第三話 悲鳴
伯爵様が部屋から去ってからは、それは静かなものだった。
俺もしばらくの間は、女性に好ましいなんて言われた事に浮かれていたが、やがて相手は伯爵様で、世辞の一つでも言ったのだろうと落ち着いて考えるようになっていた。
しかし……やっぱりもうこの槍は駄目だな。何度か槍の柄に負担のかからないように素振りをしてみたが、その都度に穂先がぶれて狙った軌道を描けなかった。
全力でこの槍を振るえば、おそらくはその衝撃に耐えきれず崩れていく。そんな確信がある。
クインのように腕前もある程度わかっている相手、それも自分より格下ならいざ知らず、力量もわからない相手にこの装備で戦いに挑むのはぞっとしないな。
「…………世界に遍し火水風土の精霊よ。俺に力を貸してくれ。『身体強化魔法』」
何気なしに、魔力を込めて呪文を呟く。
本来であれば淡く輝く筈の俺の身体は、まるで何事もなかったかのようにいつも通りの身体のままだった。
ただいたずらに、魔力だけが失われていく感触があった。それすらもいつも通り。
そう。俺は『身体強化魔法』が使えない。
別に魔力がない訳じゃないし、なんなら火起こしなんかに火魔法を使ったりもする。ただ『身体強化魔法』は俺に作用しないのだ。
調べてみると別に珍しい事でもないらしい。人によって得手不得手があるように、魔法を使う上でもその人の使えない魔法があるそうだ。まあ騎士になる人間は、ほとんど――というか俺以外の全員が使えている魔法なのだが。
幼少の頃にその事がわかってから、俺は必死に鍛練を行ってきた。魔法は万能ではない、とは俺の師匠の言葉だ。
彼は魔法が一切使えなかった。それでも魔獣から俺の住んでいた村を守り、度々襲いくる蛮族を追い払った。
魔法が使えない彼は、俺に一縷の希望を見出ださせてくれた。周囲に霧散していく魔力が妙に郷愁的に見えて、幼い頃の思い出が蘇ってきた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ジールよ。『身体強化』も使えぬお前にとって、騎士になるという夢は茨の道ぞ? それでも騎士を目指すのか?」
「そういうじーさんだって魔法は使えないだろ? それなのに村を守れる力があったんだ。俺だって騎士になれるに決まってる!」
「ふむ……。確かに儂も魔法は使えぬ。だが決して魔法は万能ではない。ゆえに儂に出来ることをしてきたが……その結果が村を守った英雄、か……」
「? じーさん、なに言ってるのかよくわかんねーよ。俺にけいこをつけてくれるのか?」
「まあいいだろう。お前の希望通り騎士になれればよし。もし騎士になれなかったとして、儂と同じ様に村を守れるぐらいの力がつけばそれにこしたことはない」
「ほんとか!?」
「今までの我流の稽古と違って、かなり厳しいものになるだろうがのう」
「騎士になれるならそんくらいへっちゃらさ!!」
「ほほ……。頼もしいのう」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
魔力の残滓が少しずつ消えていき、俺の意識も思い出から現実に帰ってくる。
あの後しばらく稽古を受けて、『三式観闘術』の免許皆伝を授かったんだったな。懐かしいものだ。
師匠が教えてくれた『三式観闘術』は相手と自分、そして周囲の環境を深く観察する事に主眼をおいた戦闘法だ。魔法が使えない師匠が編み出した戦闘法だけあって、魔力を必要としないのが特徴でもある。
その分、相手や自分を細かく分析しなければいけないんだが……。まあ、俺には苦手だった。師匠にはよく猪頭と馬鹿にされたもんだ。
