勉強会とモヤモヤ
聖廉と海鳴の変わった交流のひとつに、海鳴の生徒が聖廉の自習室の一部を利用できるというものがある。
その利用できる講堂自習室の別名は『受験室』で、海鳴の生徒が聖廉にある申請書を手に入れて、自分たちの担任に提出し、両校からの許可を得ると、受験室のセキュリティーカードが手に入る。
申請書の存在が学校から一切知らされていないように、一階が三年生、二階が二年生、海鳴生だけでは使用しないという暗黙のルールも、代々先輩たちから後輩たちへと受け継がれている。
私が一朗君に人数分の申請書を渡して、海鳴剣道部の二年生は全員、受験室を使うためのセキュリティカードを手に入れた。
今日はみんなで勉強会をしようと約束した土曜日で、午前中は両校とも勉強時間にあてられており、部活動は13時から始まる。
8時の5分前に剣道部のメンバーと校門前で待ち合わせ、皆で受験室に入り、二年生専用の二階へ向かうと、まだ誰もいなかったので軽く見学をすることにした。
机、椅子、本棚、ホワイトボードがあり、備品も内装は綺麗だけど、装飾らしいものはなく、シンプルで落ち着いた空間だ。
死角がない作りで、監視カメラも複数あり、時間帯によっては自習を補佐する先生がいるのがこの受験室。
なんとなくみんなでうろちょろして、「綺麗だね」と誰かが呟き、声が静かな空間に吸い込まれていった。
他の生徒たちが来たのもあり、事前に相談していた通りの席に座り、さっそく各々の勉強を開始。
タイムスケジュールは45分間勉強、10分休憩で4コマに設定した。
私も含めて皆が真面目に黙々と勉強を進め、困った時には誰かに頼る。
そんなことがあると思ってもいなかったけど、最初の休憩の時に、一朗君が私にメモを見せてきた。
『相澤さんのノートに落書きをしていいですか?』
隣に座る一朗君の文字をたまに、こそっと確認していたけど、彼は数学の課題を進めていて、書いているのは数式ばっかりだった。
そのため、彼の文字を見るのはこれが初めて。
弟がそうだし、小学校の時の記憶で、男子の字はわりと読みづらいものだという固定観念があったけど、一朗君の文字は下手な女子よりも綺麗で読みやすい。
落書きしたいんだ、と心の中で笑いながら自分のノートに『どうぞ』という文字を綴る。
彼は何を書くのかなとワクワクしていたら、あまり怖くないポップなサメの絵だった。
そこに、『Get eaten by a shark!』という文字が添えられて、近くにかわいいウサギの顔も描かれた。
一朗君がスマホを取り出し、先週スカイタワーの水族館で買ったステッカーを指差した。
「相澤さんも描いてみて下さい」と耳元でささやかれて、心臓がドキッと跳ねる。
距離が近い……。
思わず顔が熱くなるのを感じながら、私もサメとうさぎを描いてみた。
すると、一朗君は机に突っ伏して、声を出さずに肩を震わせて笑い始めた。
何がそんなに面白いのだろう。
「何をいちゃいちゃしてるのかと思えば、落書きって小学生かよ」
ふと顔を上げると早坂君がいて、一朗君の背中に肘をついてグリグリしながら、私のノートを覗き込んだ。
忘れていた。私たちは他の人たちと一緒にいるのだ。顔が熱くなり、恥ずかしさでいっぱいになる。
「……相澤さん、なんですかこれは」
「サメです」
「へぇ。こっちはうさぎですか?」
その「へぇ」という一言には、腑に落ちない響きがあった。呆れたようにも感じられ、私は思わず言葉に詰まった。
「はい。ちびーぬの"うさ"です」
「えっ、うさ? これが? が、画伯だった。相澤さんはこの感じで画伯。しかも自覚があまりなさそう。なんで自慢げ」
ここは自習室なのでうるさくしてはいけないから、一朗君は小声でそう告げた。
そんなに下手ではなく、平均並みだと思うけど……と考えていたら、私のノートが旅をして、次々と笑われて、麗華が「琴音さんの弱点の一つは美術です」とバラした。
