枝話「橋本美由と彼氏2」
私の隣を歩く田中君は、何も言わないで両手で髪の毛をぐしゃぐしゃとかいている。
たまに私を見て、何か言いたげに唇を動かすが、結局何も言わずに唇を結んでしまう。
「あの、日野原君のことで何か言いたいことがありますか?」
思い切って質問してみたら、田中君は驚いたような顔をしてから、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、あんなのは初めてだったから、わけが分からなくて。分からないのに、迂闊なことは言えないし…」
「やめた方がいいと言いかけていましたけど、彼にはやめるべきところがあるんですか?」
田中君は「ある」と小さな声を出した。
「でも、橋本さんには当てはまらないかもしれない。あの威生が、『付き合って』とか、『特別』って言うなんて…」
つまり、付き合ってとか特別なんて言ったことが無い人ということだ。
「もうみんな可愛いじゃない」と言っていたので、これまでは「みんな可愛い」だった。
「一人だけ特別が分かった」だから、これまでは誰が特別なのか分からなかった。それは「みんな可愛い」という言葉と繋がる。
田中君は彼に「好きな子と付き合え」と言ったことがあるようなので、好きでもない子と付き合ったことがあることも確定だ。
小百ちゃんの家に戻ると、遅かったし、私たちの様子が変だったので心配された。
「えっと、倒れてしまった人がいて、二人で協力しました」
藤野君に「その人は大丈夫だったんですか?」と聞かれたので、小さく頷く。
小百ちゃんがすぐに「良かった」と言い、心の底から安心したような表情を浮かべた。
そしてさらに、急な出来事に対応できてすごい、誰にでもできることではないと、私と田中君を褒めてくれた。
「美由ちゃんは前に後輩の具合が悪くなった時もテキパキ動けていたよ」
小百ちゃんが藤野君にそう言ってくれて嬉しいけど、彼が彼女との距離感の近さに照れた気がして、胸がチクチクしてしまう。
ただ、その痛みの強さは少し減っている。
ふと、日野原君が「美由ちゃんは魔女っ子だね。俺に魔法をかけた」って言ってくれた瞬間や、くるりと回って笑顔を浮かべた姿が脳裏に浮かぶ。
あの時、彼の申し出をOKしたのは、ヤケだったり、失恋の痛みに対する同情心だけではなかった気がする。
彼の真っ直ぐな好意に、私の心が揺れ動いたのだろう。
それにしても、田中君の挙動不審さと、その原因である日野原君の何かは気になる。
「あの、みんなは勉強を続けて下さい。私はちょっと電話をしないといけなくて」
この場の誰も「誰と?」とは聞かなかったので、自分からは言わず、小百ちゃんにベランダを借りたいと告げた。
「ベランダは冷えない? 私の部屋の方がいいよ」
「ありがとう」
初めて小百ちゃんの家に来たので、部屋も初めてだ。
私を自室へ案内した小百ちゃんは、慌てた様子で勉強用のデスクに近寄り、おそらく写真立てだと思われるものを慌てた様子で引き出しにしまった。
「ベッドでもこの椅子でも、クッションでも、好きなところに座ってね」
「……小百ちゃんって、藤野君が好きなの? 今のは写真だよね?」
演奏会以上に心臓がドクドクして、口から飛び出しそうだ。
これはカマをかけただけなので、「違うよ」と言われるかもしれない。
「……嘘、見えたの? うわぁ、恥ずかしい…」
小百ちゃんは両手で顔を覆うと、小さな声で「うん」と言って、顔をゆっくり縦に揺らした。
「だから今日は真由ちゃんが頑張れって勉強会を…」
ああ、そういうことか。
単に勉強が不安だったのではなく、藤野君を頼りたかったんだ。つまり、それには意味がある。
考えれば分かるのに、私がそれに気づいたのは今だから遅い。
もし気づいていたら、私の中で「帰る」という選択肢が浮かんでいたかもしれない。
それでも、結果的に日野原君という不思議な男子と知り合え、彼と一応彼氏彼女という関係になった。
「そうだったんだ。うん、それなら頑張って」
私は友達の恋を応援することを選んだので、そう言った。
胸がチクチクするけど、「君の魅力に気づかないバカよりも俺」と言ってくれた日野原君と、まるで私に興味がない藤野君の姿を思い出したら、痛みは少なくなり、気持ちも軽くなった。
「ありがとう。あの、えっと、じゃあ、私は向こうに戻るね」
小百ちゃんは動揺した様子で去ろうとしたが、思わず「待って」と引き留めた。
