怪獣
高松小百合は普通で真っ直ぐな女の子だ。
自分が上達すれば、相澤琴音——私はもう悲しい顔で「辞めたい」なんて言わないと、本気で思い込んだまま。
私の救世主——真由香の提案を聞いていたのに、いまいちピンってこなくて、上手くなれば私の望む合奏ができると信じて疑わない。
真由香が「ピアニストにはならない」と言い切った理由を、彼女は何も語らなかった。けれど私には察しがついたし、小百合だけが理解できずにいる。
高松小百合は、そんな、とても平凡な感性の女の子。
私と真由香は、小百合に手を引かれて、ずっと普通の道を歩いている。
でも、道は並走しているだけで、常に二つに別れていて、私と真由香だけが同じ道を歩いている。
それが分からない、そんな小百合だから、彼女は私に声をかけた。
『勇気が出ないから、コンクールに一緒に出て欲しいんだけど、どうかなぁ』
あの誘いには、私の嫌いな「相澤琴音の実力が埋もれたままなのは悲しい」という心理が含まれていたと思う。
大好きな親友のファン心理だから腹を立てなかったけど、別の人に言われたら、静かに、心の中でブチギレていただろう。
『真由ちゃんは嫌だって。それで、琴ちゃんにお願いしてみたらって言われたの』
その言葉で、真由香には狙いがあると悟った。
感性が似ている彼女が、理由もなく私にコンクールを勧めるはずがない。確かめると、やはりそうだった。
『小百ちゃん、悩んだんだけど、コンクールに一緒に出るよ。ただ、お願いがあるんだけど……』
私は小百合に頼んだ。学生の大会ではなく、社会人も混じる大きなコンクールに出たいと。
『記念なら、いっそ難しい方に出ようよ』
『そうだね。うん、分かった』
琴音は普段、能力をセーブしている。本気の演奏をようやくもう一度聴ける。小百合の顔にそう書いてあった。
彼女がとても喜んでいる様子が嬉しかった。だからその分、私の悲しみは大きい。
彼女はずっと私のファンだ。出会ったあの日から、私の音楽に恋をしてくれている。
それなのに、親友になったし優しいから、ずっと私に遠慮している。
——ごめんね。
☆☆☆
ひくらしの一室で、倫の箏を借りて演奏をした小百合に拍手が贈られた。
耳が悪く、指を動かす神経も鈍く、勘も要領も悪い、いわゆる才能無しの小百合が、こんなにも上手くなった。
プロやそれに並ぶ者なら演奏を聴けば彼女がどれほど努力したか分かるし、私は彼女をずっと見てきたからさらに。
努力は決して裏切らない。
私の頬を自然と涙が流れ落ちる。
演奏を終えた自慢げな小百合の、照れ笑いが眩しい。
この後に全力で弾くのは気が引ける。
それが小百合の望みだから——その言葉を盾に、私は真由香との約束を果たすための第一歩を踏み出す。
察しの悪い小百合は、私たちの想いに、いつ気づくかな。
演奏準備をして深呼吸をすると、体がどんどん冷えていった。
一音。
それは、世界を壊す音。
これから怪物が破壊の限りを尽くす合図。
(小百ちゃんの努力がどれほどなのか理解できるのに、私を選ぶバカ)
抑えようと思ったのに、審査員は今、目の前にいないのに、怒りが指を支配していく。けれども、それは制御して演奏に利用するもの。
光が強ければ闇は濃くなる。小百合が平凡で普通で眩しくて、私たちを照らした強さの分、心の中の怪物は育っていった。
私の中の怪物は、かつて私を音楽の世界——幸福を奪おうとした者たちを憎み続けている。それは、真由香も同じだろう。
『あんなにひけらかすように弾いて、生意気よね』
私も真由香も好きだから沢山練習をして、普通に弾いただけなのに。
あの頃の思いは、才能無しの小百合がどこまでも伸びていくことで、さらに強くなった。
(だったら練習すれはいいじゃない。下手くそたちのバカ!)
どうせ優勝なので、あんな界隈のために素敵な演奏なんてしてあげない。
かつて私を睨んだ者たちが、絶望して演奏家を引退しても知ったものか。
私は当たり前のように、コンクールで優勝する。
その時の曲は今、弾いている、絶望や嘆き、苦悩や葛藤を表現した曲。
それだけだと足りないので、仕方がないから原曲にある「再生」や「希望」も添えるけど、少しだけ。
一音。
それは、予感をさせる音。
悩める天才児が孤独の殻を破り、世界へ羽ばたく合図。
(と、見せかけて世間が望むような演奏家にはなりません。私はプロ志望たちを挫折させて終わる怪獣……)
本物なら燃やされても蘇る。折れて終わる者は何も成せない偽物か本気ではない者なので知らない。
小百合のように、私たちを助けなかったしっぺ返しだ。
この相澤琴音の音楽の続きは、女王聖廉の全国の舞台で。
皆が聴きたくなった相澤琴音の音楽はそこにある。そこにしかない。信頼する大好きな友人たちと一緒でないと作らない。
あれこれ評論する者たちはそこで気づくし、大衆は美しい『満華光』に大感激するだろう。
箏に興味の無い人たちも、今年は私のことを追う。
真由香と相談して、コンクールに出ると決めた。それを全国大会優勝への布石にする。
私たちは『朝ドラ作曲家相澤恭二』のことも『天才児』だったことも、『世界的指揮者佐島真一』も、その娘である真由香のことも、陳腐な感動話が好きな大衆心理も、全部、全部、利用する。
大好きな小百合と、最強最高の伝説の合奏をするために——。
ふと、一朗君と目が合った。皆と違って感激していなくて、とても悲しそう。心配そうな視線が、棘のようになって胸に刺さった。
『だから相澤さんも、自分の努力や才能を自慢してもいいと思う。そんな悲しそうな顔で……』
一音、音質が狂ってしまった。
『自分を下げる発言をするのって虚しくない?』
虚しくない。虚しくない!
