枝話「藤野颯とトラブル」
その瞳に宿る光は、俺の短い人生では見たことのない暗さと激しさを帯びていた。
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松葉杖で殴られると、とっさに身をすくめた後のことは朧げだ。
大人の男が清田の腕を掴んで何か言い、気がついたら目の前に俺を庇うように一朗が立っていて、松葉杖を掴んでいた。
さらに、無意識にそうしたようで、俺の腕の中には高松がいて、「小さいな」と思った。
昔々は毎日見上げていたはずの彼女が、いつの間にか自分よりも背が低くなったことはよく知っているのに、その小ささに驚く。
「てめぇ! ちびの! 小百合から離れろ!」
清田の怒り声で我に返る。
状況を確認したら、清田は海鳴の浅川先生とスクールバスの運転手に腕を掴まれていた。
「離せ! ちょっと肩を動かしただけなのに、ストレッチなのになんなんだよ!」
そう言いながら清田がもがき、一朗が「お前が離せ」と両手で松葉杖を奪い取った。
その松葉杖はアスファルトへ向かって投げられ、さらに彼の足で蹴られた。
「おい、暴れるな!」
「大人しくしろ!」
清田を取り押さえる三人が、彼を俺たちから遠ざけていく。
「……藤野君に何かしたら絶対に許さないから! 大嫌い!」
俺の腕の中から出ようとした高松がそう叫び、そうだ、彼女が俺を庇うように現れたからとっさに清田から遠ざけたんだと思い出す。
苦しいかもしれない、女子を勝手に触るなんてと思ったけど、高松を離したら殴りかかりそうな動きをしているので、彼女を押さえながら後ろに下がった。
「高松、落ち着け。俺はなんともないから。挑発するな」
「近寄らないでって言ったのに!」
泣きじゃくる高松を学校の敷地内へ引きずりながら、軽い、細い、小さいという感想を抱く。
こんな彼女が男子に急に腕を掴まれたら、そりゃあ怖かっただろう。
俺に怖いと打ち明けた時の彼女の泣き顔が蘇り、今の表情と重なって嫌な気分が増していった。
「高松、落ち着け」
「小百ちゃん!」
佐島さんの叫び声がして、彼女と橋本さんが駆け寄ってきた。
聖廉の先生が校門を締めていく。
寒さではなく、恐怖で震えていると分かっているけど、それしかできなくてブレザーを脱いで高松の肩にかけた。
今日は地元駅に着く時間が平日よりもはるかに早いので、勇気を出して高松をご飯に誘おうと考えていたのになんて日だ。
★
この後はずっと慌ただしくて、あっという間に父が運転する車の中にいた。
先生や彼女の友人たちと高松に付き添い、何度も事情を説明したけど記憶は曖昧。疲れた……と後部座席の椅子に沈み込む。
既視感があるのは、小学校の時に高松が清田によるいたずらで怪我をした事件と似ているからだろう。
あ先生に事情を聞かれたのも、親が迎えにきたのも同じだ。
暗めの車内で光るスマホの画面を眺めて、別れたばかりだけど高松に何か……と指を動かしたら、Letlに通知がきた。
新しいグループトークが作成されて、グループ名は今日の日付で、メンバーは今日のあの騒ぎに居合わせた友人たちだ。
俺、高松、橋本さん、佐島さん……なぜ四人なのだろう。
あの時、一朗が俺を庇って清田の松葉杖を掴んで止めてくれたのに、その一朗がこのグループに招待されていない。
「父さん、母さん、動転していて気がつくのが遅くなった。一朗がいなかった!」
「一朗君って同じ部活の一朗君?」と助手席に座っている母が振り返った。
「いなかったって、今日の騒ぎの時に彼もいたのか?」
運転中の父は前を見ながら声を出した。
「そうなんだ。振り下ろされた松葉杖を止めてくれて。いつだ。いついなくなったんだ?」
記憶を辿ってみたけど、清田に立ち向かおうとする高松を彼から引き離したこと、佐島さんと橋本さんが来てくれて、先生も現れて……校門が閉まって、その時にはもう一朗の姿はなかった。
「松葉杖を? それならなんで聞き取りの時にいなかった。先生も何も言わなかったな。颯、本人に聞いてみたらどうだ」と父に言われた。
「うん、そうする」