「その、気になるんだけど、いつから?」
足を止めて振り返った小百ちゃんは、顔を半分両手で隠した。
気が強くて、言葉も強めになりがちな彼女にしては、意外な一面だ。
「小学校の時から…」
その回答は予想外だった。私としては、先に好きになった人が先に頑張る権利がある気がするので、やっぱり踏み出さなくて良かったと胸を撫で下ろす。
私と小百ちゃんは、とても親しい友人ではなく、つい最近まで溝があったけど、これからもっと仲良くなりたいし、そうなる予感がある。
「じゃあ、その、また夜に。聞いてもらえたら嬉しいというか助かる。最近、混乱してて」
小百ちゃんは「お母さんによろしくね」と言い残して部屋をあとにした。
彼女が藤野君を好きかもしれないという勘は当たっていたと考えながら、日野原君に電話をかけようとしてスマホを見たら、Letlがきていた。
私は自分のことを知らないから自己紹介だそうだ。
家は田中君の斜め向かいで、兄と弟がいる次男。学校は市立船川高校で2年生。部活は柔道部。
あの感じで柔道部なんだと驚く。私の中の柔道男子の性格のイメージや髪型と違う。
彼はかなり髪が短かったけど、坊主ではなかった。
日野原威生【好きな食べ物はいなり寿司で好きな人はみゆちゃん】
日野原威生【みゆはどういう漢字?】
【少し時間があるので電話でも平気ですか?】
返事の代わりに着信があったので応答したら、彼の第一声は「電話が良かったからめちゃくちゃ嬉しい」だった。
「電話で喋ってみようって、俺に興味を持ったってことだよね?」
「……ええ。そうでなかったら、お付き合いしてみるとは言いません」
「すごい嬉しい。お礼に何かしたいけど、美由ちゃんは何が好き?」
「喜ばせようとしたわけではないので、お礼なんて要りません」
「好きでもないやつから何か貰っても嬉しくないか。それで美由ってどんな漢字なの?」
明るい声で、あっけらかんと自分は好かれていないと言われたので言葉に詰まる。
「えっと、褒美の美に自由の由です」
「美しくて自由な人で美由ちゃんかぁ。動きが綺麗だったから美しい字が似合うね。自由さはまだ知らないから、そのうち知れるといいな」
日野原君はもう何回も私を褒めているけど、いつもこんな感じなのだろうか。
「あの、骨折は大丈夫ですか? なぜ怪我をしたんですか?」
「平気、平気。これは部活でやった。心配してくれてありがとう」
「遅くなってすみません。こうして話すのは辛くないですか?」
「君の声で痛みが消失。美由ちゃんは薬ってこと。すごいね」
誰かの怪我や病気を心配して、このような返事をされたことは初めてだ。
「あの、日野原君は彼女がいたことがあるんですよね? 田中君がそのようなことを言っていました」
「敬語女子じゃなくなっていいからね。でもなんか可愛いからそのままでも。彼女はまぁ、いたことがあるというか、いない方が少ないかな」
そうなんだ……と胸がチクッとして、やはり自分は彼が気になっていると感じた。
突風のように現れたびっくり箱みたいなこの男の子は、どんな人でどんな世界を生きているのだろう。
「断ると泣いて可哀想だから、彼女がいない時に告られて断ったことがない。でもさぁ、俺を好きって言っておいて、みんなすーぐ怒るんだよね。なんなのかな、あれ」
友人たちは自分のせいだと言うから考えてみたことがあるけど、納得できたことはないらしい。
「どんな風に怒られたんですか?」
「付き合っているのか分からないとか、なんで一緒に帰ってくれないのとか、それは好きじゃないとか、色々」
私が何か言う前に日野原君はこう続けた。
自分は私にそういう、自分が言われて困った台詞は言いたくないから言わないようにする。
だって私は「好きだから付き合う」と言っていないから。
「念願の彼女って座を手に入れて、無視もブロックも浮気もしてないのに、百は無理だけど十くらいは合わせてるのに、みんな何が不満なんだろう」
どんな人とどのような会話や関係があったので何も答えられず。
この話は私に言わない方が良いことだから嘘だと思えない。
田中君が何か言いたげだったのはこういうことかと合点がいった。
「あっ。俺さ、言ってないかも。橋本美由ちゃん! 電話越しに聞いた会話で好きです」
また告白されたと固まっていたら彼の言葉は続いた。
「会ったら可愛かったからますます好き。これからもっと好きになる予感があるから大切にします。美由ちゃんはそうじゃないって分かってるから、気が向いたらLetlや電話をして」
