田中一朗と大和撫子
初めて女子に告白されたのは、小学5年生のときだった。
今思えば、運動が出来る小学生男子はモテるから、理由はそれだろう。
精神的にまだ幼かった俺は、仲良く遊んでいたクラスメートの女子に呼び出され、「好き」と言われても、それを友達としての意味だと勘違いして、「俺も」と答えてしまった。
その翌日、教室で「彼女の彼氏」とからかわれた瞬間、ようやくテレビや漫画で見ていた“好き”の意味と結びつき、思わず「違う!」と叫んだ。
慌てて「そういう意味じゃないし、俺は彼氏じゃない」とまくしたてた結果、彼女を泣かせてしまった。
盛大に恥をかかせたので、翌日から、彼女やその友人たちに睨まれるようになり、女子や女子の集団が苦手になった。
その年の夏休み、ジェイクの両親と姉家族が日本へ旅行に来た。
ジェイクは祖父の家「ひくらし」に長年居候していたアメリカ人で、今は結婚して近くに住んでいる。
ジェイクの甥、エイドは俺と同い年。初対面でそこそこ仲良くなり、気づけば俺もジェイクの親戚のように「ひくらし」に泊まり込み、毎日観光に出かけていた。
経緯はあんまり覚えていないけど、ジェイクが「一朗も」と騒いで俺を誘って、祖父母や両親にも頼んだんだと思う。
この夏休みの二週間は、かなり思い出深い期間だ。
毎日、毎日、朝から晩まで首都圏の日本観光に付き合ったから。"連れて行ってもらった"とも言う。
渋谷、浅草、鎌倉、皇居外苑、明治神宮、歌舞伎に相撲、花火大会、野球観戦、夢の国などなど、とにかくあちこちへ出掛けた。
彼らが箱根へ温泉旅行をした時以外は、全部一緒に過ごした。
その時の観光の一つ、歌舞伎観劇の日に、俺は『恋』というものを知った。
学んだのではなく感じて、『落下』を経験したのだ。
歌舞伎座へ着いて、エイドとゲームの話をしていたら、近くで小さな男の子が転んだ。
男の子と俺が近かったのは、男の子がてててっと走ってきたから。
ほぼ目の前で転んだのでしゃがんで助けたら、「ありがとうございます」という可愛い声がして、隣に人がしゃがんだ。
女子の声だと思って横を見ると、白い浴衣を着た同い年くらいの女子が微笑んでいた。
俺の周りにいる女子とは違い、とても白くて、髪は少し茶色くてクルクルしている。
瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。
「こら、りっ君。走っちゃだめよ」
「はちってないもん」
男の子が俺の前髪を引っ張ったので意識が戻った。 あの時は、昼間、突然寝るなんて初めてだと思ったけど、今思えば、あれは単に彼女に見惚れていただけ。
着物姿の夫婦が来て、俺を褒めてくれた。それから、男性が男の子を抱っこした。
「Ichiro. Isn't that a Yamato Nadeshiko? She looks like Asahi.」
俺に話しかけてくれたエイドは少し興奮気味だった。
確かに、俺たちが大好きな漫画の主人公、封魔が密かに憧れるお嬢様忍者の『朝日』に似ている。今の服装もだし、おっとりして見えるから。
「えっ? Yamato Nadeshiko? あー、うん、maybe.」
「お父さん、大和撫子だって。褒められて嬉しい」
「それならお礼を言いなさい。ありがとうって。英語でありがとうはthank youだ」
「それは知ってるよ。えっと、さんきゅー」
女の子は俺たちの前で上品なお辞儀をした。顔を上げた彼女は、とてもニコニコしていて、可愛くて、光っていた。
「Ichiro, why did she thank us?」
「Yamato Nadeshiko is ……ジェイク。褒められたって何?」
分からないことはジェイクに質問。
「褒め言葉でcomplimentとかどうかな。エイド、compliment is 褒め言葉」
「ほめことば。OK. やまとなでしこ、ほめことば、youは……きみ、きみ、うれしい。ぼくにthank you.ありがと」
エイドは日本語を使いながら、女の子に笑いかけた。
「ゆかたカワイイ。If it's okay, I'd like to take a photo with you. I'm taking lots of photos to commemorate my visit to Japan.」