「しかも本人はそう思っていないです」
「だって、私は普通です。美術の成績もきちんと平均ですよ」
「それは筆記試験の高評価でです」
「じゃあ、みなさんもサメとうさぎを描いてみてください」と言ったら、お絵描き会になった。
一ノ瀬君と私は画伯だと笑われ、同じお題の絵がたくさん並んだので比較できた。
その結果、自信が減ってしまった。確かに、みんなの作品を見ると、私は上手くないなと感じる。
みんなでお絵描きをしていたら、休憩時間が終わりになったので、また真面目に勉強を開始。
次の休憩時間の際は、一朗君に誘われて飲み物を買うために廊下にある自販機へ。
「じゃんけん」
いきなり何? と思いつつ、グーを出したら勝った。
「あはは。いきなりだと人はグーを出しやすいんですよ」
「それなのにチョキを出したんですね」
「今日はご馳走しますって言うためにです。20円ならそう言えるので」
「また勉強会の時にじゃんけんをしましょう、だからどうぞ」と笑いかけられて、値段が安いからあまり遠慮せずに緑茶を選択。
一朗君は何を飲むのかなぁと眺めていたら、「ボタンを同時に押して選ばれたものにするから、ボタンを二つ押して下さい」と頼まれた。
「せーのでいきますよ。せーの」
一朗君はボタンを四つ押して、私は二つ押して、選ばれたのはコンソメスープだった。
「うわっ。喉が潤わないです。あはは」
自販機一つとっても楽しそうで、私も参加させてくれるからこちらも楽しい。
席に戻ったら、一朗君は私のノートに『がんばろう』と落書き。
彼は私の方を向き、少し下から見上げるようにしてニッと笑顔を見せた。
もし共学で同じクラスだったなら、毎日こんな風に楽しく過ごしていたかもしれない。
なんで私たちは男子校と女子校に通っていて、同じ学校に通っていないのだろう。
そうだったら良かったのに。
その後も勉強会は続いて、11時半過ぎに終了。
全員が充実感を感じている雰囲気の中で、次回の勉強会をすぐに開催しようと笑い合いながら受験室を出て、男子たちを見送るために校門前へ向かった。
さぁ解散というまさにその時、ユニフォーム姿の海鳴バレー部が現れた。
そのうちの二年生らしき生徒の一人が、一朗君に、「ここでなにをしているんだ?」と話しかけた。
前にファーストフード店で見かけたことのあるバレー部員たちが、まさか一朗君と知り合いだとは。
バレー部の二年生らしき数人と一朗君は、とても親そうに談笑を開始。
私とは少し距離があるので、何を話しているかは聞こえない。
剣道部のメンバーも私たちも、何となくその場に留まって、一朗君たちが話を終えるのを待つ。
不意に一朗君が、照れくさそうに笑いながら私の名前を呼んで手招きした。
もしかして紹介されるのかも、それは恥ずかしいと一瞬のためらいがあったけれど、勇気を出して一朗君たちの方に近寄った。
すると、一朗君が照れくさそうに笑いながら、海鳴バレー部たちに向かって「彼女になってくれた相澤さん」と私を紹介。
その瞬間、私の顔がゆっくりと熱くなっていくのを感じた。
一朗君は、海鳴バレー部の二年生を私に紹介してくれて、彼らはこれから聖廉のバレー部と合同練習があることも教えてくれた。
箏曲部はいつも室内で練習していて、今の時間帯にこのように外に出たり、体育館に行ったりしない。
私のクラスメートにバレー部はいないし、元クラスメートのバレー部とは、クラスが同じだった時に挨拶やほんの少し雑談をしたくらいの仲だ。
だから、聖廉バレー部が海鳴のバレー部と合同練習をすることがあるなんて知らなかった。
今日は入部したての一年生に実践経験をさせる日で、聖廉バレー部の二年生が中心になって相手をしてくれるという。
試合に出ないメンバーは各自または合同で練習をしてお互いを高め合う。
