【30】
しばらく歩く。アニエスには花畑の中を歩いているように見えているが、リルには海の上を歩いているように見えているらしい。
「悪かったね。君に面倒なことを押し付けちゃった」
不意にリルが言った。アニエスは首を左右に振る。
「ううん。あなたが貴族社会で生きるために切り離さなければ、私は生まれなかったもの。だから私は、間違いなく、あなたの一部なのだと思う」
「……さて、どうだろう」
リルは苦笑し、アニエスとつないだ手を揺らした。
「確かに君は、私の一部だったのかもしれない。けれど、違う成長をたどったはずだ。ニクロー侯爵家のアニエスとして成長したのは君だ。極論、私は『リル』として死んだときに成長を止めている。これ以上、変わりようがないんだ」
「だから、私に起きろって言うの? 私の体ではないのに」
「君の体だ」
「違う!」
アニエスはリルの手を振り払って叫んだ。
「あの体は、私のものじゃない。リルさんのものです。私が、間借りしていただけ」
主人格はリル。アニエスは副人格にすぎない。
「リルさんのものです……」
だから、アニエスが消えてしまうのが正しい。なのに、未練がましくまだ消えることができずに残っている。なぜ?
「そうね。でも、それはだれにも証明できないんじゃないかな」
「え?」
「だって、生まれたときにどちらの意識があったかなんて、今更私たちにだって証明しようがない。アニエスが『アニエス』で、後から私が割り込んできたのかもしれない」
「そう……かもしれないけど」
その可能性はひくいきがする。わかっている。リルはアニエスに目覚めさせたいのだ。消えればいいアニエスが残っている理由は、自分で分かっている。もう一度、エクトルに会いたい。
「だろう? 少なくとも、君には待っている人がいる。だから、君が生きるべきだと思うよ、アニエス」
「……リルさん。リルさんだって、エクトル様と仲が良かったし、お兄様たちもリルさんのことを家族と思って接していたわ。それに、女王陛下はお弟子さんなんでしょう? またいなくなっていいの?」
アニエスもアニエスで、リルの説得を試みる。リルは、アニエスよりわずかに下にある視線を上向けて、アニエスの頭をぐりぐりと撫でた。
「わっ」
「そんな顔して言われてもね。エクトルが愛しているのは君だし、ローランは……まあわからないけど、ミレーヌは君が妹だと思っていると思うよ。それに、女王は確かにジネットの記憶を持っているけど、彼女はジネットではない。それくらい、私にもわかっているよ」
手を降ろして、リルは一歩離れたところからアニエスを見上げた。
「そもそも、どちらが『本物』かなんて、意味があると思う? 君には待っている人がいる。私は、この生死の輪から抜け出したい。それでよくないか?」
「……リルさん」
「ほら、呼んでるよ」
そう言われて耳をすませると、確かにアニエスを呼ぶ声が聞こえた気がした。
「ほら、いきな。一つだけ約束だ。君は幸せになること。じゃないと、また生まれなおしてエクトルを殴りに行くからね」
「そ、それはちょっと……」
「じゃあ幸せになるんだよ。私も祈っておくから」
たぶん、リルは任意でアニエスを目覚めさせることができたのだと思う。額を指でつん、と突かれて……。
目が覚めた。
握っていた手が動いた気がして視線をあげると、気のせいではなくて、アニエスがゆっくりを目を開いた。翡翠色の瞳が瞼の下から現れる。
「アニエス」
もしかしたら、エクトルが思うアニエスではないかもしれない。アンリエットの方なのかもしれない。だが、この体は少なくとも、アニエスと名づけられているので間違いではない。
「……逝ってしまいました……」
おもむろに口を開いた彼女はそう言った。五日間眠ったままだったので、その声はかすれていた。
ただ、その一言で彼女がアニエスであることが分かった。逝ってしまったと言うのは、アンリエットのことだろう。
とりあえず医師を呼び、診察を受けさせるが、眠っていただけなので、起きてしまえば異常はないらしい。魔法を乱発しすぎて、かつてほどの魔法力は望めないと言うことらしいが、それはどちらかというと、アンリエットが消えたせいのような気がする。
目覚めたが、アニエスは気落ちしたような表情でいることが多かった。兄や姉が訪ねてこようが、両親と顔を合わせようが、友人が心配しようがその調子らしい。
「そろそろアニエスも回復したので、一度領地の方に戻ろうと言うことなんですが、それで何とかなるとは、私には思えないんですよね」
宮殿で遭遇したローランはエクトルに肩をすくめてそう言ったものだ。ちなみに、ミレーヌの方はさすがにいつまでも夫と離れている気はないようで、ソラン辺境伯領に帰ったそうだ。
いつぞやと同じく、エクトルは先ぶれなしでニクロー侯爵家を訪れた。この日は侯爵は不在だったが、夫人はいた。だが、この頃の行いの結果か、前回先ぶれなし訪問をしたときよりは歓迎された気がする。アニエスにもすんなり会うことができた。
