枝話「藤野颯は謝りたい1」
話は少し遡る。
海鳴高校二年二組、田中一朗の友人の一人に藤野颯という男子がいる。
これは偶然なのだが——ある意味運命で、彼は相澤琴音と同じ部活の友人、高松小百合の元クラスメートだ。
★
俺には忘れられない嫌な記憶がある。
「おい、颯もそう思うよな? 高松ってえらそうでムカついてならねぇ」
「えっ?」
小学校三年生の時に、特に親しくもないけど、話しかけられれば喋るクラスメートの一人にそう言われて、そいつはボス的な奴だったので、俺は曖昧な返事をした。
それが全ての誤りだった。
その頃の高松小百合はクラスで二番目に背が高く、女子たちに学級委員長に選ばれるような真面目な性格で、成績優秀、おまけに可愛いかった。
太っていないのにデブと言うなど、男子の一部は高松をしつこくからかう日々。
彼女は運動はあまり得意ではなくて、それでもしばしば男子にからかわれて、その日もそういう流れ。
俺はそういうのは嫌い。
でも、勇気が出なくて「やめろ」とか「好きな子には優しくしろ」なんて言えない男子だった。
いや、過去形ではなく、変わると誓ったあの日から今日まで、その性格は直っていないかもしれない。
その日、高松小百合は自分の椅子に着席しようとした時に、いたずらをする男子に椅子を引かれて尻もちをついた。
先生が日頃から叱っていたことをまたされた高松小百合は、三週間前と同じように怒ると思ったら、痛いと泣きじゃくった。
変な手のつきかたをしたようで、痛い、痛いと大泣きして、大きな目から大粒の涙を流してわんわん泣いた。
「私が嫌いだからってこんなのひどい。痛いよー! うえええええええん」
彼女の泣き声で俺の心は罪悪感でいっぱい。
「かまってもらいたいなら、嫌がらせなんてやめろ」と言えなかった俺のせいだ。
「違う違う、あの乱暴者のせいだから俺のせいじゃない!」と心の中で首を横に振ったけど、でも俺のせいでもあると感じ、大嫌いな水泳の授業で泳がされている時みたいな、ひどくゆううつな気分になった。
「うええええええ……。発表会があるのに……痛いよ……発表会に出られない……」
いつも勝気で女子を守っている高松小百合が泣いていることに、皆が驚いて誰も動かない。
俺もそうだったけど、ハッと気がついて教室を出て先生を呼びに行こうとしたら、その先生が教室に入ってきて、高松小百合に駆け寄った。
彼女はそのまま早退し、次の日から左手に包帯を巻いて登校。
それから二週間くらいはほとんど喋らず、男子を睨み、笑うときは友人たちに困り笑いくらい。
お喋りで陽気な彼女はなりをひそめてしまった。
二ヶ月かけて、徐々に元のようになったけど、男子、特にいたずら犯のことは睨むように。
からかわれても睨むだけで、それまでのように言い返さなくなった。
それからしばらくして進級。
俺と高松小百合のクラスは別々——一組と三組になり、離れた教室だからほとんど彼女の姿を見なくなった。
それまでの間に、高松小百合はソウというものを習っていること、ソウとは琴に似たもの、楽しみにしていた人生初の発表会があったけど出られなかったことを知った。
『二人ともさぁ、掃除当番を押し付けられたなら言い返さないとずっとされるよ』
高松小百合は、俺と友人にそう言って一緒に掃除をしてくれたことがある。
先生に報告するけど、自分が掃除を手伝った事は言わない。
そう言ったことがあいつらに伝わったら、女子に庇われた弱虫みたいに言いそう。
だから内緒ねと屈託なく笑った彼女は、先生に俺たちのことを報告して、次の日、あいつにチクリ女と喧嘩を吹っかけられた。
俺はそんな風に高松小百合に恩があるのに、何も返せずに傍観し続けて、挙句にあの手の怪我事件が起こった。
その頃の俺はヒーローに憧れていたけど、実際の俺はそんな風に敵で、しかも美学も可哀想な過去も何もない敵だった。
自分が悔しくて、情けなくて、耐えられなくなって、家でめそめそ泣いたら、父に気がつかれて、事情を聞かれて、父がこんな話をしてくれた。
高松さんに謝って、次からは助けること、お礼もすると伝えると良い。
有言実行って言葉があるだろう。だから、頑張れとも言ってくれた。
俺は弱虫だから、高松小百合のクラスへ行き、ごめんと謝る勇気を持てず。
時間だけが過ぎていき、五年生、六年生も高松小百合と違うクラスだった。
噂をされるのが怖くて、彼女に手紙を書いたり呼び出すなんてできないと考えて、自分の情けなさを改めて感じて落胆。
そんな時、『あのガリ勉高松は私立中に行く』みたいな話を耳にした。