傷つくよりもずっと……。
ああ、音が狂っていく。集中と計算が崩れて、これでは迷える若者の感情の爆発みたいだ。
『俺は凄いよ』
そう言いきれる彼が羨ましい。私もそんな風に、強くありたかった。
(演奏で自分を知って欲しいと思ったけど、弱い自分をさらけ出して、慰めてもらいたかった……?)
一朗君の悲しい顔が、ただただ辛くて苦しい。何も嬉しくない。
狂い続けた音は『お願い、笑って』という気持ちで、夜空を彩る花火のように煌めいた。
真由香と築き上げてきたこの曲は、もうめちゃくちゃだ。
(あっ、笑ってくれた)
小百合も笑っている。演奏中、彼女がどんな顔だったのか思い出せない。目が真っ赤だから、泣いていただろう。
(……そうだ。小百ちゃんのために出場するんだから、小百ちゃんが大喜びする演奏がいい)
どうでもいい人たちの誹謗中傷や僻み嫉みへの憎しみで、大切なことに気づかなかった。
小百合は私に嫉妬するけど、心の底から笑って『私も練習するね』と言う。言ってきた。行動で示してきた。
今日も「折れない」と宣言してくれた。
そのことさえ分からなくなるくらい、過去に囚われて縛られていたみたい。
演奏が終わって一礼をしたけど、小百合の時とは違い、誰も何も言わないし拍手もしない。
「えっと、すみません。未熟者なので、感情に任せて予定とまるで違う演奏をしてしまいました」
「うわぁ、琴ちゃんはやっぱり凄いね! 本当、魔法の指だ。独創なのに合奏みたいだった。ピアノ協奏曲を箏曲にした真由ちゃんも凄いね」
私の隣に来た小百合に手を取られて、指をふにふにされた。あれこれ難しく考えていた自分がバカらしくなり、唇が綻ぶ。
「凄いなぁ。どれだけ練習したの? 私より早起きだし、本当、凄いなぁ」
小百合の語彙力の無さにも脱力する。
「……私はほら、箏のことなら、小百ちゃんが一時間かけないといけないことを、半分以下で出来るから」
私は普段、こんなことは言わないようにしているので、小百合は驚いて目を大きく見開いた。
でも、花が咲いたように可愛い笑顔をくれた。
「それなのに私よりも練習してるもんね。他の曲は検討してないの? 最後の可愛くてキラキラした音ばっかりの曲とか」
「コンクールなのに? でも、いいね。『さくら』でもいいかも。小百ちゃんと真由ちゃんと出会った日の曲だよ。久しぶりに弾いてみようかな。遊びだから、楽しいアレンジを添えて」
「わぁ、やった。弾いて、弾いて」
クールで厳しい高松部長なのに、こういう時は子供みたいになるからおかしい。
「ふふっ、あはは。いいよ」
そうだ、高松小百合は普通なのに、普通ではない、魔法を使える女の子だった。
彼女の口から出た『コンクール』という単語で毒されてしまったけど、彼女はこんな風にあっという間に私を変えてくれる。
もっと弾いてとか、聴きたいと言うから、遊び演奏曲が増えて、いつでも聴きたいと言うから、律が『琴の音channel』を開設することにした。
開設理由には、祖母が孫自慢をしたいとか、孫とMe Tubeで遊びたいということもあったけど、元々の元々は小百合だ。
小百合は練習ばっかりでMe Tubeを観ないから、律の想いは彼女に届いていない。
「私は無敵になったのに、小百ちゃんには敵わないや」
「何? 私の演奏の方が下手だったよ。先生にも教わるけど、今度、どうしたらいいか教えて」
「そうじゃなくて。えっと、大好きってことだよ」
さくらさくら——独奏かつ編曲かつ即興アレンジを弾いたら、小百合は目をキラキラさせた。
(あとで真由香に電話して、怪獣になるのはやめるって言おう)
コンクールでは華々しくて楽しい、幸せな曲を完璧に演奏する。
「今から曲を変更かぁ。真由ちゃんに、小百ちゃんのせいだ、鬼って怒られるよ。私はどんな曲でも、完璧に仕上げるけどね」
演奏しながら、また自慢をしてみた。あまりの自慢屋はどうかと思うけど、このくらいなら。
わざと自己卑下したり謙遜するより、先回りして自分の心を過剰に守るより、心が軽い。
「なんだか今日の琴ちゃんは強気だね。どうしたの?」
「今日はね、無敵だから」
私なら音で伝えられると思って、『大好きです』という気持ちを込めて弾いて一朗君を見たら、彼のニコニコ笑顔は照れ顔になった。
(一朗君は凄いな。何年もかけて蓄積された頑固な嫌な気持ちを吹き飛ばしちゃった)
遊び演奏はしばらく続き、やがて箏を弾いてみる会に。
美由は「二人とも、こんなに上手くなったんだね」と私の予想とは違う、頓珍漢なことを言ったけど、それでいいやと流した。
案外、大会メンバーたちも、私がわざと実力を隠していたと思わず、「伸びた」と思うかもしれない。
(なんでもいいや。小百ちゃんと真由ちゃんがいるだけでも強くあれたのに、一朗君が増えて無敵なんだから)
楽しい時間はあっという間に過ぎて、再び勉強時間になった。