第九話 失踪
広間に集まった全員と分かれ、再びシャルウィルと二人で割り振られた小部屋へと戻ってきた。瓶の近くを見ると、水が溢れた様子はない。……よかった。今までの作業が徒労に終わる事はなかったようだ。
もう何度目になるか、瓶に手を当てて水平を保つ。その衝撃で水面が揺れて、ほんの少し瓶から溢れそうになったが、何とか地面に垂らさずにすんだ。次の休憩まで、順番は引き継ぐように話してきたから、あともう半分の二時間程度、水を溢さないように支えなければならない。
先程まではただ水面を見つめるだけで良かったが、流石に今度はそうもいかず、あの衝撃的な死体の風景が蘇ってくる。
血に塗れてわかりにくかったが、死体は間違いなくアッターで、それは手の傷が証明していた。全員が集まった時に唯一人居なかったのも、死体がアッターだという裏付けになるだろう。
ベルコの言葉通りなら、死因はンガカナ族に伝わる毒だという。毒の詳細はわからないが、迂闊に触れれば感染する危険性もあるようだ。そしてそれを取り扱えるのは現頭目の息子であるベルコだけだという。
これらを繋ぎ合わせると、最も怪しいのはベルコと言うことになるが……。
だが、それなら狙われるのは俺やシャルウィルといった姫さんの陣営の筈だ。同族であるアッターを殺す理由が腑に落ちない。
いや、違うのか。ヒュドラとやらを名乗る犯人の手紙からは、全員を殺すつもりの文面が残されていた。たまたまアッターが最初に狙われただけなのかもしれない。
「しかし、何でアッターだったのか……」
「え?」
知らず知らずのうちに口を出てしまっていたらしい。俺の独語に、シャルウィルはびくりと肩を震わせると、驚いた顔を見せて聞き返してくる。その顔は蒼白く、まるで先程まで相手していたゾンビやグールのように生気がない。俺の独語に反応こそしたものの、その瞳は虚ろに虚空を捉えていた。よほど衝撃を受けてしまったのだろう。あまり事件の事を考えさせるのも良くなさそうだ。
「いや……。そういえば、さっきは悪かったな。急いでいたから、少し乱暴に引っ張ってしまった。大丈夫か? 怪我とかないか?」
少し強引に話を切り替えたが、シャルウィルにとっても都合が良かったのか、何ともないというように手をパタパタと振っている。どうやら手の方は大丈夫そうだ。
「……瓶の水はあとどれくらいで溜まりそうですか?」
そう言ってシャルウィルは瓶の中を覗き込む。正確な時間はわからないが、もう三分の一も溜まれば水で満たせるだろう。少しずつ、バランスを保つのに力が必要になってきている。
「これなら後一、二時間もあれば溜まるか?」
「水を溢さなければ、でしょうけど……」
そう言うとシャルウィルは地面の方へと屈み込んだ。溢れた痕跡がないか見ているようだ。
ふと、こんなに人力を使わずとも、土台を水平にすればと良いという事を思い出す。勿論、剣や盾を使うわけではない。周りの土をならしてやれば良いのだ。
「シャルウィル、その付近の土は固いか?」
「え? ええ、少しは固いですけど、掘れないほどじゃありませんね」
「ならこの瓶の接地面が水平になるように、少しずつ周りから土を集められるか?」
「そ、そうですね……。手だと難しいですけど、何か……。そう、スコップみたいな物でもあれば……」
スコップか。そんな物は流石に持ってきてないよなぁ……。一応、モリーさんに準備してもらった荷物の中をシャルウィルに確認してもらうと、まさか本当にスコップが出てきた。
「……モリーさんは冒険者だったのでしょうか?」
「そう言われても信じられるな。でもなきゃ、ダンジョンの攻略にスコップを持っていく発想はでてこない」
いや、本当に。何を考えてコレを仕込んでおいたのか問いただしたい所ではある。ともあれ、これで周りの地面をならせる。大理石だとか、木造だとかの床でなくて良かった。