新しいグループトークに、佐島さんが「大丈夫?」と投稿。
続けて、二人が「心配で心細いからお泊まり会をしている」という文と、佐島さんと橋本さんのツーショットが送られてきた。
二人とも、とても可愛らしいモコモコした部屋着姿だ。
俺は高松が好きだけど、可愛い女子二人がこのような可愛い部屋着姿だとなんか嬉しいというか得した気分。
さとまゆ【2人のおかげでぱーちー】
佐島さんがよく使う、ポップな絵柄のスタンプで「Thank you」ときた。
はしもとみゆ【さゆちゃん】
はしもとみゆ【まゆちゃんの家には楽器が沢山あるんだね】
橋本さんがピアノ、ヴァイオリン、サックスの写真を送ってきた。
2年部長高松小百合【今日は本当にごめんなさい】
さとまゆ【謝るならお泊まり会を開催してー】
はしもとみゆ【今度はさゆちゃんも参加のお泊まり会ね】
さとまゆ【来週は三人でさゆちゃんの家!】
このグループトークが女子三人ではないのは俺への「気にしていません」という気遣いや、「心配だった、大丈夫?」という意味だと解釈して、「今日はありがとう」と送った。
とりあえずお礼を告げたので、一朗に電話をしたら彼はすぐに応答した。
「颯、先生や保護者との話は終わったんだな」
「今日はごめん。それにありがとう。なぁ一朗、いついなくなったんだ?」
「それなんだけどさ。俺、あの時ちょっと怪我をして」
怪我をしたという単語を耳にした瞬間、背筋に冷たいものが伝っていった。
「おまっ、一朗。ちょっとってどのくらいだ? 病院には行ったのか?」
「病院? 颯、どういうことだ」という父が少し大きめの声を出した。
「今、聞いてるところ。一朗、病院には行ったんだよな?」
「平気なんだけど親がうるさいから行って、俺の予想通り、骨に異常はなかった。バレーで突き指したことにするからよろしく」
「ちょっとこのまま待ってて」
スマホを耳から離して、両親に一朗が怪我をしていたこと、病院で診てもらって骨に異常はなかったことを伝えた。
父が車を止めて、一朗の親と代わるようにと告げる。
親同士——おそらく父親同士の会話が始まったのだが、父は相槌ばかりなので内容の考察は出来ず。
「颯、一朗君だ」
父の手から自分の手にスマホが戻ってきた。
一朗は大事になるのが嫌で、学校に怪我のことを隠すために、騒ぎに乗じてコソコソ帰ったと教えられた。
「大事になるのが嫌ってなんで……怪我させられたのに」
「お父さんは彼のお父上に教わった。彼に聞いてみなさい」
「うん」
俺はスマホを耳に当てて、一朗の名前を呼んだ。
「ちょっと聞こえた。今日は大変そうだから、親父と明日にしようって言っていたのに悪いな」
「全く悪くない。大事にしたくないから学校に怪我のことを隠したってどうしてだ?」
「あのバカの罪が重くなるのは別に構わないんだけど、あいつ、市船の野球部だろう? 前にも言ったけど、市船の野球部には俺の友達がいるんだ」
「……ああ、そうだった。地元だもんな」
一朗がなんで清田を庇うのか分からないという考えは浅はかだった。
「部活停止にはならないだろうけど一応。あの場で痛い痛いって騒いだら、野次馬から口コミが広がったりで、変なことになったりするしれないと思って」
「つまり、痛かったんだな」
「まぁな。でもさ、琴音ちゃんが痛み止めを持ってて助かった。可愛いポーチにさ、色々入ってて女子だった。可愛い」
あっさりした口調な上に急に惚気られたので目が点。
多分、去年の足の怪我の時のように、彼の手の怪我は「ちょっと」でも「まぁな」というレベルでもない気がする。
そこを聞きたいのに、一朗は相澤さん話を続けた。心配して手を触ってくれたとか、指がほっそりしてスベスベだったとかそういう話だ。
「……良かったな」
ここからどう怪我の話に戻したら良いのやら。
「怪我して得した。さっき電話したのにもう喋りたいんだけど。困った。助けてくれ」
「あー……。じゃあまた電話したらどうだ?」
「あっ、琴音ちゃんからLetlが来た。もう寝る、お休みって言ったのに。本当、彼女って素晴らしいよな。じゃあ、また」
