枝話「藤野颯と運命」
一朗と相澤さんが無事に仲直りして良かった。
二人が散歩に行き、佐島さんと高松と三人で談笑していたら、相澤さんの両親が帰ってきた。
玄関で声がして気づき、相澤さんの祖母が俺たちに「予定より早く息子が帰ってきたみたい」と言って、リビングを横切る。
佐島さんが小さく笑い、高松に向かって話しかけた。
「確か、お父さんにはまだ秘密って言っていたから、キョウジさんと田中君の初対面だよね」
「多分、そうだよね」と高松が頷く。
「勉強道具がないけど、皆で勉強会だったでいいのかな」
「どうだろう。休憩でアルバムを見てたって言えば誤魔化せるかな?」
高松が悩ましげに首を傾ける。
「お邪魔しましたって逃げよう。きっと田中君との挨拶会になるし」
「真由ちゃん、お泊まりって言ってなかった? お泊まり道具があるなら家に来る?」
「小百ちゃんは荷物が無さそうだけど、泊まらないことにしたの?」
「うん。言いそびれてたけど、きっとお喋りしちゃうから勉強優先。明日も藤野君がスパルタで教えてくれるから絶対に補講になりたくない」
「じゃあ私は家に帰ろう。途中のことがあるし」
タイミングを見計らって帰ると決まり、俺は足の上で丸くなっているおもちをどかした。
初めての家——しかも友人の彼女宅で飼い猫の椅子になるとは。
可愛いけれど、もう帰るからお別れだ。正座だったし、おもちは鏡餅みたいにどっしりしているから足が痺れている。
「ちょっと待って、足が痺れて——」
ずっと大人しかったおもちが「にゃーにゃー」と鳴きながら俺の足にまとわりつく。
「あはは。藤野君、懐かれてる」
「おもちちゃん〜。藤野君は帰るんだよ〜」
ここへ、相澤さんの祖母と両親らしき二人が顔を出した。相澤さんの祖母が、俺たちは勉強会をしていたと嘘をつく。
「お邪魔してます。休憩し過ぎて帰るのが遅くなりました。そろそろ帰りますね」
「アルバム、ありがとうございました。懐かしくて楽しかったです。片付けず、すみません」
高松はそう言ったけど、佐島さんと二人でコップなどをきちんと机端に片付けていた。
「母さん、あちらは?」
相澤さんの父親らしき男性が俺をチラリと見てから、相澤さんの祖母に話しかけた。二人は親子のようだ。
「小百合ちゃんの幼馴染の藤野君よ。海鳴だから律の先輩。部活をしているのに中間テストで学年十位になったんですって。皆の先生」
「家庭教師を頼まれてきました。藤野颯です。お邪魔しました」
礼儀正しくして、印象を良くしておこう。高松の幼馴染と紹介されたし、一朗——相澤さんの彼氏の友人が無礼なのはいけない。
「にゃあー!」
おもちがなぜか俺の足を登ろうとして叫ぶ。
「こら、おもち。藤野君のズボンを引っ掻いたらだめよ」
相澤さんの祖母が俺からおもちを引き離してくれた。抱っこされたおもちは動きはしないけど、鳴き声はうるさいままだ。
「あらぁ、あなたが噂の藤野君。一ノ瀬君と一緒に皆の成績を上げてくれた。娘たちがお世話になってます」
「こちらこそお世話になっています」
相澤さんの母親らしき女性ににこやかな笑顔を向けられたので、精一杯、丁寧なお辞儀を返す。
「アサコさん、私はさっきの彼も藤野君のことも、その一ノ瀬君とやらも知らないんだが」
「一ノ瀬君は普通科で部活をしてるのに学年一位になったんですって。海鳴剣道部はかなりの文武両道よ。凄いわよね〜。ほらほらキョウジさん、着替え」
アサコと呼ばれた女性は、俺たちに「また遊びに来てね」と笑いかけて、キョウジさんの背中を押しながら去っていった。
相澤さんはあそこまで軽快ではないけど、おっとりした雰囲気は似ている気がする。
「話を合わせてくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ。琴ちゃんたち、帰ってきたんですか?」