俺は瓶を支える事に専念して、シャルウィルに地面をならしてもらう。黙々と作業に勤しむシャルウィルから、ボソリと声が漏れてきた。
「…………ジールは、怖くないの?」
「そりゃ怖いさ。だけど、怖いと言っても何も解決出来ないからな。やれる事をやらないと」
「うん……。そう、だよね」
やはり何か目的があるというのは、頭の中を空っぽにさせてくれるらしい。先程より幾分血色の良い顔付きで、シャルウィルは地面をならし続けている。数分もすると、手を離しても瓶は少しずつふらふらと揺れなくなってきた。シャルウィルがならした地面を固めるように何度か叩くと、ついに瓶は安定して立つことができた。
「これなら手を離しておいても大丈夫そうだな」
そう言って手を離す。離した衝撃で水が溢れることも無く、安定して天井からの水滴を受けている。あとどのぐらいで満たされるのかはわからないが、少なくともこの瓶に人手を割く必要はなさそうだ。
「よし。他の連中にも知らせてやらないとな」
そう言って踵を返し部屋から出ようとしたが、シャルウィルが付いてこない。またあの生気のない顔で、地面に突っ伏したままでいる。
「……気分が悪いのか?」
「い、いえ……。ただ……」
「ただ?」
そう聞き返すがシャルウィルからの返答はない。ただ身体を支えるその両腕が震えている。さっきの言葉からして、恐怖心がまた蘇ってしまったのだろう。
無理に引きずって行く事も出来るが、流石に酷すぎるだろう。俺はシャルウィルの隣に腰を下ろして、荷物袋を漁った。
「な、何を……」
しているんですか、と尋ねられる前に、休憩していた時に食べた燻製肉を差し出す。
「腹が減ると悲しくなるんだと。誰が言ったのかも知らないが、言い得て妙だよな」
燻製肉をシャルウィルに向け、もう片方の手で自分の燻製肉に齧り付く。うん、美味い。さっき食った時と同じ様に、リンゴの爽やかな香りが鼻腔に広がる。
「そ、そんな事してる場合じゃ……」
「良いんだよ、別に。瓶に水は溜まっていってるし、俺らの役割は全うしてる。少しぐらい休んだって、罰はあたらないさ」
そう言って燻製肉をシャルウィルに近付けると、彼女は困ったように俺の手と瓶を見比べていたが、最後には燻製肉を手にとっておずおずと口に運び始めた。食事で本当に恐怖心が和らぐかはわからないが、さっきの食事でもこの燻製肉は清涼感を与えてくれた。いくらかは気分転換になるだろう。
「……ジール」
ハムスターの様にちまちまと燻製肉を齧りながら、シャルウィルが声をかけてきた。顔はまだ蒼白いが、会話が出来る程度にはゆとりが出てきたようだ。
「どうした?」
「…………何か、あたしおかしいのかな?」
彼女からようやく出てきた言葉は、どうにも飛躍しすぎていて理解できない。何をもって自分がおかしいなんて言い出しているのか。
「別におかしくないと思うが……。何か変な所があるのか?」
「だって、いつもなら死体を見てもこんなに動揺しない。死体の痕跡が気持ち悪いとか、そういう風に思う事はあっても、こんな怖いなんて思った事はなかったの。でも、今は怖い。怖いの……」
そう彼女はかすれ声で呟いた。間違いなく、シャルウィルの本心からの呟きだろう。彼女は過去に、自分の理想を目指すにあたって、こういった死体からは避けて通れないと、そう決意を示していた。その為に日夜魔術の研究に励んでいる努力を知っているし、死体から目を背けずに向き合ってきた姿も見ている。
だが、その決意が揺らぐほどの恐怖心が彼女に襲いかかっているようだ。弱音を吐く姿は見たことがあるが、こんなあからさまに恐怖心を露わにするシャルウィルは初めて見た。
「…………無理もないさ。今までの死体からは、『殺意』や『悪意』、『怨嗟』といった刃がお前には向かってなかった。だが、今回の事件では明確にそういった負の感情をぶつけられてるんだ。動揺してもおかしくない」