そうだ。この仕事が終わって騎士団を辞めたら、『三式環闘術』を利用して狩人でもやるか。動物の痕跡は案外と残っているものだ。それこそ猪でも狩って日々の蓄えにしてもいいかもな。
どうせならジビエ料理の店として野性味溢れるメニューを提供するのも良いかもしれない。猪肉は臭みがあるからしっかりと血抜きをして……、そうだな、月桂樹と一緒に酒に浸けるか。酒にしっかりと漬け込めばアルコールの成分によって肉も柔らかくなる。
それに塩、胡椒で下味をつけて迷迭香と一緒に焼いてやろう。火力調整は火魔法で簡単に出来るしな。低温でじっくり焼く事で旨味を肉そのものに凝縮し、一口齧れば猪の濃厚な味わいが…………。
待てまてマテ、それなら迷迭香はいらないな。
ほんのり残る猪の臭みさえも味わうことが、ジビエというもんだろう。柔らかく焼いた猪本来の味わいを、ほんの少しの調味料で味わう。
咀嚼すると肉の線維が柔らかく断ち切れ、口腔内に拡がる圧倒的な野性の爆発。
うん。悪くない。
そんな益体もない事だったが、食い物の事を考えていると腹が減ってくるのは何故なんだろうな。
控え目に主張した腹に手を当て、鎧の内側に仕込ませた時計を見る。目に入った時刻はちょうど九時。本来なら既に夕食も済んで明日の準備をしている頃合いだ。それが飲まず食わずで番をして、クインの馬鹿に付き合っていれば、そりゃ腹も減ってくるか。
ここに着いたのが六時頃だったか。そのままここの番を引き受けているが、たしか最初の休憩が三時間後とか言っていた。
多少のズレがあるにしても、あと三十分もすれば俺の想像からは程遠い、たいして旨くもない夕食にありつけるだろう。
ならば腹が減ったなどと泣き言を言っている場合でもないな。せっかく伯爵様に褒めて頂いたんだ。騎士団での俺の最後の仕事になるかもしれないし、きっちりやりきろうじゃないか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そうやって威勢よく宝物庫前の鉄扉に立ったは良いが、王族の装束がそうそう使われる機会もある筈がなく、そこからの三十分は何も起こらなかった。
何だか肩透かしを食らったようだが、宝物庫の番兵なんてそんなもんだろう。そんな頻繁に有事が起きては、城の警備そのものに問題があるわけだし。
代わり映えのない景色にも飽いた俺は、やがて手持ち無沙汰に槍を回していた。
勿論、頭の上で車輪のようにぶん回していたわけじゃない。手元でくるくると、何気なく槍を回している。
別にこれがどうという事でもない。ただの癖だ。何となく座りが良い。
手元で槍を弄り始めて十五、いや二十も回した頃だろうか。
ドン、と響くような物音と、それから少し遅れて甲高い悲鳴のような音が聞こえた。
もしかしたら、伯爵様の言う『異端審問官』が現れたのかもしれない。手持ち無沙汰に槍を弄くっていたし、ただの聞き間違いの可能性も否定できないが……。
さて、どうするか。
実際に悲鳴があがっていたとして、悲鳴の在処に駆けつける事はたぶん難しくは無いだろう。今日は大勢の騎士団員を割いて警備している。近くを巡回していた団員から順に、悲鳴の元へ集まっていくのは想像に難しくない。
したがって、人が多く固まっている方へと駆けていけば、自然と現場に辿り着ける筈だ。
逆に俺の空耳だったとしたら……。考えたくもないな。ただの凡ミスだが、間違いなく大目玉だ。
それよりも、『異端審問官』がこの宝物庫を狙ってくる可能性はどうだろうか?
