ダ・カーポ・アル・セーニョ
色々あった土日の試験勉強会が終わり、月曜は通常授業を受け、放課後は真由香の家へ。
真由香のことだから、もう試験勉強はしないと思ったけど、やっぱりそうだった。
まだ勉強する気ならカフェに誘うつもりだったけど、予想通り違ったので、演奏ができるところ——我が家か真由香の家がいいと頼み、佐島家へ行くことになった。
真由香が我が家へ遊びに来る時も手ぶらと約束しているので、今回も単にお邪魔しますと家にあがった。
彼女の父親は海外公演に出ていて、母親は仕事中。姉は留学中だから、今日も家にはお手伝いさんしかいなかった。
昨日の日曜のことを真由香に話して、こんな演奏になったと再現。
その後、もう一回弾きながら、どうしてこう狂ったのかを、なるべく言語化して伝えた。
「……えーっ! 今から別の曲にして一から作り上げるの? 編曲もだよね? うわぁ、やる気出る」
やめてよ、というような顔と声で「やる気出る」だから笑ってしまった。
「小百ちゃんが大好きだし、七光りとは違う演奏ってアピールもできるし、全国の合奏との違いも出せるから、いっそ『満華光』はどう?」
「『話題性は最高だけど嫌』って言ったのに掌返しだ」
「そうだよ。話した通り、気持ちが変わったの」
「友情の音で演奏だと全国とわりと被るから、違う風に弾ける? それならいいけど。最後の、田中君に向けた音で弾くの」
「……そう言われると思って、自分なりに軽く練習してきた」
昨日からずっと、自分の中で小さくて無数の泡がぷくぷく湧いて止まらない。
朝から彼の手を取ったり、抱きつきたくてしょうがないので、自分を抑えるために一朗君断ち中。
弾いてほしいと言われて弾いたら、今度は「田中君が他の女子といちゃつく妄想をして、同じように弾いて」と指示された。
「……嫌だよ、そんな想像をするのは」
「精神に振り回される演奏は許しません」
「本番では余計なことは考えないよ」
「本気の本番の経験はずっと無いんだから信用できない」
その通りなので、嫌々、渋々、まずはそういう想像をしてみた。
美少女の『朝日ちゃん』が現れて、初恋の女の子と再会だと大喜びした一朗君にフラれ、いちゃつく二人を眺めて泣く……実際に涙が出てきた。
「うわっ、妄想で泣いた。それで同じように弾いて」
「泣かせたのは真由ちゃんでしょう?」
深呼吸を何度かして、同じ想像をしながら予定の音を出して、あとは演奏に集中するだけ。
どんなに辛くても、苦しくても、本番の演奏中なら、計画通りに予定の音を弾くだけ。
演奏が終わったら真由香に「合格」と言われた。
「ちなみにさ、思いっきり田中君といちゃつき妄想全開で、昨日みたいに集中しないで弾いてみて?」
「えっ。嫌だよ、恥ずかしい」
「方向性を決めるんだから、弾きなさい」
「はぁい……」
昨日、集中力を欠いたのは演奏途中からだったので、先程の演奏をしながら、私の思考を奪ったあの瞬間を再現できるように、途中から想像を開始。
一朗君が目の前にいて、目が合って——口にキスは早い、恥ずかしすぎる、きゃあって本気で照れたら、音がぺよよよんと四方へ跳ねた。
「ストップ!」
「……はい」
「ここまで心あらずだと曲にならないからダメだね。顔が真っ赤なんだけど、どんな想像をしたの?」
「次は……き、きす……とか……されるかもって……」
「へぇ。昨日、キスされそうになったから、初めての種類の音を出せたってこと」
「……あれは多分、してくれそうな感じだった」
「して欲しいんだ」
「……だって彼女だもん」
音でバレバレだろうから、素直に答えた。真由香は何も言わないけど、愉快そうにニヤニヤしている。
「その音なら『満華光』より……『地獄花』かな」
「聞いたことのない曲名だ」
資料室みたいな真由香の部屋の本棚から、いつもの通り、私の知らない楽譜が出てきた。
