初めての田中家3
一朗君が戻ってくる前に——そう思って慌てて写真を戻した瞬間、指先にもう一枚が引っかかった。
それは、水族館へ行ったときの、私だけの写真。
「朝日ちゃん」も気になるけど……私の写真もあった!
胸の中はぐちゃぐちゃで、手が小さく震える。なぜか、この一枚だけがうまく戻らない。
「うわっ、泥棒が侵入してる。宝物なんてないのに」
背中の方でした明るい声がけに、心臓が飛び出て床にコロコロ転がる錯覚がした。
「こ、ごめん。つい」
「なんて。引き出しを遠慮なくガチャガチャ開けたりは嫌だけど、普通に見るのはいいよ。何か面白いものとか、気になるものはあった?」
「えっと……。半分くらい飛び出てて、気になって……」
そんなに出ていなかったけど、つい、嘘をついてしまった。「そんなことない」って言われるかな。
おずおずと、手にしたままの写真を自分の顔の前に掲げる。
「……これ、私の写真」
「……うわぁっ! それはそのっ、勉強をサボらないように見張りで!」
私の写真は取り上げられた。きちんとしまってあったと言われないので、彼は私の「半分出ていた」という嘘を信じたようだ。
「……そうなんだ」
このタイミングなら、「朝日ちゃんって誰?」と聞けたのに、言葉が喉に引っかかって出てこない。
私は初カノだけど、初恋の相手ではない。その事実が、ここまで胸にじくじく刺さるなんて思わなかった。
「あっと、えっとごめん。気持ち悪かった? それならやめるから」
「えっ? 恥ずかしいけど、気持ち悪くはないよ」
「そう? でも顔が赤くなくて、顔色が悪いから……」
「……」
場の空気が重たい。まるで、夏の終わりのプールの中に沈んだみたいに、もわんと濁っている。
そんなとき、読んだことのある少女漫画の知識がふっと頭をよぎった。
男子は不意打ちに弱い——そう思ったら、私は衝動的に彼に近づいていた。えいっと思いっきり近寄る。
(私にドキドキして、初恋を思い出しませんように)
最近、どんどん好きだから、それもあってつい衝動。彼のほっぺに一瞬、ちゅってして、彼の反応が怖くてうつむく。
「……」
何も言われないと思ってチラッと見たら、一朗君は目を大きく見開いて固まっていた。全く、瞬きをしない。
「はぁああああああ! ちょっ、まっ! 無理!」
大きな声で叫ばれたので驚いて、想像もしていなかった反応と台詞に戸惑う。無理って……嫌だったみたい。
悲しい……と思ったら、一朗君は「俺を殺す気⁈」と言い、みるみる真っ赤になった。
この反応は……死ぬほどびっくりした、照れたということ。
「無理」は前に公園で聞いた時と同じで「恥ずかしくて無理」という意味のようだ。
「……彼女だもん。ダメだった?」
「……」
この沈黙は、照れの表れだろうか。
「ダメじゃないです。むしろ……自由に殺してください」
彼は両手で顔を覆い、天井を見上げた。
「えっ? もうこんな恥ずかしいこと……できないよ」
私も思わず顔を隠す。我ながら大胆なことをしてしまったと、心の中で、きゃあきゃあと大騒ぎ。
「……じゃあ、あの、俺からは?」
彼は髪をかきながら、そっぽを向き、ぽそりと呟いた。
「へっ? あの、うん……。仕返しなら、お互い様でいいと思います……」
思わず、とんでもないことを口にしてしまった気がする。
彼は黙って私の手を取り、低い位置でぎゅっと握った。手が、とても熱い。
片方の手が離され、頬に触れられたので、「もう無理……」と声が出てしまう。
「わぁああああ」
声が勝手に漏れて、へなへなとしゃがみ込む。
「無理ぃ……」
「えっ、あっ、ごめん……」
「恥ずかしい……」
しゃがんだ彼は、赤い顔で照れ笑いを浮かべた。
「……ダメだった? 彼氏なんだけど」
自然と小さな笑い声がこぼれる。目が合って、吸い込まれそうになったまさにその時——
「一朗、琴音ちゃん! そろそろ二階へ行くからな!」
遠くから一朗君の父親の声がしたので、おろおろしながら立ち上がった。一朗君もあたふたしながら立つ。
少しフラフラするけど大丈夫そう。問題は……。
「わた、私、真っ赤じゃない?」
「トマトみたいになってる」
「わぁ……。あおいで……」