高松の問いかけに、相澤さんの祖母は困り笑いを浮かべて肩をすくめた。
「そこに息子が帰ってきちゃったみたい。恭二の声がしたから玄関に行ったらいたの。朝子さんもそこに帰ってきた」
「田中君は挨拶会ですよね。だから三人で帰ろうって立ったところでした」
「気遣ってくれてありがとうね。キョウジのあの様子だと、全員をもてなしは難しいからごめんなさい。また遊びに来て」
駅まで送ると言われたので着いて行く。相澤さんの祖母はおもちを廊下に下ろした。すると、おもちはまた俺の足にまとわりついた。
その状態で玄関まで行き、靴を履くために腰を下ろしたらおもちが背中に乗ろうとしてきた。
「藤野君、すごく好かれてるね。おもち、ダメでしょう?」
相澤さんがおもちを抱っこして俺から離した。
「うち、姉貴が猫アレルギーで、出て行かない限り飼えないから嬉しいけど、なんで俺なんだろう」
「お姉さん、猫アレルギーなんだ」
高松に頷きを返す。
「中二の時だったかな。猫を拾って飼おうとしたら、姉貴たちがアレルギーだったんだ。特に二番目が喘息みたいになっちゃって」
「お姉さん、大変だったね。猫ちゃんはどうしたの?」
「学校に貼り紙をして、引き取ってもらったんだ。偶然なんだけど、同じ『おもち』って名前」
可愛い子猫で似たような柄だった。ガリガリで人間を怖がっていたので、家族全員で一生懸命、世話をした。
友人の彼女の家なんて、そう何度も来られる場所じゃない。これが最後だろうと、相澤さんの腕の中のおもちを撫でた。
「捨て猫を勢いで飼っちゃったせいで、事前にアレルギーを調べるという発想が出てこなくて」
「そうなんだ。おもちもね、中二の時に引き取ったの。張り切って飼ったけど、お父さんが猫アレルギーって分かったお家から」
相澤さんによれば、律君の先輩の家は、頑張って飼うつもりだったらしいが、相澤家がそれなら欲しいと頼んだそうだ。事前に調べて、全員、アレルギーは無かったので。
「琴ちゃん、それって確か、りっ君の友達のお兄さんのクラスメート、海鳴生の家からだよね?」
「そうそう。真由ちゃん、よく覚えてるね」
「藤野君、さっき似た柄って言ってたけど、その友達の先輩って、藤野君が猫を譲った家ってことはない? おもちって、どっちかっていうと人見知りなのに、藤野君にすごいじゃん」
「えっ? そんなことあるかな。藤野君、おもちは川島さんってお家から来たの」
「えっ? すごいな。うちが譲った家も川島さんだ。中二の時は五組だった。今はどこだろう」
「五組の川島さんだから……わぁ、おもち。拾ってくれた藤野君を覚えてるの。すごいねぇ〜、会えたねぇ〜」
相澤さんがニコニコしながらおもちを撫でる。ここへ律君が来て、「小百先輩たちは帰るのか」と聞いた。
「ばぁちゃん。小百先輩と真由先輩がせっかく来てくれたのに、夕飯くらい食べてってもらわないの?」
今、俺の名前はしれっと抜かされたな。
「一朗君と会っちゃったお父さんの機嫌が悪くて。皆に気を遣わせるから帰すの」
「律君、聞いて聞いて。おもちって捨て猫でしょう? 拾ったのがね、藤野君だったの」
高松は律君に向かって俺の名前を出さない方がいいのにそうしてしまった。彼女は鈍いから仕方がない。 高松からおもち話を聞いた律君は俺をチラッと見て、嫌そうな顔をしてから、姉——相澤さんに近寄った。
「良かったなおもち。拾ってくれた人に会えて」
律君がにゃーにゃー鳴き続けるおもちを撫でた。
「名前は藤野君がつけたの?」
高松が俺の顔を覗き込む。律君の前で近寄らない方がいいのに。
「真ん中の姉貴が、ガリガリから遠ざかるようにってつけた」
「バイバイ、藤野君。また遊びに来てね。おもちが会いたいって」
相澤さんが、おもちの前足を持ち上げて手を振らせる。おもちは「にゃあにゃあ」と、ずっと鳴いている。
