恐る恐る
二階から一階に降りると、一朗君は両親の前に座って仏頂面だった。私を見て微笑む。
「どう? 何か盗んだ?」
「なにも盗ってないよ」
「警部、彼女はとんでもないものを盗んでいきました」
「息子の掃除をしない心です」
この台詞の元ネタ作品は幼い頃に家族で観たな。クスリと笑いがこぼれる。
「ふざけんな! 面白くねぇよ!」
「盗まれていいものだったー」
「どんどん盗めー。次は家の手伝いをしないところだ」
「たまにしてるだろう!」
彼の照れが愉快で私はもっと笑ってしまった。すねたような一朗君が「じゃあ、お昼休憩は終わり」と宣言する。
ご両親に惜しまれながら玄関まで見送られ、「また遊びに来て」と笑いかけられた。
「ありがとうございます。ご馳走様でした。お話も楽しかったです」
「あとで皆におやつを持っていくからまたね」
「ありがとうございます」
田中家を出て、歓迎されて胸が温かいなと喜びに浸っていたら、日野原家から人が出てきた。
「えーっ! もう行っちゃうの?」
親たちより若い大人の女の人が残念そうな声を響かせる。
「美由ちゃんが勉強できないだろう! 俺も相応しい賢い男になるから勉強するって言っているのに、ペラペラ、ペラペラうるさいんだよ」
呆れた、もう嫌だみたいな顔の日野原君と、「お邪魔しました。楽しかったです」と穏やかに笑う美由がいる。
二人は日野原君の家族らしき大人たちに背を向け、こちらに向かって歩き出し、私たちに気づいた。
「琴ちゃん。心配をかけてごめんね。あの、この通りその、仲直りしました」
美由はとても照れた様子で日野原君をチラッと見て、はにかんだ。彼女はいつも可愛いけど、可愛さの種類が違う。
「おっ、一朗と琴音ちゃんじゃん。ひくらしに帰るところ?」
「おう。やばっ。威生のおばさんたちに捕まる。相澤さん、行こう。橋本さんも」
日野原家の人たちが一朗君の名前を呼んでいる。早く早くというように、一朗君は私たちを手招きして早歩きになった。
「ちょっ、美由ちゃんは連れて行くなよ。俺と二人で勉強会なんだから」
「私、皆に謝ってまた皆と勉強がいいです。分かる人に、苦手な数学を教わりたくて」
そう言うと、美由は私の手を取って歩き出して、コソッと耳打ちされた。
「日野原君、私の目線をよく見てて、誰に失恋したかバレちゃった」
「そう、なんだ」
「それで、応援するって言われたら悲しくて。私のことをす……きって言ってくれたのにって。それで喧嘩になってしまって」
「そうだったんだね」
「剣箏部内で波風立てたくないけど、もう心移り気味だから、大丈夫だと思う。特に今日は、小百ちゃんも藤野君も一ノ瀬君も鈍感だし」
「美由ちゃんがそう言うなら。日野原君は……良さそう」
後ろの方から、「またあの勉強合宿かぁ」と日野原君ののんびりとした声がしたし、チラッと見たらニコニコ笑っていた。
「改めて振り向かせるって約束してくれて、そうしてれるから平気。私も少しずつ返していく。自然に返せると思う」
「返す……あのね、美由ちゃん」
お互い彼氏持ち同士なのと、誰かにこの「わー」って気持ちを言いたくて、ほっぺたにキスしちゃったと教えた。
「わぁ! そうなんだ。大人になってる」
「気づいたらそうしたくて、えいって。仕返しだって、同じことをされた」
「きゃああ。最初は琴ちゃんからだったんだ。そっか。しちゃっただもんね。されちゃったじゃなくて」
「うん。えへへ」
どうしてそうなったのか、どこでかと質問された。逆の立場なら私も同じことを聞く。
日野原君が美由——彼女を褒めまくるから、感化されたのか一朗君も少し似たことを言ってくれた。
そうしたら私の中で好きがぷくぷく湧いてきて、それがつい、彼の部屋で溢れた。そんな感じ。
「わぁ、ドラマや漫画みたい」
「確かに、そんな感じで現実感は薄いかも。まだドキドキしてるけど」
背後にいる二人に聞かれたら恥ずかしいので、小声でヒソヒソ話している。
日野原君はというと、自分たちは家でどんな感じだったのかを一朗君に伝えながら、「美由ちゃんは可愛い」を連発している。