自分でも手であおぐ。一朗君は引き出しからうちわを出してあおいでくれた。
わざとらしい足跡が近づいてきて、出入り口のところに彼の父親が現れた。
「ん? エアコンをつけるか? 今日はわりと暑いもんな」
「長居しないからいい」
「あの、お気遣いなく。暑がりでして」
寒がりだけど、状況が状況なので嘘をついてしまった。
「琴音ちゃんのおかげで少しはマシな部屋になったな。毎日、朝のうちにこうしなさい」
「うっす」
「じゃあ、また5分くらいしたら来るから。せっかく家に来たのに、親の接待ばかりは疲れるだろうから、少しくらい二人で楽しんで」
「息子の部屋へ」は気遣いだったってことみたい。
5分後に見に来たのは、息子が彼女に沢山手を出さないようにだろうか。
「変な気遣いをしやがって……。えーっと、じゃあ……他に気になるものはある? それとも、もう下に行く?」
「恥ずかしいから……もう少し落ち着いてから下に行きたいです。えっと、あの、じゃあ、あそこ。タオルは飾りになったんだね」
「……うわっ! あれはその、あれも見張り! 試合で使う以外はああして、頑張れ俺って見張り!」
違う違うというように両手を振ってタオルを隠そうとしているけど全く隠れていない。
そして、「見張り」は何の言い訳にもなっていない。そもそも飾ってくれるのは嬉しい。
「やる気が出るなら嬉しいよ」
「……そう? あはは……。あっ、こことかは気にならない?」
こっちと移動したのは青いマットがあるところ。
「ここはトレーニングスペース?」
「うん、そう」
全然ドキドキは止まらないけど、顔の熱さは減ってきた。
彼氏ができたので美ボディを目指そうと考えつつ、実践はあまり。
筋トレなんてしたことがないので、道具が気になるから「どう使うの?」と聞いてみた。
「これは腕立て用」
「どうやって使うの?」
「えっ? 見たこと……ないか。律君は文化部だもんね」
こうやって使うと披露してくれた。腕立て伏せって、こんなに簡単に数回できるものだっけ。
「うわぁ、すごい」
「補助具ってすごいよな。こっちは腹筋。これは手首とかで、こんな感じ」
「全部、初めて見た。なんでこれは腹筋なの?」
「こうやって使うから」
腕立て伏せに続いて実演して見せてくれたけど、腕が鍛えられそう。そう言ったら、やってみたらと言われた。
挑戦してみたら、お腹がぷるぷるして腹筋に効くのは分かったけど、一回も出来なかった。一朗君は軽々としていたのに。
「きっつい……。運動部って凄いね」
「日々の積み重ねだから、毎日続けてしばらくしたらできるようになるよ」
「それは難曲と同じだ」
楽しいし、ドキドキも凄いけど、少し冷静になってきたら「朝日ちゃん」のことが再び気になってきた。 あの写真に写る浴衣女子は一朗君の何なの……。私の勘は「初恋の相手」だと告げている。
「あの、一朗君」
「ん? 何? それはダンベルだけど、ダンベルは知ってるよね?」
「うん。このことじゃ……」
いきなり両腕を軽く掴まれて、ドキッとして、何かと思ったら視線が交錯した。あっと思ったら頬にキスされたので思考が止まる。
なんか、ふにってした。
「……仕返し完了」
照れながら悪戯っぽく笑って、可愛いし格好いい。
「……」
私が初カノで、初デートも私で、これも私が初だろうから「朝日ちゃん」はもういいや。
「朝日ちゃん」は初カノができても、大切な写真立てからアルバムのどこかへ降格していない女子。
でも、今の私には敵わないはず。
照れが極まると声が出ない。もじもじして、視線も彷徨う。
「あはは、可愛い」
褒められて、頭ぽんぽんまでされた!
「じゃあ、行こうか。俺は先に降りてるから、落ち着いたら来なよ」
さっきは「無理」とか「死ぬ」って言っていたのに、彼はあっという間に成長している。なんで?
何回も深呼吸をして、壁に飾られている私が贈ったタオルを拝み、「だから大丈夫」と自分に告げた。
子供の時の初恋よりも、初めての両想いの方が強いに決まっているし、「会えますように」だからお別れしてそれきりだ。
だから「朝日ちゃん」は気になるけど、気にしないことにする。
私は今、世界中で一番無敵だ。