【21】
遠乗りに誘うと、アニエスが思いのほか喜んだので近くの湖まで出かけることにした。中にアンリエットがいるからか、アニエスは見た目によらず活動的だ。乗馬もうまいもので、そのまま矢を射かけろと言われてもできるそうだ。
やはり、アニエスの中ではアニエスとアンリエットが同居しているのだな、と確認するに至った。
「あまり覗き込むな。落ちるぞ」
しゃがみこんだアニエスが水面を覗き込むので、エクトルはその背中に注意を飛ばした。ぱっとアニエスが振り返る。日の下では銀色に見える髪は緩く編まれ、背中に垂らされている。つばの広い帽子は日よけだ。乗馬服であるが、よく似合っていた。
「透明度が高いので、底まで見えますよ」
アニエスが楽しげに言うので、エクトルものぞいてみた。確かに底まで見えている。
「見るのはいいが、気をつけろよ」
「はい」
にこにこしているアニエスに若干の不安を覚えるも、エクトルはとりあえず大丈夫だろうと思うことにした。こういう湖ではボートがつきものだが、アニエスが自分が漕ぎたいと言い出すのでちょっと困った。
「さすがにここではやめておけ。人目がある」
「じゃあ、人目のないところでこぎます」
「……お前は予想の斜め上を行くな……」
アニエスが本気でオールをこぎかねないため、ボートはあきらめることにした。本当に、人目があるのだ。下がるのはアニエスの評判である。女王の命であるこの婚約がそう簡単に解消されることはないとわかっているが、アニエスが悪く言われるような事態はなるべく避けたい。エクトルのわがままではあるが。
アニエスが目に見えてがっかりしているので、今度王家の保養地でボートに乗ろう、と約束を取り付けた。遠乗りに誘ったときと同じくらい目が輝いたので、見た目よりも彼女はおてんばだ。可愛いが。以前のエクトルなら、彼女の返事がある前に怒ってしまい、この可愛さに気づかなかっただろう。
森の中の小道を散歩することにした。遊歩道になっているので、迷子になることはない。人も多いので、出るのは小動物くらいだ。まあ、たとえ大型の人食い動物に遭遇しても、エクトルとアニエスなら全く問題ない。
さりげなく手をつなぐと、嫌がられなかったのでそのままつないだままだ。何が楽しいのか、アニエスはエクトルとつないだ方の手をゆらゆらと揺らしている。もしかしたら、兄のローランとこうやって歩いたのかもしれない。姉のイザベルはしっかり者だが、アニエスはこんな感じである。ローランもさぞ甘やかしただろう。
「……アニエスは母上と面識は……あるよな」
それなりの家格の家のものが、女王と面識がないなどありえないと思いいたる。少なくとも、アニエスは女王が選んで息子の婚約者にあてがったのだ。面識がないはずがなかった。女王然とした母が、このおっとりした娘のどこを気に入ったのだろうと思ったのだ。いや、可愛いが。
「そうですね……あまりお話したことはありませんが、素敵なお母さまですよね」
「女王をそう表現する人は初めてだ」
言うなら、『素敵な女王陛下』と評するだろう。こういうところが、ちょっとずれているなぁと感じるところなのだ。
エクトルの母、女王マリー・シャルロットは、女王になるべくしてなったわけではない。六人兄弟で、兄が二人いた。ほかは姉妹で、国外に嫁いでいる。この兄二人が相次いで亡くなり、マリー・シャルロットが王位を継承するに至ったのだ。理由は簡単で、国内に残っている王女の中で、彼女が一番年上だったのだ。
もともと『アルカンシエル』の元帥だったマリー・シャルロットは、それなりに王としての才能に恵まれていた。王であった兄が、優秀な家臣団を残して言ったというのもある。そもそも、『アルカンシエル』を率いていた王女として、それなりに信用があったのだ。
ちなみに、マリー・シャルロットは女王に即位した際、帝国から皇子を王配として迎え入れている。戴冠当時二十五歳だったマリー・シャルロットは、二人の兄と同じ戦いで先の夫を亡くしていた。この亡父がジルベールとエクトルの父親だった。彼らの父は、帝国の皇子ではない。
そのことがまたジルベールの王位継承問題論争になっていたりもするのだが、別にエクトルたちの実父の身分が低いわけでもない。むしろ、この国の公爵家の出身だった。ただ、慣例として王は異国の王族と結婚することが多かったため、そのような論争に発展しているのである。これを回避するために、女王は長男の婚約者に、帝国皇帝の姪を選んだ。
まあ、何が言いたいかと言うと、マリー・シャルロットは女王だ。だが、エクトルの母親でもある。母を褒められれば、悪い気はしない。
「殿下は陛下に似ていらっしゃいますよね」
おっとりと微笑みながらアニエスは言う。下から見上げてくる翡翠色の瞳を見つめ返し、エクトルも口を開いた。
「性格は、比較的似ていると言われるかもな。まあ、母は俺ほど短気ではないが。外見は、むしろ父に似ている、と言われるぞ」
ジルベールは少なくとも、エクトルよりは母親と外見的特徴が似ている。エクトルは、父親似だ。と、言われるが、実父が亡くなったとき、エクトルはまだ小さかったので、さすがに姿は肖像画などでしか見たことがない。
「陛下もお美しい方ですが、殿下のお父様も美男子でいらしたのですね」
多分、決まり文句のようなものだ。遠回しにエクトルも容姿が整っていると言われているわけだが、アニエスにもそういう感性があるのだな、とぼんやり思った。頓着なさそうなのだが。
「それに、怒れるということは、それだけ相手に関心があるということでしょう?」
エクトルが返答に困っている間に、アニエスはおっとりと言った。にこにこした彼女は言う。確かに、愛情の反対は無関心ともいう。
「優しい方です、殿下は。きっとアンリエットは、相手に対する関心が足りなかったのですね。だから、『旧き友』の盟約と誓約に抵触した弟弟子を、最後まで恨むことができなかった」
「お前が、そう感じるということか?」
「そうですね」
同じ体に同居しているアニエスの言うことだ。信憑性は高い。そして、同じ体にいる相手への評価なのに、なかなか辛辣である。
「あっ」
唐突にアニエスが声を上げた。帽子が風に飛ばされたのである。手を延ばしたがその手をすり抜けていった。彼女は風魔法の使い手だが、魔法を使うより手で取りに行った方が早い。
「俺が取ってくる。お前は待っていろ」
「あ、でも」
言いかけるアニエスの頭を軽くたたき、エクトルは帽子を追っていった。彼女としてはそれほど惜しくないかもしれないが、日よけはいるだろう。
防止に追いつき、拾い上げる。遊歩道からそれほど離れていなかったが、木々に隠れてアニエスの姿が見えない。帽子を拾って戻ろうとしたエクトルの背後から衝撃が貫いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
おてんばアニエス。




