がバリバキと壊れて散らばった。最初からなのに、なぜこれまで形を保っていて、今、粉砕されたのだろう。
「藤野君の嘘つき! 大嘘つき! 小百ちゃんだけのくせに何をしてるの!」
この言葉がするっと出てきて、パチリと何かがどこかにはまった。
藤野颯は高松小百合のためには全力で動く。威生君が私に色々してくれるように。
「天宮さんのせいでしょう! 小百ちゃんに何かしたんだね! 私の友達の悪口を言いふらすだけじゃなく、もっと何かしたなら許さない!」
今すぐ藤野君から離れて私と話をしろと、天宮さんに向かって絶叫していた。
「いきなりなんなの! みんなして私のことを悪く言って! 私は事実しか話していないのに!」
怒鳴られ慣れていないので、天宮さんの怒声にたじろいでしまった。しかし、引いてなるものか。
琴ちゃんはきっと小百ちゃんのために戦っている。 許さなくてもいいようなことさえ許してしまう優しい琴ちゃんが動いたのならそういうことだ。
「君は高松さんの友人ですか?」
海鳴の先生に問われたので大きく頷く。
「事情が分からないままだと不安だろうけど、今は事情を話せないので帰宅して下さい。藤野のこと、それに高松さんのことは聖廉さんと合同で対応していますから」
合同対応という台詞に戸惑い、笑いかけられたのでさらに。
なぜか聖廉の教頭先生が海鳴の校舎近くから駆け寄ってきて、私に、そして背後にいるみんなに帰宅しなさいと命じた。その声には明らかに焦りが滲んでいる。
箏曲部二年は関係者だから、明日にでも説明をする。早く帰りなさいと強めに指示された。
帰るしかなさそうなのでゆっくりと後退る。
後ろに下がりながら、大人がついていて、小百ちゃんのことも助けてくれるなら大丈夫だと安堵しながら、呼吸を荒げて頬に流れ始めた涙を手のひらで拭った。
「橋本さん?」
佐藤君の声がした気がするけど遠くからだった。
理由は体が勝手に動いて走り出していたから。そのままずっと走って、走って、呼吸ができなくなって道の端で立ち止まる。
体を折りながら息を荒げ、震える手でカバンからスマホを取り出した。私の手は、指は、当然だというようにスマホを操作している。
相手は、数コールで応答した。
「こんばんは美由ちゃん。いつもと違って早いね」
壊れたものをさらに破壊するように、奥歯を強く噛んでから彼を下の名前で呼んだ。
「どうしたの? その声、何かあったよね?」
「好きだよ。だから友達が心配で不安だから助けて欲しい」
頼まなくても彼なら助けてくれるけど、最初の言葉を言いたくてこう伝えた。砕けたものが天に昇っていく感覚がする。
空を見上げたら、息をのむほど美しかった。
「えっ?」
「藤野君に本当の意味で失恋したから慰めて。私、威生君がいい。藤野君は小百ちゃんじゃなきゃ嫌だし、私は威生君がいい」
言いながら、来た道をゆっくりと歩き出した。突然走り出したから、きっとみんな心配している。
琴ちゃんや小百ちゃん、藤野君の身を案じているところに私までなんて良くない。
「えっ? 何? どういうこと?」
「私にしてくれるみたいに何回でも言うね。好き。気づいているように、日野原君呼びと威生君呼びが混じるようになっていたでしょう? 今後は威生君としか呼ばないってことだよ」
最近、心の中で『日野原君』と呼ぶことは無かった。それが表にも出るということ。そうか、私はとっくに彼に完全に傾いていたのか。
「……うええええええ⁈ うわあああああああっ! いきなり何⁈ エイプリルフール⁈」
「七月にエイプリルフールはないでしょう?」
よく分からないけど、藤野君が小百ちゃんのために他の女子と二人で帰るだか付き合うだか、そんなことを言ったらしい。
私はそれを知って、一瞬だけ「ずるい」それなら「私も」と感じたけれど、その気持ちは大津波のような『高松小百合と藤野颯を引き裂くな』という気持ちに襲われたと教える。
そうしたら、モヤモヤが晴れて、日野原威生を好きだという気持ちだけが残ったとも。
「なんだか変な最後の後押しなんだけど」
「えー……。なんか俺、昼間、颯に相談されたんだよね。フッた子から嫌がらせをされて少し困ってるって。あいつ、なんで俺と話したことで、嫌がらせ女と二人で帰ろうと思ったんだろう」
彼は、自分ばかり話したのに、「ありがとう」と感謝されたと語った。心配だから田中君に連絡を入れたとも。その田中君はまだ部活なのか返事はないらしい。
「どんな話をしたの?」
話を聞きながら歩いていたら、みんなと合流した。
威生君の話で、私はますます『藤野君は小百ちゃんのために動いた』と信じるようになっている。
みんなにも、この考察を聞いてもらおう。
藤野颯は天宮香織に好かれていることで高松小百合が傷ついているなら、天宮香織に嫌われればいい、そのためには近寄らないとならないと考えた。
きっとそれが、一緒に下校の約束だったのだろう。
麗華ちゃんに、いきなり走り出したから心配したと腕に抱きつかれた。
「そう思って戻ってきたの。心配事がある時にごめんね」
「ううん、いいんだよ。謝らないで」
「その、心配が爆発して、威生君に助けて欲しいって思って。こんな夜にいきなり会えないって気づいてやめたの」
「日野原君に? あっ、田中君と連絡がつくかもしれないもんね」
聞こえて欲しいから、私はチラッとスマホを見てスピーカーボタンを押した。大きめの声を出す。
「田中君に連絡を取って欲しい。それもあるけど、威生君に元気づけて欲しかったの。いつも太陽みたいで、うんと元気が出るから」
そっとスマホの通話を切った。麗華ちゃんたちと話があるからまた後でという文を、後回しにする謝罪と共に送る。
威生君【明日五分デートしてくれたらいいよ】
【もちろん。五分以上は可能か二人で話し合おうね】
キラキラ、キラリと星が降ってくる。瞬きするたびに世界が煌めいてとても綺麗だ。
今度は私が「サプラーイズ」って会いに行こう。明日の空はきっともっと光っているだろう。