そう言って励ましながら、何か妙な違和感を覚える。何がと言葉には出来ないが、そんな俺の事情は露知らずにシャルウィルはこう質問してきた。
「ジールは何で平気なの?」
何故、か。……何故だろうなぁ。そんなに『悪意』を向けられた事はないんだが。ただ『三式観闘術』を覚えるために、それなりに修羅場は潜ってきたからなぁ。そう言った経験の差なのかもしれない。
「慣れなのかもな。少なくとも、シャルウィルよりはこういう荒事に身を投げる事は多かった」
人からの負の感情は別にしても、魔物や猛獣との命のやり取りには覚えがある。どいつも自分の命がかかれば、『殺意』を剥き出しにして襲ってきたもんだ。
「慣れるものなの……?」
「こんなもん慣れない方が良いに決まってる」
「じゃあ、あたしはどうやって勇気を出せば良いの? この恐怖心を打ち消すには、どうやったら……」
そう尋ねてくるシャルウィルの眼は真剣だ。さっきまでの虚ろな瞳から、ある程度意思を宿してきている。ここで上手く励ましてやれば、立ち上がれる気がする。
「別に勇気を持つ必要なんてない。今までだって、俺は勇敢に犯人と立ち向かうつもりなんてなかったしな」
そう告げると、シャルウィルは驚き目を見開いた。
何で、と言いたそうだが、必要なのはそれだけじゃないって教えておこう。
「別に恐怖に立ち向かうのは勇気だけじゃない。俺だったら、ここでどうにかしなきゃならないとか、姫さんの命に応えなきゃいけない、っていう義務感か。そういうので自分を奮い立たせても良いんだ」
「義務感……」
「別にお前が義務感を持たなきゃいけないってわけじゃないぞ? それは人それぞれ違うもんだ。好きな人への愛情だったり、野心のための自尊心だったり、何だって良いのさ」
そう伝えると、シャルウィルは眉を寄せて口を噤んだ。何が自分に合うのか、考えているのだろう。もっとも、俺が例に挙げたのは過去の犯人達の動機に近いものだ。恐怖心に打ち克つ心として、似たところはあるだろうが、真似て貰うのは良くないと思う。
「そんなに深く考えなくて良いんだよ。なりたい自分になるために、必要なモノを目指す心なんだから。お前の場合、何を差し置いても達成したいモノがあったろう?」
一応、そうやってフォローしておく。『解析魔術』を魔法へと昇華させようとしているコイツが、何故そう思ったのか、もう一度見つめ直させてやろう。
「魔法による冤罪のない社会……」
案の定、シャルウィルは自らの理想をそう語った。それこそが彼女の原動力だった筈だ。
「その理想を追求する心でもいいんじゃないか? 勇気なんて言葉じゃなくても、なりたい自分に……。いや、作りたい社会にするために持ってる心で、自分を奮い立たせても」
「追求する心……」
俺の言葉を繰り返すシャルウィルの眼には、少しずつ力強さが戻ってきている。この分なら、あと少し時間があれば立ち直るだろう。
「へへ……。ご苦労さン」
そう俺が思うか否かのタイミングで、嫌な言葉が聞こえてきた。声のした方に振り返ると、何故かボトウェが一人で近付いてきている。
「…………何でお前がこんな所に居るんだ? 今は別の部屋で瓶に水を溜めている筈だろう?」
その問い掛けに、ボトウェは大袈裟に手を広げると、身を乗り出してこう言ってきた。
「おいおい、何言ってンだ! さっきアッターが死ンだ事で、休憩の順番が変わっただろうがよ! せっかく交代に来てやったのに、そンな態度はねえンじゃねーか!?」
そんなにでかい声で話さなくてもいいのに、ボトウェは恫喝するようにこちらへと更に足を進めてくる。下卑た笑みを浮かべ、じりじりとこちらににじり寄ってくる様は、どうにもこれから凶行に及びそうな、そんな『悪意』を感じ取れた。
ともなれば、シャルウィルは……。
「あ、あ……」
くそっ!