「……」
告白された時は動転でそうでもなかったけど、今は心臓がものすごいことになっている。
和太鼓部の見学時に感じた、太鼓の振動が自分の全身を揺さぶる感覚に似ている。
「あ、あの。あの。みんなと勉強会中なのでまた。私も自己紹介を送って……そのあとは勉強をします」
「また? また電話してくれるの? やった。それなら俺も勉強しようかなぁ。勉強なんて好きじゃなかったけど、おかげでやる気が出た。ありがとう」
こうして日野原君との電話は終了。今年になってから、両手の指の数以上の男子とお喋りしたけど、日野原くんのような性格の男子はいなかった。
リビングへ戻ると何やら不穏な雰囲気だった。みんなが私に注目して、何か言いたげだけど誰も何も言わない。
「こほん、美由ちゃん。その、いきなり告白されて、その人とお付き合いするんだってね?」
最初に踏み込んできたのは小百ちゃんだった。田中君が私から顔を背けて頭を抱えている。
「うん。ほとんど知らない人だから今、ちょっと自己紹介してもらってた」
「あのさ! 言わないのは卑怯というか、自分の友達を庇うために琴音ちゃんの友達を騙すのは酷いと思うから教えるんだけど!」
そう叫ぶと、田中君は勢い良く立ち上がった。
「あいつ、小学校4年からほとんどずーっと彼女がいて! あいつが悪くてすぐ別れるんだ。1日だったこともある。恋愛感情が欠落した自己中で……」
田中君は「友情には厚いし家族想いだから悪いやつではないんだけど」と続けた。
「彼が悪くてとは、どのように悪かったんですか?」
「付き合うって言っておいて雑に扱って、不安にさせても無視して、だから好きじゃないなら付き合うなって言っているのに毎回同じことを繰り返すんだ」
「自分のことを好きではないと分かった上で付き合ってもらって、十はもらっているのに百を求めたら相手は疲れてしまうと思います」
なぜか私の口からスルッと日野原君を庇う台詞が出てきた。
思いもよらなかったようで、田中君は驚き顔で固まった。
「あいつ、橋本さんに何か言った?」
「田中君の様子が気になるので質問したら、多分本当だろうって話をしてくれました」
「橋本さんはそれでもいいってこと? いや、どうやら橋本さんはこれまでの彼女たちとは違うみたいだけど」
「田中君が言うべきなのは、彼に同じことをしないでだと思います。好きでもないのに付き合うと言ったのは私ですよ」
「いや、俺はあいつが究極ポジティブ人間だって知っているから別に。橋本さんも彼氏ってなんか楽しそうって言ったし」
「うん。楽しそうです。だって1日でこんなに褒められたことはなかったです」
唇が綻んだので照れて口元を隠した。
褒められたり好きだと言われて心が動いている私は、とても単純人間だと思う。
「えーっと……。橋本さんがいいならいいや……」
「みなさん、邪魔をしてすみません。勉強をしましょう」
ほらほらと促して変な空気を無視して勉強を再開。
小百ちゃんも真由ちゃんも何か言いたげなので「後で」と伝えた。
やがて真由ちゃんの家のお手伝いさんが迎えに来る時間がきて解散することに。
その時に私は、「小百ちゃんは私たちの手に負えないよ」と言った。
「2年部長が赤点で部活停止は困るので、藤野君、申し訳ないけど明日もお願いできないですか?」
「お願いします藤野様ぁ。琴ちゃんの邪魔をしないようにって見栄を張ったら、小百ちゃんはやばやばです」
私の真意に気がついたのか、真由ちゃんも乗っかってきた。
「ちょっと、2人とも。藤野君の成績が落ちたらどうするの? 私は自分で頑張るよ」
「いや、教えると覚えるから全然平気。確かに高松はこのままじゃヤバいと思う」
多分、藤野君は小百ちゃん以外の女子にはこう言わないだろう。
「うん、高松さんは颯塾に通学した方がいいよ」
勉強会中にちょこちょこ会話を橋渡ししていたので、田中君のこの発言は藤野君へのアシストな気がした。
こうして、小百ちゃんと藤野君は明日から2人で勉強すると決定。
この日の夜、真由ちゃんの家でお泊まり会をして、生まれて初めて自分の恋バナをした。
今日、私は自ら失恋する、諦めると決めたけど、予想外の出会いで胸はほとんど痛くない。
小百ちゃんは琴ちゃんと田中君が付き合うことになったので藤野君と数年ぶりに話すことができた。
私はそんな2人に胸を痛めて、日野原君と付き合うことになった。それはなんだか、とても不思議だ。