聖廉バレー部は強豪で、海鳴も負けじと頑張っていることくらいは知っていたけど、このような交流があるとは。
「そうだった。シラセさんが、またあの人はこないんですか? って言ってた。二刀流サーバーの人。つまり、一朗のこと。一朗のサーブでレシーブの練習をしたいって」
「俺? 殺人サーブのトビタ先輩やお前がいるのに?」
「対二刀流の練習がしたいって。二刀流はお前だけだろう。去年、手強かった市船のアタッカーが二刀流らしい」
「へぇ、市船。俺の妹も市船バレー部だ。そうか。あいつ、そういえば聖廉のシラセと戦うんだな」
一朗君が女子の名前を呼び捨てにしたと驚いていたら、ここに聖廉のバレー部の数名がやってきて、海鳴バレー部の部員たちをお出迎え。
一番背が高くてショートボブの、校内で見かけたことのある女子が、一朗君に「こんにちは」と話しかけた。
「あれっ、ユニフォームを忘れました?」
「俺はバレー部ではないので」
「バレー部じゃないんですか? ずっといないから、怪我だと思っていました」
「俺は剣道部で、バレーは趣味です」
その言葉を聞いた途端、彼女の表情がほんの少し曇ったので、私の胸にさざ波のようなモヤモヤが広がり始めた。
なぜ、彼女は一朗君がバレー部でないことに落胆したのだろう。
「剣道部なのに、あのバレーの上手さは驚きです」
「ミヤノたちと比べたら雲泥の差ですよ」
「そうそう。さすがに俺らよりは。でも下手な部員よりもよっぽど上手いから、そろそろバレー部になれよ」とミヤノ君が一朗君を軽く肘で小突いた。
「だから勧誘するな。バレーは趣味だって」
「えー、もったいないですよ。私もミヤノ君と一緒に勧誘します」
「それがさ、シラセさん。こいつ、剣道の実力はあの二刀流サーブの比じゃないんですよ。剣道こそやめたらもったいないんじゃないかな。って、勧誘を繰り返している俺が言うのもなんだけど」
この背が高くて、手足が長くて、細くて、可愛らしい顔立ちをした、一朗君と顔見知りの女子が、さっき一朗君が名前を呼び捨てにしたシラセさん……と胸のモヤモヤが増していく。
一朗君とミヤノ君が楽しそうに笑い合っているのは、正直気にならない。
ただ、そこにシラセさんが加わっているとなると、心は全くもって穏やかではない。彼女の存在がどうしても気になってしまう。
「これはやきもち?」と自分に問いかけながら、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けようと試みる。
しかし、なかなか心が静まらない。
こんな風に感情が揺れるのは初めてで、どうしていいか分からず、ただただ焦るばかりだ。
今度、一朗君はミヤノ君たちに混じって、シラセさんたちの練習を手伝うと約束して、会話は終わりを迎えた。
一朗君が、「妹が市船のバレー部にいるから、敵に塩を送るような形になるから、怒られるかもしれない」と話しながら、代わりに練習試合を組んで欲しいと依頼。
そのことを、監督や先輩たちに相談してもらいたいということで、ミヤノ君とシラセさんがその後のやり取りを担当することになった。
「待たせて悪い。行こうぜ」と一朗君が剣道部たちに声をかけて、私たちには今日のお礼を告げた。
「相澤さんはまた夜に」と笑顔で手を振られ、嬉しいのに、まだモヤモヤが晴れなくて複雑な気分。
まもなく合同遠足があり、それは彼と同じ班になれたし、他のメンバーは私たちの間には割り込まない剣箏部だ。
でも、その後にある合同行事や今日のような時に、一朗君の周りには女子が何人もいて、楽しく会話をするだろう。
勉強会の時は共学が良かったと思ったけど、今は共学でなくて心底良かったと感じる。
勉強会はあんなに楽しかったのに、そのすぐ後にこんなに気持ちが沈むなんて、恋って本当に忙しい。