せっかく立ち直りかけていたというのに!
シャルウィルは再び怯えた様子で震え出している。奴の放つ『悪意』は彼女の小さな身体を完全に蝕んでしまったようだ。虚ろな瞳で地面を捉えたまま、うわ言のように「怖い……怖い……」と同じ言葉を呟いている。
「ならば何故一人なんだ? 同じ班のベルコやパドゥはどうした!?」
シャルウィルを庇うように背に回して、至極当然の疑問をぶつける。交代だと言うならば、コイツが一人でいること自体がおかしいのだ。
「へへ……。パドゥは糞だとよ。休憩が遅れちゃ悪いから、俺が先に来たンだよ」
「ならベルコは? アイツも来なければおかしいだろう?」
正直、パドゥよりも圧倒的に不審感を残す物言いをしていたのはベルコだ。その彼が居ない事には、とてもじゃないが信用出来ない。
「頭はアッターの所だよ。どうにも気になるモンがあったンだと」
ボトウェの返答に、胸がざわついていくのを感じる。
コイツら、この状況でわざわざ全員がバラバラで行動してるってことか!? しかも被害者の死んでる現場に、最も怪しき人間が一人で向かっているだと!? まるで隠蔽しに行くと言ってるようなもんじゃないか!
「くそっ!!」
俺はシャルウィルを背に抱え、先程の殺害現場まで駆け出した。
「あっ! お、おい!」
「お前も付いてこい! その瓶はもう何もしなくて大丈夫だ!!」
それだけ告げると、ボトウェは瓶と俺を何度か見比べ、渋々といった感じで追いかけてきた。それを後ろ目に流しながら、アッターが死んでいた現場へと駆ける。
ついさっき全員で集まった広間を抜け、あの毒と異臭が充満した部屋を目指していく。部屋までの道筋では誰ともすれ違う事はなく、鼻を突く死臭を無視してがむしゃらに駆け抜けると、やがてアッターが準備したであろう松明が目に入ってきた。
「だ、だめ……。入ったら、毒が……」
背中からシャルウィルの絞り出すような声が聞こえる。そういえば迂闊に触れると感染するんだったな。
恐る恐る中の様子を窺うと、部屋の様子には何の変化も見られなかった。ここに来ている筈だというベルコの姿も無い。
ただ、かわりに足下に一枚の羊皮紙が落ちている。先程は見落としたとでもいうのか? いや、そんなことはない。
だが、しっかりと確認せずに、ソレを手にした事を、俺は激しく後悔する事になった。
今の俺の背にはシャルウィルが居るのだ。当然、頭の横から羊皮紙に書かれた内容も読む事が出来るわけで……。
「『我が毒は我が身をも蝕み、理を濁す。止める術なく闇となり全てを侵し尽くすだろう。我が心は狂い、殺し尽くす。贄を重ね我が狂気を鎮めよ。迷宮に棲まう九頭大蛇』……こ、これ、やっぱりあたしも……」
そこまで声に出して読んで、シャルウィルの頭がガクリと俺の肩にかかる。慌てて確認すると、どうやら気を失ってしまったようだ。ここまでの緊張の連続に耐えきれなかったのだろう。
「へへ……。やっと追い付いた。ン? 頭は何処だ?」
のんびりとそんな事を言いながらボトウェが追い付いてきた。この非常時に、まだのらりくらりとやっているのは正直言って滅茶苦茶腹ただしい。
「…………消えたよ」
その苛立ちをどうにか理性で抑え、端的に伝える。ボトウェは不思議そうな顔を浮かべながら、目をパチクリとさせていた。