エイドはまだ覚え始めの日本語を使うことは諦めて、彼女にも言いつつ、俺に向かって話しかけた。
「フォト? 写真? じゃぱん……分かった。撮ってあげるね。カメラはある?」
カメラを貸してというように、女の子は手を差し出した。エイドが「Wow」と言って握手をしようとしたので「違う」と教える。
「カメラマン募集じゃなくて、一緒に撮って欲しいって。エイドは初めて日本に来たんだ。その記念に可愛い浴衣の写真を撮りたいって」
あの時、その日はそんなに暑くなかったのにやたら喉が渇いていたことを鮮烈に覚えている。思い出してみると、あれは緊張だ。
「あなたは日本語がぺらぺらなのね。他の国の言葉をこんなに話せるなんてすごい」
「いや、俺は日本人だから」
「そうなんだ。それならあんなに早い英語がしっかり分かってすごいね」
「別に。友達に習ってるから……」
俺は人見知りしない性格なのに、この時ばかりはうつむきがちで、声も小さかったと思う。
これがおそらく、女子に対する初の照れだ。記憶のない幼い頃のことは知らないけど。
ジェイクが女の子の親に話しかけて、家族のために一緒に記念撮影をお願いできないかと頼み始めた。
この間に、女の子がカゴバックから、何かを出した。
出てきたのは金平糖が入った瓶で、彼女は「おばあちゃんが買ってくれたの」と笑った。
「えっと。これは、じゃぱんすいーつの金平糖。プレゼント」
ほとんど日本語だけど、彼女が何が言いたいか、きちんとエイドに伝わったと思う。
「Present? For me?」
「いえす、プレゼント」
瓶を差し出されたエイドは大喜びした。見たことがない、綺麗な流れ星型のお菓子だと。
俺たちは彼女の家族と写真を撮ってもらった。
ジェイクがカメラマンで、その他全員。俺がカメラマンをして俺以外。それから、彼女と俺たち二人。エイドと彼女だけ。そしてなぜか、俺と彼女だけ。
ジェイクが代表してお礼を言うと、女の子の両親も祖父母も「いえいえ、日本を楽しんで下さい」と笑顔を残して去っていった。
去り際、彼女が老人が落としたハンカチを拾って渡すところを目撃した。
花の名前には疎い俺だが、後になって知った——あの日の浴衣の柄は撫子。
だからこそ、彼女はまさに“大和撫子”だった。
白地に色とりどりの花が咲く浴衣は、彼女によく似合っていた。
歩くたび、ふわりと揺れる帯が後ろ姿を包み、その姿はまるで羽が生えているようだった。
こうして『朝日』は、俺の心に住み着いた。
★
クラスメートの女子を野菜みたいに感じるようになった。
それは中学校に進学しても変わらず。俺は女子を見ては『朝日』とかなり違うと感じ、あの子みたいな子はいないのだろうかと、積極的にではないが探した。
あの可愛さ、品の良さ、おっとりした笑い方、親切さなどなど、『朝日』は他の女子とかなり異なる。
友人やクラスメートに「好みは?」と聞かれると、いつも『朝日』の顔が浮かぶから、俺はああいう子が好きなんだと自覚した。
中一の秋、涼に文化祭へ行こうと誘われた。
同じ剣術道場に通う親友——涼は、中高一貫校の生徒で、隣の学校は私立女子校。
俺は、その女子校の高等部の文化祭に誘われた。
涼は同じ剣術道場の先輩に頼まれて、招待券を入手した。
海鳴中の生徒は、わりと簡単に手に入れられるから頼まれたのだ。
「招待券がないと行けない貴重な文化祭だから行こう。俺の学生証が必要な招待券だから、俺は行かないといけないんだ」
「涼がいて、楽しいなら行くけど」
「先輩たちがあんなに行きたがるなら、楽しいんじゃないか? 全部奢ってくれるって」
「それは行くしかないな」
剣道の練習をサボるのは嫌だけど、その日の剣術道場は休みなので行くことにした。
中学校の日曜は部活がなくて、道場で練習していたから、文化祭に行かないなら自主練だった。
聖廉高校の文化祭へ行き、同じ道場の先輩二人の浮かれた様子を見て、『文化祭が楽しい』ではなく『お嬢様だらけで楽しい』だと判明。
俺は、それから多分涼も、大人のお姉さんだらけで最初は居心地が悪かった。
あちこち見て回って、食べ物をご馳走になり、楽しくなってきて、連れて行かれるまま、舞踊や演奏を楽しめるという講堂へ。
