【2】
本日2話目。
翌日、エクトルはニクロー侯爵家に向かった。突然訪ねてきたエクトルに、ニクロー侯爵家の執事は驚いただろうが、そんな様子は見せずに案内してくれた。侯爵は議会の専門委員会、夫人はサロン、兄は近衛の仕事に行っていて、在宅しているのはアニエスのみだ。というか、兄には宮殿で会っている。
突然訪ねてきた末のお嬢様の婚約者は、応接間に通された。突然来たので、アニエスがやってくるまで少し時間がかかるだろう。通常は先ぶれを出すものだが、逃げられると困るので突然訪問することにしたのだ。
「お待たせして申し訳ありません」
思ったより早くアニエスはやってきた。青いワンピースに、緩くまとめられた髪は明かりの元だと銀に近く見える。だが、暗い中では黒っぽくも見えることをエクトルは知っている。
「二人にしてくれないか」
エクトルがアニエスの侍女に声をかけると、彼女は「えっ」という表情になった。当然だ。婚約者とはいえ未婚の男女を密室に二人きりにはできない。エクトルが強く命じようとする前に、アニエスが口を開いた。
「大丈夫よ。下がって。お茶を用意してくれる?」
「……かしこまりました」
仕えているアニエスに言われてしまえば、拒否することは難しい。侍女はしぶしぶ出て行った。エクトルは閉じたドアにカギをかける。アニエスはきょとんとその様子を見ていた。その態度は、いつものおっとりしすぎたアニエスに見える。
「お前、昨日の夜、俺と別れた後何をしていた」
「……えっと……?」
詰め寄るが、アニエスは困惑したようにエクトルを見つめ返す。エクトルはその細い肩をつかんだ。
「ひっ!」
目に見えてアニエスがすくんだが、エクトルはやめなかった。そのしぐさすら、演技の可能性がある。
「昨日、シレア通りで狼型の魔獣を倒したのはお前だな? 俺と会っているはずだ! しらばっくれるな!」
「……!」
翡翠の瞳がうるんで、うつむいた。涙は零れなかったが、つかんだ肩は震えている。少しかわいそうに思ったことは否定できないが、ここではっきりさせてしまいたい。
「ファントムはお前だろう。わざわざ変装してモンスター狩りをして、俺たちをあざ笑ってるのか!」
髪の毛に隠れて表情は見えない。無理やり顔をあげさせようとしたとき、震えが止まり、肩をつかんだ手を逆につかまれた。すっとアニエスの顔が上がる。
「いくら気に食わないとはいえ、女性には優しくするものだ」
しれっとそう言ったその顔は、どこからどう見てもアニエスのものだ。しかし、しぐさも、口調も、声音すら違って聞こえる。態度の変わったアニエスに驚いたエクトルの手を、彼女は振り払った。
「仮にも婚約者だろう。脅すなんて言語道断だ。アニエスがおびえて引っ込んでしまっただろう」
そのまま彼女はソファに腰かけた。エクトルはアニエスをにらみつける。
「まるで、お前とアニエスは別人だと言っているようだな」
「とても哲学的な問題だな」
話し方がお嬢様然としたアニエスのものではない。騎士の女性の中にはこういった男性的な口調の者がいるが、それに近い。いずれにしても、おっとりしたアニエスのいつもの口調とは違う。ついでに、態度も。彼女は絶対に足を組んで座ったりしない。
「私もアニエスも、存在としては同一だ。見ての通り、人格としては別だけれど」
「信じると思ってんのか」
いくら言動がアニエスのものでなくても、アニエスが演技をしている可能性は否定できない。むしろ、その可能性が高い。
「なるほど。それはそうだ」
うん、と彼女はうなずく。それから応接間のドアを指さして言った。
「とりあえず、開けてもいいかな。別にドアが開いていても逃げないよ」
「……」
見透かされていた。まあ、あからさまだったし、仕方がない。侍女もお茶を持ってきたころだろう。エクトルはおとなしくドアのカギを開けた。
お茶と茶菓子が出された。執事も一緒で、疑うように見られたが仕方がない。エクトルの態度が悪かった。
「大丈夫よ。二人は部屋の外にいて」
普段ほどのおっとり口調ではなかったが、アニエスはそう言った。執事が「いつでもおよびください」と慇懃で頭を下げて侍女を連れて下がる。ドアが絞められたのを確認してから、エクトルはアニエスを見た。お茶を飲んでいた。