「お前の橋本さんが可愛いのは、もう分かったから」
「ことねぇ〜。褒めてくれない人なんて嫌ぁい。昭和生まれの寡黙男子はやっぱりダメね」
「俺らは平成生まれだろう」
「琴音、そんなに愛想の悪い田中君なんて嫌ーい!」
日野原君は早坂と同じくからかい屋だ。
「うっせ! 好かれてるか……」
パチリと一朗君と目が合った。羞恥心に襲われて慌てて前を見る。
「あはは。そうやって自慢しやがれこのやろー。良かったなぁ、良かったなぁ。あはは、妬ましいなぁ〜」
「ちょっ、やめろ!」
気になって確認したら、一朗君は首を腕で抑えられ、お腹を拳でグリグリされていた。
「やばっ、折れてるんだった。痛ぇ」
「肋骨が折れているのに暴れるなよ。橋本さん。慣れたらこんなだから、今からやめた方がいいですよ」
「やめろ。幼馴染がやめろって言うと信憑性が高いからやめろ。俺を勧めろ」
「日野原君、肋骨が治らないと痛くて辛いので大人しくしましょう」
「はぁい。美由ちゃんは優しい〜、好きだ〜」
「ウザいから俺の横を歩くな」
一朗君はそう言い、私の隣に並んだ。すると、日野原君が3人横並びは邪魔だからと美由を呼び、彼女は「いいですよ」と後ろに下がった。
こうして、私たちは前後2人ずつになってひくらしへ戻った。その間、日野原君は美由の横をちょろちょろして、あれこれこの辺りのことを喋った。
公園、犬、ラーメン屋など、私が一朗君から聞いたこととほぼ同じ。
でも説明の仕方が違うし、なにかと美由の褒めが入る。一朗君によれば「本当、別人みたい」らしい。
「勉強なんて、俺以上に嫌いだし、他人を褒めるけどあそこまでじゃないし、自分から女子の周りをうろちょろするのも見たことがない」
「そうなんだ」
「橋本さんパワーすげぇ。魔女子さんだよ魔女子さん」
今の言い方はあの作品のキャラクターに似ている。
「男子もララの宅急便を観たりするんだ」
「そりゃあ、妹だらけだから」
声真似というか台詞真似っぽいと思ったけど、正解のようだ。昨日も今日も色々な一朗君を知れて、共通の話題も意外にあると分かって嬉しい。
それに、彼の部屋で始まったドキドキがまだおさまらない。
☆★
ひくらしに到着すると、私たち以外はもう戻ってきてて、小百合が倫たちに箏を教えていた。これは、嫌な予感がする。
美由が小百合と藤野君に謝り、「二人になれたからすっかり仲直りしました」と笑った。
「琴音先輩が帰ってきたら、小百合先輩が弾いてくれるって言ってくれたんです。私たち、先輩たちのファンで」
「文化祭に来てくれたそうですね」
自分でも温かな気持ちが消えていき、体が冷えていく感覚が分かった。小百合が私をジッと見据えている。
「遅かれ早かれ、聴かれるんだから、今日でもいいかなって。それにこういうことがないと、琴ちゃんと真由ちゃんは、本番まで私に聴かせてくれないよね」
「……そうだね」
私は「一朗君の前では本気で弾かない」という言葉を飲み込んだ。
「私は折れたりしないよ。琴ちゃん。私たちは女王聖廉に集まった鋼メンタルだから、折れたりしない。いっそ折ろうとしてみなよ。全力で」
「……。小百ちゃんがそう言うなら。いいよ、私もちょうど、一朗君に聴いて欲しいって思ったところだから」
偶然にも、奇跡的に一朗君は私側の人間のようだから、きっと思いもよらない言葉を贈ってくれる。
そう信じたいけど、付き合いが短いので不安だ。手が微かに震える。
ついさっきまで幸福に包まれていたのに、胸のときめきは消えてしまった。
けれども、私は私を隠すことが出来る器用な人間ではないし、一朗君はめざとい——よく言えば相手をよく見てくれる人だから、隠し続けることはできないだろう。
(美由ちゃんはどう思うかな……)
隠してきたけど、間も無くそれは終わる。私がその道を選んでいるから。
だから、美由への開示は遅かれ早かれ起こるもの。
私は大きく深呼吸をして、小百合に「先に弾いて」と告げた。自分でも驚くくらい、冷たい声が出た。




