ようこそ我が家へ1
さて、今日は土曜日で一朗君が我が家へ来る。
父は地方公演で不在で、母は父に一朗君の存在を教えていない。
母曰く、父は「娘の彼氏」という存在を「もしも話」でも受け入れ難そうだったから、まだ内緒にしているそうだ。
一朗君は私の母に「一日中勉強しなさい」と朝早くから我が家へ呼び出されたので、8時半には両橋の駅に来てくれる。
支度をして母が運転する車に乗って駅まで迎えに行き、1人で改札前へ行って彼と合流。
水族館の時はカジュアルな格好だったけど、今日は大人っぽく見える服装だ。
母にも言われて「いらない」と伝えてあったのに、どう見ても手土産というような紙袋を持っている。
逆の立場なら色々悩むので、あれこれ考えさせてしまったに違いない。
「わざわざ遠くまでありがとう」と言いながら車まで一朗君を案内して、母が「挨拶はあとで」と言って乗車を促したので乗車。
母が一朗君を助手席へ誘導したので、私は後部座席に乗った。
一朗君は「失礼します」と礼儀正しく車に乗り、緊張しているといようにゆっくりと息を吐き、シートベルトをつけると自己紹介をして、「よろしくお願いします」と続けた。
「琴音、海鳴生だから大丈夫だと思っていたけど、やっぱりいい子ね」
車を発車させた母は楽しそうな声を出した。ミラーには優しい笑顔が映っている。
後部座席から見える一朗君の横顔が、母の言葉で少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「一朗君は食べ物のアレルギーはありますか? 琴音にはないって聞いたけど、間違えだったら困るので確認」
「はい! ありません!」
緊張しているのか一朗君の声は大きめ。
「元気ね〜。剣道部なんでしょう? 男の子だし、沢山食べますか?」
「多分、普通だと思います」
「嫌いなものはありますか?」
「お気遣いなく。あの、邪魔にならないうちに帰りますので」
彼にこの間、母がお昼をご馳走したいと言っていると伝えたけど、迷惑だからと断られて、そのことは母に教えてある。
その時に母は「分かった」と言ったのに、この様子だと彼を昼食に誘うつもりだ。
「何を言ってるのよ。私は娘に『1日我が家で勉強しなさい』って言ったんですよ」
明るい声を出していた母が少し低い声になり、車内の空気が少しピリッとした。
「娘がテスト勉強期間中に1日遊びたいなんて我儘を言って、進学校に通う彼氏を困らせようとした罰として」
「いえ、困らされていません。賛同してすみませんでした……」
一朗君は素直に頭を下げた。
私が提案したことだと改めて母に言ったら、「同罪です」という言葉が返ってきた。
「だから一朗君、あなたは今日、我が家でみっちり勉強しなさい。琴音がサボらないように見張るの」
「は、はい。見張らなくてもサボらなそうですけど……家では違うんですか?」
萎縮したのか、一朗君の声は弱々しくなった。
「全然。よくできた娘で自己管理はばっちり。困るのはたまに行儀が悪いことくらい」
「お母さん、余計な話をしないでよ。そんなに悪くないでしょう?」
「行儀が悪い? 意外です。どんな風にですか?」
「一朗君も聞かないで。なんでちょっと楽しそうなの? さっきまでお母さんに緊張していたのに」
変なことを言われたくないし、聞かれたくなくてつい強い言葉を口にしていた。
「えっ? だって意外だから気になって。こほん。気になりましたので」
「親の前であれだろうけど、娘とはいつも通り喋ってちょうだい」
ここまでの会話だけで一朗君には早めに帰って欲しくなってきた。
2人ならずっと一緒にいたいけど、ここに祖母と律が増えるので良い予感はしない。
母は私が昨日、休憩だと言ってこたつでゴロゴロして、「おもちと遊んでいるから洗濯物は畳めない」と祖母に反抗したと暴露。
おまけに「アイロンは嫌い」と自分のブラウスのアイロンがけをサボったことまで。そんな話はやめて欲しい……。
一朗君にまだ猫のおもちの話を全然していなかったので、彼はその名前に食いつき、母とおもち話をした。
私の悪いところはスルーしてくれて助かったけど、心の中でどう感じたのだろうと不安になる。
家に到着して上がってもらい、祖母が玄関まで出迎えにきたので、一朗君は手土産を母と祖母に向かって差し出した。
手土産は祖父のお店で人気の詰め合わせだそうだ。
「ありがたくいただくからその分、お昼はご馳走させて。どうぞ」
車の中で母に「1日勉強しなさい」と言われたからか、一朗君は祖母のこの誘いに「お世話になります」と頭を下げた。
居間に集まり、堀りごたつに座って勉強のはずが、事前に用意したコップが2つ増えている。
自分たちは家のことをするから勉強していなさいと言っていた母と祖母がしれっと堀りこたつに座り、一朗君に話しかけた。
「琴ちゃんは照れ屋だから教えてくれないのよ。2人はどこで知り合ったの?」
「私もそれが知りたくて、つい家に呼んでしまいました」
「ちょっと、勉強しなさいって言ったのは2人なんだから邪魔しないでよ」
義理の親子なのに気が合う母と祖母は、「勉強の時間は9時からでーす」と同じ台詞を口にして、にこやかに笑った。
「……あの、前から気になっていたのでその、偶然ワクドで近くを通って……思い切って話しかけました。その、すみません」
「僕も照れるので話せません」みたいに言うかと思ったら、一朗君は真実を喋った。
照れくさそうだし、恐縮している様子ではあるけれど、なんか普通に暴露した!
