【5】
「ということにしておいたので、お前たちも心にとどめておいてくれ」
「はあ……」
『アルカンシエル』の隊員たちに説明したことをそのまま告げると、アニエスからはそんな反応が返ってきた。いつも通り、わかっているのかわからないが、反応がおっとりしているだけで一応わかってはいるようだった。はあ、で済ますな、と思いつつエクトルは彼女の言葉を待つ。
「わかりました……アンリエットも、異議はないと思います」
「そうか」
だいぶ間が空いたが、了承は得られた。エクトルは肩の力を抜いた。
二人は夜会会場にいた。エクトルは『アルカンシエル』で説明したことについて、アンリエットとすり合わせをしたかったのだが、またニクロー侯爵家に突撃しては、今度こそただでは済まない、と思い、この夜会まで待ったのだ。ファントムと遭遇したのは昨夜なので、まだ一日しかたっていないが、済ますことは早く済ませたかったのだ。
アンリエットにぼろくそに非難される可能性も考慮していたが、そんなこともなく、おおむね受け入れてもらえたようだ。内心ほっとする。
いつもはどこか険悪なエクトルとアニエスが表面上は穏やかに話をしているので、貴族たちの間で何かあったのではないか、と噂になっていた。その噂の中にはエクトルが別人と入れ替わったのでは、というあほらしいものもあったが、アニエスがアンリエットと入れ替わったりしているので、一蹴できないのが面白いところだ。
アンリエットのことについて話終わると、無言になる。エクトルは王子なので、会場の隅にいようがそれなりに目を引く。見られることに慣れているエクトルは気にしないし、アニエスもそれほど気にしていないように見えた。ぼんやりとシャンデリアを眺めているアニエスを見て、エクトルは不意に彼女の耳を隠す髪をかき上げた。
「殿下?」
突然触られて、アニエスが不思議そうにエクトルを見上げた。彼女の今日のイヤリングは、緑の石がはめられていた。前とは違うやつだ。
「今日は緑の石なんだな」
「あ……はい」
「前の青い石のイヤリング、似合っていた」
何を言われているのだろう、という表情をしていたアニエスだが、エクトルの言葉の意味を理解してかすかに頬を赤らめた。せわしなく瞬きを繰り返す。
「……その」
「なんだ」
「ありがとうございます……」
はにかんだ笑みが可愛らしかったが、そういえば自分は婚約者の少女を誉めたこともなかった、と思い至った。いや、造作の整った少女だとは思っていたが、それを言葉にしたことはなかったように思う。いくら何でもそれはない。ちょっと自己嫌悪に陥った。
「……いつも、きれいな子だと思っている」
「……」
言葉は返ってこなかったが、アニエスがきゅっと唇を引き結んでいる。頬は赤いままで、視線が落ち着かない。組んだ指がせわしなく動いている。今でもいら立つことはあるが、かわいらしい面もたくさんある。なぜあれほどそりが合わないと思っていたのか不思議なほどである。
ちらりと、エクトルは周囲に視線を向けた。視線の合った者たちがぱっと視線を逸らす。うまくいっていなかったはずの第二王子とその婚約者のやり取りに、みんな興味津々だった。エクトルはアニエスの背を押す。
「少し、庭に出よう」
「はい……」
アニエスも衆目を集めていることを理解していたようだ。すぐにうなずき、エクトルのエスコートに従って庭に降りる。
夜の風にあたりながら、アニエスは火照った頬に手を当てた。その恥じらいようにエクトルは若干不安になる。
「不要なことまで言ってしまったか?」
「え?」
切れ長気味の目が見開かれて何度か瞬いた。目元も赤い。この、すぐに返事が返ってこないあたり、もう少し何とかならないかと思わないでもないが、たぶん、エクトルの気が短すぎるのだろうというのもわかっている。
ややあって、アニエスは小さくかぶりを振った。
「いえ……嬉しくて。家族以外に褒められたことがなくて」
身内びいきが過ぎるなと思っていたんですが、とアニエス。アニエスはどこへ行くにも、姉について回ることが多かった気がする。姉の方も確かに美人であるが、アニエスはおとなしすぎて目に入らなかったのではないだろうか。もしかしたら、自分で目立ちすぎないようにしていたのもあるかもしれない。ファントムとして活動するなら、アニエスの姿で目立たないほうがいい。
「客観的に見て、お前は美人だろ。まあ、あまり目立ちすぎるとお前ひとりで対処できんだろうから、気をつけろよ」
「えと。はい」
こくんとうなずく頃には、アニエスの頬の赤味も引いていた。この夜会には彼女の兄ローランも来ているはずだから、あまり姿が見えないと探しに来るような気がするが、エクトルは彼女に手を差し出して言った。
「少し歩かないか」
アニエスはエクトルの手を五秒ほど見つめてからうなずいた。自分からは手を取らないので、エクトルがアニエスの手をつかむ。二の腕まである白い手袋をしているのは、彼女が日常的に剣を握っていて、深窓の令嬢とは言えない手をしているからだろう。柔らかな掌ではなく、剣だこのある硬い皮膚をしているはずだ。ファントムがあれだけ動けるのなら、体を貸し出しているアニエス自身が鍛えていると考えるのが自然である。
「……お前は怖くないのか。戦うことが」
「?」
アニエスがおっとりと首を傾げた。月明かりの下、アニエスの髪は黒っぽく見えた。太陽や照明の下では銀に近く見えるのに、不思議な髪色である。
「戦っているのはアンリエットでも、お前も意識がないわけじゃないだろ」
「ああ……」
説明を足すと、どうやらアニエスもエクトルが聞きたいことを理解できたらしい。アニエスがファントムとしての活動も記憶していることはすでに分かっている。
「アンリエットが死ぬことは、まずないと思うので……一応侯爵家の娘がモンスターに食い殺されたら、不審死ですし……」
おっとりとそんなことを言うのでエクトルが驚いた。ぼんやりしていると思ったが、結構考えているようだ。とにかく、アニエスがアンリエットに全幅の信頼を置いていることはわかった。エクトルがため息をつく。
「アンリエットに、今度手合わせしてくれ、と伝えてくれ」
「はい」
多分、これもアンリエットは聞いているのだろうが、アニエスは素直にうなずいた。外見に見合わぬかわいらしい動作だ。どうしても、きれい系の美少女であるアニエスの外見と内面にギャップがある。
あれだけ気が合わない、苦手だと言い、今でも苛立つことがありながら、しぐさ一つに可愛いと思ってしまう自分はかなり現金だな、と思う。もともと、外見は好ましかったのだから、エクトルが忍耐を覚えれば好きになる可能性はもともとあったのか?
黙ったままアニエスの手を引いていたが、彼女は無言で着いてきた。庭を一周して戻ってきた。かなり長い間外にいたことになる。いつもはエクトルが短気を起こしていなくなってしまうが、今はそれほど悪いとは思わなかった。
「寒くないか」
夏とはいえ、夜は冷える。エクトルが問いかけると、アニエスはこくんとうなずいた。アニエスはけろりとしているが、表情が読めないところもあるのでやはり、会場内に戻ろう。
「戻るぞ。お前の兄が乗り込んできそうだ」
「はあ……」
ぽかんとしているが、そろそろ自分の兄がシスコンだという事実を認めた方がいいぞ。
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