あれ以来、極力喋らないようにしているあいつが、なぜか隣のクラスの俺に会いにきて、わざわざそう言ったのだ。
中学生になった俺は、もしかしたら彼女に謝れるかもしれないと考えていた。
小学生と違って中学生は大人だから。
年を取れば勇気が出るだろうと思っていたのに、同じ公立中学校に進学しないとは。
俺は気がついたら父に、まだ高松小百合に謝れないいくじなしのままで、このままではずっとそうだから、大人になる中学校でこそ励みたいという感じで、わーっと話した。
それで、だから彼女と同じ中学校へ行きたいと頼んだ。
振り返ると、なぜかかなり興奮していて、記憶があやふや。
俺は私立中学を受験することになり猛勉強を開始。
勉強は好きだし、苦手科目もなく、塾も楽しかったので無事に合格出来た。
合格してから、俺が受験して合格した海鳴中学校は男子校、高松小百合が受かったのは隣の聖廉中学校で女子校だと知った。
父に同じ学校ではないと文句を言ったら、知らなかったのかと驚かれた。
指摘されて、親に丸投げして勉強に打ち込んでいた自分のせいだし、男子の俺は女子校には通えないから、別の学校になるのは当然だと気がついた。
海鳴と聖廉は隣同士だから、同じ学校のようなもの、だから海鳴にしたと説明されて、父に感謝。
聖廉生は特徴的な可愛い制服で目立つ。
俺は彼女と同じ駅から同じ方向の電車に乗るから、痴漢などの悪い人から守ってあげるとお礼になると父に言われた。
同じ小学校から海鳴と聖廉に進学した生徒は他にいない。
彼女が通学で困っている時に、助けてあげられるのは俺だけだと。
卒業式の日に、俺はありったけの勇気を出して高松小百合に話しかけたけど、喉に言葉がつっかかって謝れなくて「学校が近いから見かけたら挨拶をする」「前に掃除のことで助けてくれてありがとう」としか言えなかった。
時々、高松小百合が泣いている夢を見る。
痛い、痛い、手が痛いと泣いて、なんで止めてくれなかったの? と俺を睨む夢だ。
★
俺が通う海鳴高校は男子校で、二年、三年は隣の私立女子校との合同授業や合同行事がある、少し変わった高校だ。
なぜそうなのかは知らないが、当時の理事長たちが男子校あるある、女子校あるあるを回避しようと話し合った結果、今も交流が継続しているらしい。
朝、同じ電車に乗る高松小百合はその私立女子校の一年生。
『たまに一緒の電車だな。俺のこと分かる? 同じ小学校でクラスメートだったこともある藤野颯だけど覚えてるかな?』
そう彼女に話しかけて昔話をして、その流れであの事件のことを謝ると何度も脳内で練習しているのに謝れていない。
高松小百合は、今日も今日とて女性専用車両がある各駅停車に乗り込む。
その姿をぼんやりと眺めながら、俺は同じ電車の別の車両に乗った。
俺は結局、今日も何もできず、ただ彼女の背中を見送るだけ。
同じ駅で降りるので、少し間隔をあけて、俺よりも背が高かったのに今は俺よりもうんと低いとか、昔はショートカットだったのに、今は緩い二つ結び……と、あの頃と違う彼女をぼんやりと眺める。
彼女は朝、錦町駅の改札前で同じ部活の友人二人と合流して登校している。
俺も駅で同じように友人と合流してから登校する。
なので、高松小百合たちの後ろを、同じ剣道部の四人で歩くことが多い。
たまに彼女たちが改札前で立ち話をしてから歩き出すので前を歩くことも。
錦町駅から俺たちの高校までは大体15分。
タイミングを見計らえばいつでも話しかけられるのに、俺は毎日、何もせず。
下校時もそうで、高松小百合と俺は同じ時間帯に部活が終わる。
朝、一緒に登校している同じ部活の友人三人に、自転車通学の一朗を加えた五人になり、喋りながらだらだら歩いて錦町駅に到着すると、高松小百合がスクールバスを降りる時間であることが多い。
「一朗、お前はなんで最近俺らと駅まで帰るんだ? 早く帰りたいって言っていたのに」と涼が自転車を押す一朗に質問。
それは俺も気になっていた。
「駅前のこの辺りで俺らを引きとめて、しばらく帰らないし」
「一朗〜くぅ〜ん。俺も変だと思いま〜す」
この中で1番陽気な和哉が一朗にウザ絡み。
こういう場面をスルーしないと誓って数年経つので「和哉、変な絡み方はやめろ」と和哉の背中を軽く叩く。
こういう事は言えるようになったのに、なぜ高松小百合に謝ることは出来ないのだろうか。
「んだよ、言いたいことがあるなら言え」と一朗が愉快そうに笑った。
「一朗はむっつりだから、可愛い聖廉生たちを見たくて、ついてくるんじゃないか? 正解?」
「そうそう。お前一人が彼女たちを見ていると浮くから付き合ってやってるんだ。あはは」と一朗は名前の通り朗らかに笑いながら、和哉の肩に軽いパンチを入れた。