「今日はありがとう」も「また明日」や「休み」も口にする隙なく、何も言えずに通話終了となった。
Letlに通知が増えていて、新しいグループで女子三人の会話が繰り広げられている。
途中で佐島さんが俺をメンションして「寝たかな。疲れてるよね」という文を送っていた。
高松はその後ろに「ごめん」という文字、橋本さんは「お疲れさま」というスタンプを続けている。
【一朗と電話してた】
はしもとみゆ【あれっ】
はしもとみゆ【事情説明のときに田中君いなかったですね】
さとまゆ【そういえば!】
さとまゆ【カッコよく松葉杖を取り上げてくれたよね?】
2年部長高松小百合【覚えてない】
2年部長高松小百合【そうだったんだ】
颯【一朗はバレーの時に突き指して】
颯【病院に行きたいから俺に説明役を任せて帰った】
さとまゆ【突き指って痛そう…】
2年部長高松小百合【病院には行けたのかな?】
はしもとみゆ【バレーってボールの勢いがすごいもんね…】
颯【骨は問題なかったって】
颯【病院前に相澤さんが少し手当してくれたって惚気てたから元気】
はしもとみゆ【その話くわしく!】
さとまゆ【聞きたい!】
2年部長高松小百合【私も】
俺は一朗のことを質問され続け、それは家についても続き、今日の騒動を忘れられる会話で和んだ。
23時になると佐島さんが楽しいけどそろそろ寝ようと言い、お休みを言い合ってグループトークは終った。
なんとなく、高松には個別でも「おやすみ」と「また明日」と送った。
すると、「今日は本当にごめんなさい」という返事がすぐにきた。
【ありがとうがいい】
2年部長高松小百合【今日はありがとう】
【うん】
【また明日】
学校同士で話をしてくれるのが明日なので、俺と高松は明日の朝は念のために車通学すると決まっている。
親同士が話し合って、高松の父親が俺も一緒に送ってくれるので、俺たちは「また明日」だ。
明日で終わらないでほしいし、清田からの護衛役が終わっても、今のように一緒に登下校したいけど、俺たちはどうなっていくだろうか。
2年部長高松小百合【また明日】
今日は清田の親が海鳴と聖廉から呼び出されて、明日は学校同士で話すらしいので、高松の心が平穏になりますようにと祈る。
しばらく二人のトーク画面を眺めて、気の利いた言葉はなんだろうと考える。
「うわっ!」
悩んでいたら本人から着信があったので、心臓が口から飛び出そうになった。
「あの、またって言ったのにごめん」
「いや、全然。全く。怖くて眠れない?」
「ううん、あの。お礼は何回も言ったし、親と決めてお家に何か贈るんだけど……藤野君が欲しいものがいいなと思って」
彼女の声は少し震えている気がするので、多分、怖くて眠れないのだろう。
「ああ、そんなもの別に要らない……いや、あるからもらう」
遠慮したらきっと彼女は気にするから、もらえるものはもらおう。
「うん、何かな?」と高松の声が明らかに明るくなった。
冷静な時に考える方がいい気がするけど、今夜のこの変なテンションでないと言えなそうなので、思ったことを口にした。
「時間。高松の時間。高松にしか無理なものだろう?」
「……時間? どういうこと?」
「観たい映画があるからお互い部活が休みの時に、テスト返却期間中に行こう」
返事が怖くて、眠いから寝ると一方的に電話を終わらせた。
しかし、全く眠くないのでベッドの上をゴロゴロ、うだうだと動く。
「二人で」と言うのを忘れたため、人が増える可能性に気がつき、失敗したと頭を抱えた。
眠れないので調べたが、テスト返却期間中に観たい映画は特になく、女子が喜びそうな作品も見当たらず、勢いに任せた自分に呆れた。
★
今回の騒動をきっかけに、清田は高松の前に姿を見せなくなった。
親から聞いた話では、今回は部活関係者に事情を伝えない代わりに、高松と俺への接近禁止令を出し、清田側もそれを受け入れたらしい。
一朗の父親は、俺と高松の父親と話し合い、もし解決しなかった場合には一朗の怪我を公にして問題を大きくするつもりだったと教えてくれたが、その手段に頼る必要はなさそうだ。