軽く譜読みした結果、箏を演奏できない人が頭の中だけで作った曲だと感じた。
「なにこの難曲」
「昔、お父さんがお母さんのために作って、恭二さんが弾きたいっていうから箏曲にして、『こんな難曲にするな』ってブチ切れられて、ここに眠ってる楽譜」
父が怒ったとは余程だけど、この楽譜だと怒りたくもなる。
「だってこれ、指の動きとか、色々おかしいもん」
「うん、おかしいよね。この曲はね、絶望の中でお母さんと出会って幸せひゃっほーって曲だから、今の琴ちゃんなら表現できそう」
君は地獄にさえ咲くことができる唯一の花で『地獄花』だそうだ。
真由香の父——佐島真一がニューイヤーコンサートで珍しく自らピアノを弾いて発表した自作のピアノ協奏曲。
真由香の母親が「曲も気持ちも嬉しいけど、おどろおどろしいタイトルが嫌」と言って、そのたった一度しか演奏されていないという。
「真一さんが指揮じゃなくて、舞台で弾いたなんて初めて聞いた」
「お姉ちゃんも私も観たことがない、超貴重なコンサートだよ」
「映像とかある?」
「それが、ないんだよ〜。お母さん、タイトル以外は好きだから、私も練習して弾けるんだ。ピアノで弾いてあげる」
真由香のピアノ演奏大好き。
弾いてもらったら、ラフマニノフの有名なピアノ協奏曲っぽかった。全く別の曲だけど、根本というか系統は同じだ。
「お父さん、ラフマニノフオタクだからね」
「そうなんだ。初めて知った」
「昔、弾いたなんて知らなくて、未発表曲だと思っていたの。お母さんだけ聴いたなんてズルいって言ったら、ニューイヤーコンサートで披露してくれるって」
その時は真由香の姉——七菜香がピアノを弾くらしい。
「お姉さん、親の七光りでも経験は糧になるから利用するって。向こうで何かあったみたい」
「そっか。海外で頑張る七菜香お姉さんに失礼だけど、少し今の私みたいだね」
真由香は真剣な眼差しで、ゆっくりと頷いた。
「そう思って『地獄花』はどうかなって思ったの。認知度ゼロだけど、自作曲じゃないからいいよね。ダメで審査対象外になっても琴ちゃんは気にしないでしょう?」
「うん。別にいい」
「そしたら、二人で弾けるような楽譜に編曲しよう」
まずは弾いてみようということで、譜読みをしながら手を動かす。
「……弾けなくないかも。箏を演奏できない人が頭の中だけで作った曲だと思ったけど、さすが真一さんというか、ギリギリ弾けるんじゃないかな、これ」
「えー、そうなの?」
「持って帰って、お父さんにも絶対に弾けないか聞いてみる。編曲もお父さんにさせよう」
「おお、琴ちゃんが本当に一皮剥けてる」
「真由ちゃんも、いつでも我が家の曽祖母の若い頃から、本当の自分になっても良いんだよ」
この部屋にある楽譜の中で、真由香が作った曲のうち、父が特に気に入った数曲が世に出ている。
大人同士できっと、真由香に著作権があるようにしていると思うけど、世間的には「相澤恭二の曽祖母が若い時に作った曲が蔵にあった」ということになっている。
「私は別に心境の変化とかないし」
真由香はあからさまに私から目を逸らした。
「あとね、真由ちゃん。真由ちゃんなら気づいているかもしれないけと、私、動画配信をしてる。アカウント運営はりっ君とおばあちゃんだけど」
「琴の音channelだよね。あのやる気のないゆるゆる演奏動画は何なのって聞こうと思いつつ、動画配信してるって教わってないから無視してた」
やっぱり、彼女なら気づいていたと心の中で呟く。
「学校で見せてるくらいの実力だと、あんな感じの演奏にならない?」
「そうだね」
「演奏動画はそこそこ再生されるけど、あなたも弾いてみよう系の動画は全然伸びないの。私は仲間を増やしたいのに」
真由香が肩をすくめた。
「圧倒的な感激が人を動かすなり。簡単だから始めてみよう? そーんなの、誰も始めないよ」