和哉はネチネチしていなくて爽やかだし、一朗もウザ絡みに乗っかって楽しそうに笑うので、いつも不穏な空気にはならない。
「一朗、あざーす! 聖廉ってレベルが高いから眼福」
「良かったな」
和哉がいつもの「彼女が欲しいー」という口癖を言い、「聖廉生とアオハル〜」と鼻歌混じりになり、一朗が「バカは嫌われるから他の三人を見習え」と笑う。
「そうじゃなくてさ」
涼が否定の言葉を口にしたので、なにが「そうじゃない」のか思案。
涼は「一朗」と続けた。涼にはこういう変わったところ、会話が突然飛ぶところがある。
「涼、俺の何がそうじゃないんだ? 俺はむっつりじゃないって否定ならありがとな」
「違う」
「じゃあ、何?」
「一朗、お前さ、可愛い聖廉生たちを見たいんじゃなくて、一人だけを見たいんだろう」
瞬間、一朗は目を見開いて固まり、唇を震わせた。
「当たり?」
「……な、な、な、なん、なんで、なんでそんな! なんで!」
「変な行動が増えたし、いつも特定の女子を見ている気がして」
「……俺ってそうなの?」
友人ではない奴では見たことがあるけど、友人では初めて恋愛事で照れる男子の顔を見て、胸のまわりがくすぐったくなった。
「自覚無しか?」
「……いやある。ジロジロ見てることを……隠せているかと……」
こういう時に真っ先に質問しそうな和哉ではなくて、政が「どの子?」と問いかけ、一朗はぶんぶんと聞こえそうなほど、首を強く横に振った。
「被りは嫌というか被っていたら宣戦布告するから教えろ。俺は吹部のトクラさん。同じ一年」
「えっ? 政って聖廉に好きな女子がいたのか?」
その和哉の問いかけに、政は静かにゆっくりと首を縦に揺らした。
「いつ? なんで? 一朗も政も、俺らに内緒で聖廉生と知り合って仲良くなったのか?」
「いや、姉貴の後輩で……。挨拶しかしたことがない」と政が小さな声を出した。
「……俺は一方的に知っているだけ」
俺たちは仲間だ、来年は合同行事があるから頑張ろうと、一朗と政が静かに握手を交わす。
「あっ、あの子たちの誰か。そうだろう? 一朗」
「涼、やめろ。指をさすな。見るな」
あの子たちと涼が示したのは、聖廉のスクールバスから降りてくる女子たちのこと。
「どの子か分からん。教えろ一朗」
「教えるか!」
「政の子はいる?」
「いや、いつも朝しか見かけない」
高松小百合もスクールバスから降りてきたので、俺は思わず「二つ結び?」と質問。
「今日はポニーテー……だから教えないって!」
二人とも高松小百合ではない。
可愛いし、あんなに性格が良いのになぜなのか。
そうホッとして、なぜそう思ったのか理解して、声にならない声を出し、うわぁああああと政と一朗の腕を掴んで揺らしまくった。
動揺を誤魔化すために、頑張れと口にして、一朗にも同じことをしておいた。
俺は謝るべき、謝りたい高松小百合に長いこと片想いをしていたようだ。
この後、高松小百合たち聖廉生が、俺たちのいる駐輪場前を通って錦町駅へ。
その際に涼が「こんばんは。聖廉生さん、気をつけて下さい」と彼女たちに話しかけたので驚愕。
涼がそんなことをしたら、俺たちも挨拶をしないと変だから「気をつけて下さい」と口にした。
通り過ぎる女子たちが、次々と可愛い声で「ありがとうございます」と返事をしてくれた。
「気をつけて下さいですって。優しい」
「優しいですね」
「うん、優しいです」
「海鳴生さんって姿勢が良いですよね」
「綺麗な礼でしたね」
「剣道部さんのようですね」
女子たちの誰かが、小さな声でそんな台詞を口にしながら俺たちの横を通り過ぎていく。
和哉が「可愛い」とデレデレして、海鳴万歳とニヤけた。
一朗は余計なことをするなと、涼に小声で文句を言っている。
短い白いブレザーに、紺色に白いラインのあるワンピースという制服姿で、品良く両手でレトロなデザインのカバンを持つ彼女たちの中に高松小百合もいて、去り際、こちらをチラッと見て、会釈をしてくれた。
瞬間、どわっ! と変な汗が出て心臓がバクバクして、俺は和哉の頭を押さえつけた。
「ちょっ! なんだ一朗!」
「俺は何もしてないけど」
「それなら誰だ!」
「颯」
「ああ、悪い。つい」
「ついってなんだ!」
一朗が良くやった、ニヤニヤしている和哉を隠せと言いながら彼と肩を組んで、ロータリーに背中を向けた。
こうして俺たちは一朗と政には好きな子がいて、聖廉生であるということを知った。
それと同時に、自分はいつからか高松小百合に恋をしていたと自覚した。