「お前、話をする気があるのか」
「突然訪ねてきたのはそちらだ。情報を握っているのは私。話す話さないは、君の態度にかかっているな」
「……」
こいつ、ぶん殴りたい。アニエスにはイラつくことはあっても、そんなことは思ったことがないのに。
「……突然訪ねてきた挙句、つかみかかって悪かった。すまない」
「ん」
にこりと彼女は笑った。それでよかったらしい。なんとなく会話の主導権を奪い取られた気がするが、傍から見れば、どう考えても悪いのはエクトルなので、彼女が言っていることは正しい。
「それで、お前は誰だ。アニエスが演技をしているわけではないのか」
疑ってはいるが、エクトルはすでに、彼女がアニエスとは別の人格を持っていることを認識し始めていた。どれをとっても、アニエスらしからぬ態度なのだ。
「まあ、そうだね。少なくとも私とアニエスは、お互いに別人格だと認識しているが、頭のおかしな娘だと思ってくれても構わないよ」
「……」
彼女は、強く別人格だと主張しなかった。おそらく、傍から見れば、どちらもアニエスであり、それ以上でもそれ以下でもないとわかっているのだ。ファントムがこのアニエスの別人格だったとしても、先ほどエクトルが詰め寄ったように、他人にはアニエスがファントムであるように見えるのだから。本人も、『別人格だが同一の存在』だと認めている。
「……わかった。俺にとってはどちらでもいい。問題は、お前がファントムであるか、そして、そうならなぜ夜な夜なモンスター狩りなんかしてるのかってことだ」
「なるほど。正論だ」
アニエスの姿をした彼女は、お茶を一口飲んでから口を開いた。
「私がファントムであるか、という問いに関しては、答えは『はい』だ。君はアニエスに興味がないと思っていたんだが、よく気付いたものだ」
結構ひどいことを言われた気がするが、怒りを抑える。彼女はアニエスのようにおびえたりはしない。正論で殴り返してくるだろう。つまり、冷静さを失ったら負けだ。
「たまたまだ」
「そう?」
不審そうに見られるが、それ以上は追及されなかった。本当のことを言わないことは、問題ではないらしい。ちなみに、エクトルはイヤリングで気づいた。夜会でアニエスがしていたイヤリングと、ファントムがしていたイヤリングが同じだった。おそらく、時間からして帰宅直後に急いで出てきたのだろう。その時に外しそびれたのだ。アニエスかファントムかはわからないが、ちょっと抜けている。
「何故モンスター狩りをしているのかという問いに関しては、今は答えることができない。ただ、目的があるんだ、とだけ言っておこうかな」
エクトルたちを馬鹿にしているわけではない、と伝えたかったようだ。何か目的があって、そのためにファントムはモンスターを狩る。
「迷惑だ。やめろ」
「それは無理な相談だ。私が目的を達成できなければ、大きな被害が出てしまうのでね」
「なら、その目的とやらを話せ」
「話してほしいのなら、もっとアニエスの信頼を勝ち取ることだね」
「……」
そうだ。アニエスとファントムは同一の存在だと言っていたではないか。アニエスがエクトルを信頼していないから、ファントムも何も話さない。
「……ならせめて、俺たちの邪魔をするな」
「そうだな。それは気を付ける」
からりと笑ってファントムは言った。お互いに譲歩した妥協点だ。
彼女が目を閉じて開いたとき、すでに入れ替わっていた。しぐさだけでアニエスだとわかる。何度か瞬きしてから小首をかしげた。
「アニエスか」
声をかけるとびくりとされた。無理もない。おそらく、面と向かって怒鳴ったのは初めてだ。ついでにつかみかかった。
「怒鳴って悪かった。もう何もしない」
そう言うと、アニエスはおっとりと反対に首を傾げた。
「殿下……アンリエットに会いました?」
どうやら、アニエスとファントムは意思疎通ができているらしかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
隔日投降の予定なので、続きは明後日です。
アニエスの中の人が出てきました。