「もうすぐ領地に戻ると聞いたので、会いに来た」
「……はい」
覇気のない返事が来た。以前までは、おっとりとしてはいるが、明るい声音だったのに、今は張りがない。キラキラしていた眼も今は暗くよどんでいるように見えた。
メイドがお茶を持ってきたので、それをいただく。しばらく静かな時間が続いた。以前なら自分もつかみかかって怒鳴っていたかもしれない、と思う。これでもエクトルは忍耐を覚えたのだ。
「一応、話をしておこうと思った。ファントムには『アルカンシエル』が世話になったからな」
びくっとアニエスが震えた。エクトルがアニエスを苦手としていたころも、彼女は特におびえた様子を見せたことがないが、今はうかがうようにエクトルを見ている。
「アンリエットが消えたんだな?」
奥底に隠れているわけではなく、その存在がなくなったのか、という問いかけだ。アニエスはその視線をあげてエクトルに向けた。
「……はい」
「そうか……」
よかった、とは言えないな、と思った。様子を見るに、アニエスはそれを後ろめたく思っているようだし、アンリエットというひとつの人格が消えたのは事実だからだ。
「ローランから、お前が小さい頃の話を聞いた」
はっとアニエスが目を見開く。その瞳が潤むのを見ながら、エクトルは言った。
「アンリエットが消えてよかったとは言わんが、お前が目覚めてよかったと、俺は思っている」
難しいところだ。エクトルもアンリエットを友人くらいには思っていたし、その消失を悲しむ思いもある。だが、それ以上にアニエスが目覚めてよかったという思いがあった。それを、アニエスは納得すまい。案の定、彼女は立ち上がって叫んだ。
「私が目覚めてはいけなかったんです! もうご存じでしょう!? 私はリルさんが切り離した別人格です! この体の本来の主はリルさんなんです! 私がっ、目覚めてはいけなかったのに……っ!」
ぽろぽろと涙が零れれ落ちる。エクトルはローテーブルを回り込んでアニエスの隣に立つ。乱暴に涙をぬぐっている手を取った。
「私は、まがい物なんです……」
威勢を失い、紡がれた言葉。だが、エクトルにも反論がある。
「なるほど。確かにお前は、アンリエットが切り離した別人格なのかもしれない。だが、お前たちは『自分たちは同一の存在だ』と言っていたし、どちらが偽物かなんて、だれが決めるんだ。そもそも、そんなことに意味があるのか?」
はっとアニエスがエクトルを見上げた。エクトルは彼女の肩にそっと手を置く。以前ならつかんでいたと思う。
「アンリエットが弟弟子を倒さなければならないと言った思いも本物だろうし、お前がローランやミレーヌ、侯爵夫妻を思う気持ちも本物だろう。遠乗りに出かけて楽しそうに笑っていたお前の思いがまがい物だなんて、俺は思わない」
さしあたっては、それで十分なのではないだろうか。
「でも……でも、私は」
混乱したようにアニエスが口を開く。
「それに、アンリエットがただお前を目覚めさせるとは思えない。頼む、とかなにか言われたんじゃないか」
アニエスが目覚めた後のために、アンリエットがただ消えるとは思えない。何か話し合いというか、提案があったのではないか、そう思う。そのアンリエットの願いを無視するほうが、彼女に対する裏切りだ。
「……幸せになれって言われたんです」
「ああ」
「けど、リルさんがこの体の持ち主のはずなんです。私が割り込んだだけで。でも、リルさんはもう終わりたいって言ってて」
若干支離滅裂ではあるが、なんとなく言いたいことは通じた。何度も生まれなおしているリル=アンリエットだ。決着がついたのだから、ここで終わりたいと考えても不思議ではない。それを、アニエスは体を乗っ取るようで後ろめたく思っていると言うことだろう。
「私が、アニエスでいいんでしょうか……」
とても哲学的な問題だな。そうまぜっかえしたい気もしたが、そんなことをすればアニエスはずっと、この問題を抱え込んだままになる。
「悪いが、俺も答えを出してやることはできない。だが……アンリエットがお前が生きることを望んだのなら、彼女の言う通り幸せに生きるべきではないかと思うし、少なくとも、俺はアニエスが生きてくれてうれしいが」
ぽろぽろとアニエスの両目から涙がこぼれた。指で拭ってやるが追い付かず、その体を抱きしめた。
思いっきり泣いて、アニエスは少し持ち直したようだった。エクトルが帰るときは笑顔で見送ってくれた。まあ、泣きはらして赤い目をしていたけど。さすがにこれはシスコンのローランにも責められることはなく、むしろ礼を言われた。彼は王都に残るが、アニエスは両親と領地に戻るそうだ。しばらく会えない。
冬を越して、再会するのは春になるだろうか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次で完結です。