「りっ君も前からそう言ってて、演奏人口を増やすくらい感激させられない下手くそって。りっ君、私の本気の演奏を聴いてないから、本気で下手だと思ってるの」
「下手、上手くなれ。お前のせいで動画が回らない。箏の魅力が世間に伝わらない。りっ君ならそんな感じ?」
「そう。というわけで、本気で弾いた演奏も、世に出そうと思います」
「いいね、聴きたい。弾くのは流行り曲にしなよ」
「しばらくは小百ちゃんの好きな曲だよ。身バレしそうだけど、もういい。小百ちゃんに色々聴いてもらう」
「はいはーい! 私もリクエストする!」
深呼吸をして、恐る恐る、けれどもハッキリと声を出した。何かを察した真由香の笑顔が曇る。
「いいよ。あとね、私も小百ちゃんも真由ちゃんのピアノが大好きだから、私のチャンネルに参加して欲しい」
心臓をバクバクさせながら、そっと真由香の手に手を伸ばした。
触れた彼女の手は温かかったのに冷えていき、乾いていたのにじっとりと汗ばみ始めた。
「……それは嫌。お姉ちゃんが頑張ってるし」
「それなのにまだ真由香が上なの? そんなはずないよ。そうだとしても、もう二人とも凄いの領域で、優劣は個人の好みじゃないかな」
「……」
真由香はうつむいて目を潤ませた。
「動画に出てもいいけど……お姉さんにまた怒鳴られたら琴ちゃんのせいだからね」
「私だってりっ君にどやされるし、部内でも変な感じになるだろうし、他にも色々」
似たような大きな傷があるから、私たちはその傷を舐め合って、弱いままでいられる道を選んでしまった。
大好きなものを大好きだと世間に言えなくて、披露できなくて、自分たちの世界に閉じこもった。
二人なら勇気が出ると踏み出せたはずなのに、そうしないできた。
音楽の神様はきっと、私たちを孤独にせず、音楽を取り巻く世界を拒否しないでいられるように、二人を出会わせてくれたというのに。
私たちはどちらともなく抱き合って、しばらく泣いた。
もっと早くこうなれたら。そう後悔はするけど、でも、まだまだ遅くはない。
自分を見つめるようで怖いと少し距離を取ったり、他の人と親しくしようと互いに線を引いてきたけど、他人にはならずにここまでこれた。
これからはさらに、本当の意味での友人、さらには親友になれるだろう。それも、他の親友たちとは異なる、唯一無二の親友に。
この後悔も、喜びも、寂しさも、嬉しさも、私たちは以心伝心な気がする。
この日、私は久しぶりに佐島家から自宅に帰らなかった。
お互い演奏しまくって、音楽談義に花を咲かせ、明日から試験なのに寝たのは深夜過ぎ。
——そして、夢を見た。
私は王子様で、茨だらけの中で眠るお姫様の頬にキスをする。
目を覚ました真由香姫は驚いた顔をして、それから満面の笑みで私の手を引き、あの日——3人の約束が始まった日のピアノを弾いてくれた。
私はお姫様に大変身して、その音にうっとりしながら、マカロンを頬張る。
「朝日ちゃん、踊ろう」
「うん!」
大好きな真由香の演奏で、私の目の前で小学生らしき一朗君が浴衣女子と楽しそうに踊り出す。
「いゃあああああ!」と叫んだら目が覚めた。
「……うるさいよ、琴ちゃん。どうしたの? ゴキブリでも出た? いないはずだけど。家で見たことないもん」
お喋りしていたら寝落ちしたので、同じベッドで寝ていた真由香を、動きや声で起こしてしまった。
「……一朗君が『朝日ちゃん』に取られた。なんなのもう……最悪な夢だよ」
「朝日ちゃん? 誰?」
「一朗君の初恋の女の子」
「へぇ。眠い……」
彼女はそれだけ言って、またすぐに寝息を立てた。
外はまだ暗い。私は時計を確かめる気にもなれず、布団に潜り直した。
目を閉じても、夢の残像がまぶたの裏にちらつく。
あの日から変わらない約束と、まだ見ぬ「朝日ちゃん」の影。
その二つの間で心が喜んだり、胸がちくりと痛んで悲しんだりする、相反する二つの気持ちを抱えたまま、私は静かに二度寝へと落ちていった。