「その時に初めて話しをしたの?」と祖母が微笑みながら質問した。
「はい」
「なんで琴ちゃんが気になっていたの?」
祖母がさらに続ける。
「たまに見かけて……親切だなぁと。おまけにか……し。だから他の人も気にしていると思います」
一朗君がたどたどしい返事をしていく。
「か」のあとはまるで聞こえなかったけど、「可愛い」だろうか。
「琴音、あなたはナンパされたのね。海鳴生にモテたって浮かれたの?」
「言い方!」と心の中で母の台詞に憤慨してしまった。
「違うから。私が麗華ちゃんと美由ちゃんに気になる海鳴生さんがいるって打ち明けたら、名前を言ったら、一朗君がたまたまそこを通りかかったの」
「……たまたまというか、見かけたからつい追いかけてお店に入りました。合同行事で話しかける材料が聞けるかもって……すみません、ちょっとストーカーです」
そうなの? と驚いていたら、母と祖母は「あらあら、2人して可愛い」と、まるで私の友人たちのように楽しそう。
「琴音はなんで彼が気になっていたの?」
「別になんでもいいでしょう」
「あはは。相澤さんがちょっと反抗期。家だとこんな感じなんですね」
母と祖母のせいで一朗君に笑われてしまった。
「みんな相澤さんなので、私は朝子さんで」
「私は志津さんでよろしく」
祖母が「いぇい」とピースをして、母は指ハートを作ったので頭が痛くなってきた。
こんなにテンション高めで対応されるとは思ってもみなかった。
「はい、分かりました。ありがとうございます」
一朗君はどう感じているのか分からないけど、表面上は爽やか笑顔を浮かべてくれている。
「あら、律。なんでそんなところにいるの。一朗君が来てくれたから挨拶しなさい」
母の台詞で気がついたけど、台所方面の扉が少し開いていて、そこに律が盗み見というように立っていた。
律は渋々というように姿を全て現して、「どうも、弟の律です」と小さな声を出した。
律は内弁慶で人見知りなので、予想通りの姿だ。
「こんにちは、田中一朗です。今日はご挨拶とテスト勉強に来ました。よろしくお願いします」
「っす。俺は部屋にいるんで」
律はそそくさと去っていった。母と祖母が「あの子は人見知りで」と弁明。
すると一朗君は、「それなのにわざわざ自分から挨拶に来てくれたんですね」と律のことを褒めてくれた。
それも、律の態度が悪くて気分を害したというのとは真逆の表情で。
「お母さん、一朗君のことを気に入っちゃった。お昼はパァッとすき焼きにしましょう。予約、予約〜」
立ち上がった母は「じゃあ」と居間から出て行った。それも、一朗君の「お構いなく」という言葉を無視して。
「琴ちゃんに聞いたんだけど、鎌倉デートは単に和服デートがしたかったんでしょう?」
「……あの、はい。あー、そういう話もするの?」
一朗君に聞かれたので、「たまに」と返事をした。
「鎌倉のことはちょっと反抗して、勉強してるのにって言って、それでつい、なんでなのかも……」
「2人とも着付けてあげるから、昼食後にちょっと散歩でもどうぞ」
祖母も「じゃあ、出掛けるまで勉強を頑張って」と言いながら居間からいなくなった。
「……。さっきのって、すき焼きとか着付けって元々の予定?」
「ううん。全然聞いてない。えっと、平気? 帰りたくなった? 大丈夫?」
「緊張するけど歓迎されて嬉しい。よし、評価が下がらないように勉強しよう」
一朗君は何日か藤野君に勉強をみてもらっていて、スケジュールの組み直しもしてもらったそうだ。
今日は暗記の日で、藤野君が作ったノートのコピーを活用するという。
私は見たことがないノートなので興味津々。
「琴音ちゃんもいる? 一応、コピーしてきた」
「見やすくて連想ゲームみたいだけど、これを読んで覚えるの?」
単語が線で繋がっていて、日本史のテスト範囲のポイントが流れで押さえられている気がする。
しかもたまに「ひげ」とか「ヤバいやつ」みたいな変わった書き込みや絵もある。