「へぇ。面白いな。会いに行こうと思いつつ、川島さんとはそれきりで親しくなくて。いい家を探して頼んだって聞いていたけど、相澤さんの家だったとは」
会話でお嬢様なのは知っていて、家に来たらやはりそうで、あの捨て猫おもちはこの大きな家で大事にされてそう。
「会いに来てたら、小百ちゃんに剣道部の藤野君話をするから、元クラスメートだって話になって、もっと早く再会してたね」
「琴ちゃんと田中君が付き合わなくても、小百ちゃんと藤野君って再会したのかぁ〜」
「いや、どっちもなくても俺は高松に絶対謝るってずっと思ってたから、どうにか話しかけ……」
律君の前なのに、つい、口が滑った。しかし、一朗が思い出を隠して拗れたから、俺もこの勢いで高松に話をした方がいいのだろうか。
「絶対、謝る? なにを?」
「先輩は小百先輩に何をしたんすか?」
高松がまた俺の顔を覗き込む。律君には睨まれた。一朗が片手で目を覆っている。あれは「颯が口を滑らせた」という意味な気がする。俺もそう思っているけど、過去には戻れない。
「高松に前に謝った手の怪我のこと。高松は気にしてなかったけど、俺は自分の弱虫さを許せなくて……発表会、出たかったよな」
「それをずっと覚えてて、私に謝りたかったの? ずっと? あの時に思い出したんじゃなくて?」
高松の猫目が大きく見開かれていく。
「うん、ずっと。一朗と同じで、高松を追いかけて海鳴に入った。俺は中学からだけど……。再会した時はつい、忘れてたフリをしたんだ」
告白する日に言うはずが、皆の前で暴露することになるとは。高松は固まって何も言わないし瞬きもしない。
「藤野君ってそうなの⁈」
佐島さんが叫ぶ。相澤さんも「そうなんだ」と、大きめの驚き声を出した。
「……そうなんだ。それは思ってもみなかった……」
衝撃的なことに、高松は泣き出してしまった。
「ちょっ、ごめん! 何年も謝れない情けないやつだし、ずっとジロジロ見てたなんて気持ち悪い話だったよな! だから言うか悩んでたんだ!」
口にしてから、これも口滑りだと慌てて片手で口を隠す。これだと何年も前から相澤さんを見てた一朗を「気持ち悪い」と言ったようなものだ。
「違うから一朗! 俺はお前を気持ち悪いとは思わなかったから! 俺ら、一朗が誰って言わないから、ワクドの時までどの女子か気づかなかったくらいだし!」
とりあえず一朗に謝っておこう。高松は……もう後の祭りだ。
「ちがっ……。私、ずっと……」
「うわぁ、小百ちゃんを泣かせた! 藤野君! 責任を取って家まで送って! 私はお泊まりだから!」
「真由ちゃんは、家に泊まるんで送って!」と相澤さんが叫ぶ。
すると、律君が一歩前に出て声を荒げた。
「なんで泣かせた男と帰そうとするんだよ! 小百先輩も泊まればいいから、先輩だけ帰って下さい!」
「りっ君、邪魔しないで! 私たちは小百ちゃんの味方だから行くよ!」
話の流れ的に高松の涙は悪い意味ではないかも。
相澤さんが律君の腕を掴んで引っ張り始める。佐島さんも同じことを始めた。
「ちょっ、離せよ」
律君が暴れる。
「重いー! 一朗君、手伝って!」
「えっ? いや、それは……」
「手伝って!」
相澤さんに睨まれた一朗が、「はい!」と叫んで、律君を担いで玄関から遠ざかる。
「小百せんぱーい!」
「えっ、あっ。律君! これは嬉し涙だから大丈夫だよー! 心配ありがとうー!」
涙を拭いながら、高松が呼びかける。律君が気の毒になった。俺も前に「好きな人がいるんだ」攻撃で失恋したので、そのことが蘇って感傷に浸る。
「えーっと、嬉し涙なら……お邪魔しました。帰ります。話は外でします」
「すみません、玄関で泣いたりして。お邪魔しました!」
相澤さんの祖母の存在を思い出して慌てて頭を下げる。