この部屋は城の中でも一階の端に位置していて、出口は二つ。
一つは当然ながら宝物庫へと繋がっている。その先はない。この部屋から行ける場所は宝物庫だけだ。城の出入口へは、二階をぐるっと回って進む必要がある。
その二階へと続いていく階段があるのが、宝物庫とは逆側の出口だ。ここを出るとすぐに階段があり、今は客間となっている二階へと続いていく。
要するに、『異端審問官』が二階からこの部屋まで来れば先は行き止まりってことだ。
宝物庫は施錠されているし、鍵は俺が持っているから、他の騎士団の連中が上手くここまで追い込んでくれば、俺と騎士団の連中で挟撃の形をとれるな。
ここを空けるよりも、待ち伏せていた方が効果的に思える。
やはり、ここを無人にするのは良くないだろう。伯爵様にも、命を守るのが好ましいって言われたばかりだしな。
とはいえ、俺の装備は狙いも定まらない槍とリーチの短い短剣、それにボロボロの鎧と随分心許ないものだ。
本当に『異端審問官』がここまで来た時に備えて、少しでも相手を怯ませられるよう部屋の入り口で構えておくとしよう。
人間の急所は人中や三日月、水月などに代表されるように、正中線上に集まっている。本来なら正面から貫いた方が効果的だろう。
だが俺の武器はもはや狙いも定まらないボロ槍だ。
おそらく後一回でも全力で攻撃すれば、柄の部分から瓦解していくのは目に見えている。どうせ壊れるなら、狙いが多少ずれても広範に衝撃の加わる打撃の方がいいだろう。
照準を合わせるのはもちろん頭部。兜を装備している事を想定して烏兎――すなわち眉間を狙う。
身体を半身にして、上段よりやや低く斜に構える。遠心力を利用したフルスイングが行えるように、持ち手は普段よりやや長めにしておこう。
当然だが、相手に気付かれないよう部屋の出口から死角に陣取るのも忘れない。
そうして部屋の隅に構えてから数分もしただろうか。階段を駆け降りる足音が聞こえてきた。
足音の大きさからすると、相手は一人だろう。これは予想が的中したかもしれない。
そう考えている間にも足音はぐんぐん近付いてくる。
槍を持つ手にいつも以上の力を込め、タイミングを合わせて全力で薙ぎ払った。
最大の力で振るわれた一薙ぎに、想像通りボロ槍が悲鳴をあげたのがわかった。
まさに渾身の一撃だった。
その一閃が相手の顔を捉えずに寸での所で止まったのは、俺がどこかで『異端審問官』の存在を疑っていたからか。
それとも、この槍が長年愛用してくれた持ち主に対して情を見せてくれたおかげか。
いずれにせよ、俺の一撃は相手に届く事はなかった。攻撃する前の予想通り、ボロ槍が全力のフルスイングに耐えられる筈もなく、音を立てて崩れ去っていく。
パラパラと石片が散っていく中に現れたのは俺のよく見知った顔――このボロ槍の元の持ち主である十七班の班長だ。
「おま……ジール! てめぇ何考えてやがる!! 殺す気かっ!!」
突然の襲撃に面食らっていた様だったが、流石は班長という事なんだろう。すぐに落ち着きを取り戻して罵声を浴びせてきた。
まあ、今回に限って言えば俺にも悪い点がある。俺だって、いきなり顔面に槍でフルスイングなんかされた日にはぶちギレるだろう。
なので素直に謝っておく。ついでに悲鳴の事についても聞いておこう。
「すまん。悲鳴が聞こえた気がしたからな。不審者かと思って警戒していたんだ」
その返答に班長は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、何かを思い出した様ですぐに部屋の中を探って頭を振った。
「そうだ! 悲鳴があがって……。お前一人か!?」
班長もすぐに気付いただろうが、この部屋に人が隠れるようなスペースはない。当然、と言わんばかりに大きく頷き返事をした。
「……そうか。お前一人か…………」
班長はそう呟くと、物憂げに俯いて黙ってしまった。
しかし、この反応は妙だ。
普段のこの人は喧しい方だ。何に関しても声を大きく張り上げる。暑苦しい、と言っても良いかもしれない。
その人がこんなに消沈した返事をするだろうか?
いや、こんな風に静かな時があったな。ついこの間、俺の手柄を御貴族様に譲るって話が出た時だ。
その時も、普段は五月蝿いくらい元気な班長が押し黙っていた。ちょうど今、この時の様に。
「なあ、班長……」
何があったんだ? と続く俺の言葉を、彼は手をあげて制した。
そして俯いていた顔をゆっくりと持ち上げ、覇気のない顔でこう言った。
「…………付いてこい。上で人が死んでる」