「書き写して、次は見ないで書いて、覚えていないところはまた書き写す。たまに教科書も確認」
さらに語呂合わせや小ネタは自分で変更して、より覚えやすくするらしい。
「ふーん。楽しそうだから一緒にしようかな」
「颯が二人でお喋りしながら作るとより覚えるかもって」
この間の勉強会で藤野君のノートはいつもの土曜の勉強会の時とは違って、こんな感じだったそうだ。
一朗君は前から知っていて、去年、真似をしたり工夫を教わって成績が入学時よりも良くなったという。
「二組は理系中心クラスなんだけど、俺はバカだから2人と同じクラス。成績不良で大会に出られないと優勝なんてできないからさ」
2人は自分の家庭教師係だと、一朗君は困り笑いを浮かべた。
「格好悪いけど、佐島さんが海鳴の成績順位表を手に入れていたから自分から暴露」
「自分の欠点を受け入れて頑張っているんだから格好悪くなんてないよ。真由ちゃん、海鳴の成績表なんて持ってるんだ」
「佐島さんは『藤野君、ここ、17位! だから助けてもらおう』って高松さんに言ったらしい」
「17位? 海鳴で? 中学がそうだから特進も含まれる順位だよね?」
「そう。涼なんて5位以内。俺がスポーツ推薦の学力テストに受かったのは涼のおかげ。2人とも部活がしたいって普通科」
勉強会で2人の聡明さは感じていたけど、まさかそこまでとは。
一朗君は、自分は素晴らしい友人を持ったと言いながら、ノートのコピーを利用して暗記を開始。真っさらなお絵かき帳に複写をしていく。
「一朗君ってスポーツ推薦なんだ」
言われてみれば、これまでの話でその可能性は高いと気がついた。
「うん。スカウトされたのに学力テストがあるし、補講だらけで大変だった。勉強はイマイチだから、ちょっと自慢してみた」
ここへ祖母がきて、「手土産ですけど」と言いながら和菓子を持ってきてくれた。
「以前、こちらのどら焼きをいただいたけど、とても美味しかったわ。また食べられて嬉しい」
「お口に合ったなら嬉しいです。ありがとうございます」
相変わらず一朗君の姿勢や礼は綺麗で私は見惚れたし、祖母の目がさらに優しげになった。
「んもうっ、本当に好青年。海鳴でしかも剣道が強いんでしょう? ネットで調べたら出てきたんだけど、全中準優勝二連覇だなんてすごいわ」
勝手に調べるなんて……と思ったけど、祖母心としては普通のことなのだろうか。
私はネットで一朗君のことを調べられるなんて考えたことがなかったけど、そういう方法があると分かると、母なんてすごく調べてそうだと感じた。
「あっ、はい。剣道はそこそこ強いです」
「わざわざ部活だけに打ち込めない海鳴を選ぶなんて向上心がありますね。将来を考えて?」
「理由は色々あるけど、そうですね。海鳴だと部活以外での学びや成長が沢山あると思いました」
「そうなの。一朗君、勉強も頑張ってね」
祖母は一朗君の返事を待たずに、ご機嫌な様子で「じゃあ」と去っていった。
「……ごめん。勝手に調べたみたいで」
「俺、剣道界隈ではちょっと有名だから検索されるのは慣れてる。むしろ琴音ちゃんは、何も言わないなぁって思ってた」
自分の長所は剣道なのに、そこを褒められずに、「他人に親切」みたいに言われたから、とても新鮮だったそうだ。
「ありがとう」と笑いかけられて嬉しくて、私も同じように言ってもらえて嬉しいと自然と笑う。
「さっきは格好つけたけど、海鳴にしたのは涼に聖廉女子で釣られたのが一番大きい」
そうなんだ。
「隣の女子校と合同授業があるぞーって感じですか?」
「ん、まぁ。この選択で琴音ちゃんに会えたね。う……運命的と思ったり……思わなかったり……。そんな感じデス」
照れているのか、一朗君の語尾は少しばかり変だった。
嬉しさと面白さで自然と笑い、私は「ワクドのあれこそ運命的だったかも」と、とても小さな声を出した。
縁側からポカポカ暖かい日差しが入る居間で、また2人の距離が近づいた気がした。