「駅まで送りたいけどお邪魔しそうなのでここで。二人とも、また遊びに来てね」
玄関扉を開かれ、手を振られたのでもう一度、「お邪魔しました」と告げて高松と二人で家を出た。
門をくぐり抜け、確かこっちだったと思って歩き続ける。
「ご、ごめんね。急に泣いたりして」
「悪くはないけどビックリした。嬉し涙ってどういうこと?」
腹の中身が全部出そうなくらい緊張する。俺は息を呑んだ。
高松が両手でふわりと三つ編みを握る。その指先はかすかに震えている。
「……あの、私。ほら、手紙を書いたくらいだから……。挨拶……できないかなってたまに見てて」
「……そうなんだ」
日はまさに落ちようとしている。年々、過酷な夏になっていて、湿気と暑さはまだまだ容赦無い。しかし、今感じる暑さは期待による高揚熱だ。
「全然気づかれないから……私、藤野君の世界で透明人間だと思ってて……」
「……違くて嬉しかったってこと?」
高松は俺に手紙を渡せたと思っていたので、卒業式の会話を「一緒に登校を断られた」と誤解した。それなのに「挨拶しよう」と考えてくれていたことがあるなんて。
「……うん。私もね、忘れたフリをしたの。琴ちゃんの彼氏さんの友達が藤野君だったから、琴ちゃんたちのことをダシにして話しかけたの……」
「そう……なんだ」
高松は集中したいから全国大会後と言ったし、あれは俺のことをそれまで考えるという意味のはずだけど……今って、告白のタイミングのような——。
「……私ねっ!」
「ちょっと待った! それは聞きたくない」
意を決したような高松と目が合い、思わず叫んだ。
「俺が先に言いたいから待って!」
高松は俺を見上げて何か言いかけた様子で止まった。よし、これで……。
「す——「にゃあー! にゃあー! にゃあー!」
俺の『好きです』が猫の鳴き声でかき消された。足に、登ろうとするような感覚があるので下を見る。
家出したおもちが俺の足によじ登りたいというように動き、にゃあにゃあ騒いでいる。
「こらっ! おもち! 家から出ちゃダメでしょう!」
相澤さんがおもちを抱き上げて俺から引き離す。
「えっと……おかまいなく、続きをどうぞ」
相澤さんが申し訳なさそうに後退る。緊張が臨界突破して足の力が抜けてしゃがんでしまった。
「なんだよこれ……」
俺は「好きです」って言ったけど、あの鳴き声の中、高松は聞こえたのだろうか。聞こえなかった気がする。
「ご、ごめんね。おばあちゃんがおもちが外に出たっていうから慌てて追いかけたらこうなって」
「もういいや。格好悪いことばっかりだからもういい。高松、俺、気づいたのは去年だけど、多分小学校の頃からずっと好きだ……」
はぁ、と深いため息が出る。しかし、これでホッとした。全国大会の日まで保留にされて、自分のどんな面を審査されているのかと、気が気でなかった。
「私ね」の続きはきっと、「昔は藤野君のことが好きだった」だろう。考えさせてとか、時間をかければ的な話をされるはず。
「本当にごめんなさい〜」
相澤さんが、運動音痴そうな走り方で遠ざかっていく。お嬢様感が出ていて、吹き出してしまった。
「相澤さんって足が遅いんだ。なんか優雅で似合ってる。あはは」
「あの、藤野君……」
高松がしゃがんで俺と目を合わせて、困ったように眉尻を下げる。
「返事はいつでもいいよ。引き続き、検討よろしく」
「……私は昔から、ずっと好き。気づいたのは小三くらいだけど、多分、出会った小一の時から」
一朗たちの恋は、特に一朗は運命で奇跡だ。しかも俺たちのすれ違って切れた縁を、こうして赤くして結んでくれた。
高松の向こうの夕暮れの光が羽みたいに見えた。
彼女の涙でそれがさらにキラキラ光る。笑顔の眩しさによる錯覚かもしれない。
俺はきっと一生、この美しい光景を忘れないだろう。