予想外のことに、俺はここで『朝日』と再会した。
その時はこう聞き取った"そうきょくぶ——音楽を作る部"による、琴の演奏会に彼女が出てきたからだ。
(……あれ、あの子だ。絶対にそうだ)
大人数の中の一人だし、端にいるけど、俺たちは後ろの方の席だったけど、目が良いからよく見えた。
薄いピンク色の着物姿で、動くたびに髪飾りが舞台の照明に反射して、きらきら、きらきらと光っていた。
「大丈夫だよ」
彼女は、隣にいる女子が明らかに失敗したときに、演奏を続けながらそう言った。
顔の向きや口の動きでそう言ったと思った。
この後のことはあまり覚えていない。
ただ、"あの子は聖廉中に通うお嬢様になったんだ"と思ったことは鮮明に覚えている。
中学2年になると背が伸びて、おまけに全国で準優勝したので、女子たちにヒソヒソされ始めた。
告白されることもあった。
でも、まるで嬉しくなかったから断った。
女子の好意を感じると、毎回、いつも「朝日ちゃんじゃないから」とか「朝日ちゃんの本名はなんだろう」と考えるから、この頃には自分の恋心を自覚した。
お嬢様学校の文化祭に行きたいと言いそうな人を上手く誘導して、涼にまた招待券を手に入れてもらった。
それでまた、俺は彼女の存在を確認した。
そしてこれで、自分の気持ちが更にハッキリとした。
彼女ともう一回話してみたいし、笑いかけられたいと。
勇気が出ないかもと思ったので、手紙を書いて持っていっていた。
でも、話しかける以上に恥ずかしくて渡せなかった。話しかけるどころか近寄る勇気も持てず。
家に帰って、手紙を破き、どうしたものかと悩んだ。このままでは、知り合いになることも出来ない。
ただ、一つ活路があった。
夏に全中で準優勝をして、早くも高校から特待生の話が来るようになっていて、他の学校同様、海鳴からも。
先輩が涼に「海鳴生はあの聖廉生と付き合うことが多いらしいな」みたいに言っていた。
つまり、俺も海鳴生になれば良い。高偏差値の名門私立高校に、俺のようなバカは今から猛勉強しても入れなさそうだけど、運良く、特待生の話が来ている。
来年の全中でも成績を残せばという条件付きなので、元々の"来年は優勝"とやる事は変わらない。そういうわけで、ますます部活に励むことに。
彼女のことがなくても、親が「部活だけではなく勉強させてくれるし、海鳴は経歴としていい」と言ったし、涼と団体戦優勝を目指して頑張りたいから選んだけど、『朝日』の存在は、俺が進路を決める理由の半分以上を占めた。
3年の全中で優勝して、スポーツ推薦で入学すれば少しは目立つはず。
そうしたらきっと、海鳴生と交流して、海鳴生が気になる女子高生は俺の存在に気づく。
親や先生に「高校は海鳴にしたい」と言ったら、海鳴から推薦をもらえても、学力試験の難易度は下がらないと知った。
課題を山のように送られ、日曜は呼び出され、勉強させられまくった。
落ちたくないから、涼に頼んで勉強の猛特訓もして無事に合格。ただ、全中は準優勝止まりで中途半端。それで推薦話が無くならなかったことにはホッとした。
海鳴高校に入学して、わりとすぐに『朝日』を見つけた。
動きたいから自転車通学中心にしたけど、雨の日など、電車で通学することもある。
電車の時に帰宅時間が被る大勢の聖廉生の中にあの子が紛れていたけど、俺はすぐ見つけられた。
他の聖廉生の多くも大和撫子系で、可愛い子ばかりだし、おまけに制服で三割り増し。
でも、泣いている子を慰めていたとか、具合が悪そうな女性に最初に話しかけたとか、『朝日』だけが大勢の中から浮かび上がる。
怖いものは少ないのに、ようやく近くまで来たのに、何のキッカケもなく、彼女に話しかける勇気は出せなかった。校章の色で同い年なのは分かった。
それで、彼女から近づいてもらいたいと考えた。
一年で部活好成績を成し遂げ、垂れ幕でバーンっと目立てば彼女の目に入る。
それで剣道部の鞄を持って近くをうろつけば、「全国で個人優勝した一年生がいるんですって」と言われるかもしれない。会いたいとか、喋りたいとかも。
そうしたら、予選前に足の指を骨折した。最悪だ。
クラスメートの仲介で、聖廉生に呼び出されたのできっと彼女だとウキウキして行ったら別人だった。落胆して、普通に断った。
下校中に駅で彼女と目が合ったけど、景色の一部だというように無反応。
運命の出会い、運命の再会は俺だけで、『朝日』からすると俺はモブキャラ。
高校1年の秋、2番目の妹——倫が、成績や我が家の家計的に逆立ちしたって入学不可能な聖廉を受験したい、せめて文化祭に行きたいと言い出した。
親が聖廉の先生に相談したら、受験希望者ならと、あっさり招待状が手に入った。
親が仕事を休めないというか、俺が付き添ってくれるなら休まない、隣の高校なんだから案内してあげて、お嬢様高校の文化祭を楽しみたいだろうと言い、妹の付き添い人は俺になった。
海鳴の友人たちと行く予定で、どうにかして『朝日』を見つけて話しかけるつもりだったので、妹のお守りは不満でならなかった。
倫にせがまれるまま校内を周り、あのバカは迷子になった。
友人と俺を残してトイレに行って、全然帰ってこない。
兄と一緒だから必要ないと、親がスマホを貸さなかったのが裏目に出た。
下手に動くのはどうなのか。悩んでいたら、倫は聖廉生と戻ってきた。
(朝日ちゃん……)
倫に優しく笑いかける女子は着物姿で、俺と挨拶をして、「お兄さんが見つかって良かったですね」と言い残して去った。
「コトネさん。どこへ行っていたんですか? もう本番なのに」
「花粉症っぽくて薬を飲みに。朝、飲むのを忘れていました」
そうして、俺は『朝日』の名前が『コトネ』だと知った。
肌がビリビリする、背筋や腹がぞくぞくする力強くて激しい演奏。
まるで琴に興味の無い俺でも心が震え、おまけに演奏終わりの観客席への笑顔で、"俺を見て笑った"と心臓を鷲掴み。
"俺を見て"は錯覚で、多分、他にもそう思った人はいるから、どうにか知り合いにならないと、他の男子に取られると確信した。
あの子がモテないはずがない、今さらだ、ヤバいと焦った。
あんなに上手に琴を弾くので「コトネ」は多分「琴音」だろう。
なんとなくスマホで変換して、古都音かもしれないとも思った。
部員たちと校門から駅まで一緒に歩くのはたまにだったけど、のんびりしていたら他の男子に取られると気づいたので、いつでも話しかけられるように毎日、部員たちと駅まで歩くことにした。
目は口ほどに物を言うという言葉のように、俺は「コトネ」を見過ぎて、俺の恋心はあっさり友人たちにバレた。
バレンタインデーに、聖廉生にまた呼び出しをされた。
きっと今度こそコトネちゃんだとウキウキして行ったら違った。
コトネちゃんにモテたいのにまた違うと悲しみながら断った。
それでその日、彼女が男子にバレンタインのチョコを渡したかどうか、会話の盗み聞きをできず。
いつの間にか恋人がいて「大好きです」とか言っているかも。そう考えると吐きそうになるし頭が痛くなった。
3月になり、ちょっと盗み聞きをできて、ホワイトデーのお菓子交換会がどうたらという会話で、多分、彼氏はいないと感じで安堵した。
まだセーフだったから、早く話しかけないと、何も始まらない。なのに、勇気は出ない。全国の決勝戦の緊張感よりも緊張して無理だった。
小学校の時に恋に落ち、偶然再会して再度。彼女と知り合いになりたくて海鳴に進学し、ようやく名前を知った。
あと少し、ほんの少し勇気を出したら知り合いになれる。会話できる。交際はその先にしかない。
でも、その勇気が出ない。
合同遠足の突撃タイムには、絶対に話しかける——
そのはずが、衝撃の瞬間が訪れた。
彼女が友人たちの前で、俺の名前を口にしたのだ。
「——……彼は海鳴高校2年2組、剣道部のタナカイチロー君です」
思わず声をかけると、彼女はみるみる赤くなった。
勇気を出して話しかけたけど、心臓が口から飛び出しそうになったし手足の震えも酷かった。
理由はまるで思いつかないけど、彼女は俺のことを好きかもしれない。
「……その、お話ししたいです」
夢か?
★
眠っている琴音ちゃんを眺めながら、数学のノートに書かれた「好きです」という文字を指でなぞる。
(俺こそ好きです。ずっと前から……)
ぷるぷる、艶々した唇に手を伸ばしてやめた。
触りたいけど触れない。勝手にはどうかと思うし、手が早いと嫌われたら最悪だ。
(琴音ちゃんが1なら、俺は100好き……なんて)
いつか話せるだろうか。俺からするとこの両想いは運命的で奇跡だと。




