【19】
夜中を過ぎてから、エクトルたちは解放された。泊っていく者たちも多いが、エクトルはアニエスと共に辞すことにした。さすがに王族が泊まることは想定していないだろう。とにかく、アニエスを送り届けなければ。
と思っていると、ローランが迎えに来ていた。
「お迎えに上がりました。黒衣の騎士が出たと聞きましたので」
「……そうか」
「お兄様は黒衣の騎士を知ってるのね」
迎えに来てくれた兄に向かって、アニエスはそう言い放った。そういえば、そうだ。エクトルもアニエスも知らなかったが、ローランは知っているのか。と思ったら。
「いえ、聞いたことがありませんね」
……そんなにはきはき言われても。エクトルは思わずローランをにらんだが、アニエスは「そう」とだけ言って黙り込んだ。
馬車に揺られるうちに、アニエスが舟をこぎ始めた。夜にファントムとして暗躍していた彼女だから、体力はあるはずだが。座席から滑り落ちそうなアニエスの肩に手をまわして支えていると、ローランが笑ったまま尋ねた。
「ところで、屋敷を出たときとアニエスの格好が違うのですが」
んぐっ、とエクトルののどから妙な声が漏れた。指摘されて当然のことではある。どんなに服飾に疎い人間だって、アニエスの格好が違うのが分かるだろう。
「いや……目を放した時に、いじめにあったようで。本人は気づいていないように見えたが」
あれが本当に気づいていないのか、どうでもいいと思っているがゆえに気にしていないのか、エクトルにはわからなかったが。
「ドレスにワインをかけられたようだ。俺のせいだ。すまなかった」
エクトルがちゃんと一緒にいれば、そうはならなかった。だが、さすがにお手洗いにまでついて行くわけにはいかないので、無理な相談でもある。
「なるほど……信じましょう。アニエスなら、気にしていないでしょう」
「……」
やっぱりそっちか。鈍いわけではないので、気づいていないわけではないと思ったが。少なくとも、後で考えて気づいたはずだ。ちなみに、ドレスはちゃんと回収してきている。
ニクロー侯爵家は夜会のあった伯爵家からそう離れていないので、ほどなく到着した。エクトルはアニエスの肩を叩く。
「アニエス、起きろ。ついたぞ」
少しぐずるように、アニエスが目を開けた。彼女を運ぶことは簡単だが、少なくとも化粧は落とさなければならないだろう。目を覚ましてもらった方がいい。
「エクトル様もよろしければお泊りください。父の許可も取ってあります」
この時間なので大してもてなせませんが、とローランは笑いながら妹の手を取って馬車から降ろす。エクトルが逡巡したのは一瞬で、すぐに厚意に甘えることにした。
「では、ありがたく世話になる」
「どうぞ」
ローランは眠さでフラフラする妹を支えながら笑顔でうなずいた。どうもこいつは腹の底が読めない。
エクトルとしてはローランと話したいこともあるが、もう夜も遅い。明日にした方がいいだろう。
「アニエス」
「……はい」
多少返答に間があったのは、性格故というよりは眠さゆえだろう。兄に支えられたままエクトルを振り返る。彼女に近づき、手を取った。ローランは側にいるが何も言わない。
「お休み」
指先にキスをしてそう言うと、アニエスは瞬きしておっとりと微笑んだ。
「お休みなさいませ」
眠いせいか、動じた様子もない。ローランが笑ってエクトルの肩を叩いた。やめろ、余計に落ち込む。
朝目覚めると、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。王宮の自室とは違うが、質の良いベッドとシーツの手触り。ニクロー侯爵家の一泊したのだった。
朝早く目覚めたエクトルが庭に出ると、ローランが鍛錬中だった。彼はエクトルを見て朗らかに言った。
「おはようございます、エクトル様」
「おはよう、ローラン。早いな」
「エクトル様こそ。よろしければ一本おつきあい願えませんか」
「……付き合おう」
木剣を差し出されて、それを受け取る。アニエス……というより、アンリエットと何度か手合わせをしたが、ローランとは久しぶりかもしれない。
体格も力も同じくらいだ。対人戦だと、ローランに分があるだろうか。しばらく打ち合っていたが、気づくと見学者がいた。
「おはよう、アニエス!」
ローランが元気よく挨拶をすると、その見学者、というかアニエスはおっとりと微笑んだ。
「おはようございます、殿下、お兄様」
「……ああ、おはよう」
エクトルは思わず視線をアニエスからそらした。彼女は家で着るゆったりとしたワンピース姿だった。それにショールを羽織っている。彼女の私的な部分を垣間見たのは初めてな気がする。
寝起きに聞くには心地よいおっとりした調子でアニエスは言った。
「朝食の用意ができたので、呼びに来ました」
「ああ、ありがとう。アニエス、もう少しフォーマルな格好に着替えておいで。今日はエクトル様も一緒だからな」
「あ、はい」
兄の忠告に、アニエスは疑わずにうなずいた。着替えに行くのだろう。屋敷の中に引き返した。エクトルはその場にしゃがみこんで顔を押さえた。
「エクトル様?」
半笑いの調子でローランがエクトルに声をかけた。エクトルは伏せていた顔を上げた。
「……可愛い」
「ええ。俺の妹は可愛いですよ」
ローランがシスコンを発揮して言った。きれい系のアニエスが可愛らしく見える時点で、これはもう駄目だな、と思った。
ニクロー侯爵家での朝食は、嫁いだミレーヌ以外全員そろっていた。仲の良い家族である。家族の中でも、アニエスは特におっとりしていて積極的に会話に入ってこなかった。
「まさか殿下をお泊めする日が来るなんて、思いませんでしたわ」
「イザベル」
明らかな嫌味にニクロー侯爵レイモンが妻を咎めた。アニエスの母親としてイザベルがエクトルに嫌味を言いたくなる気持ちはわかる。アニエスはそれこそ気にしていないようだが。というか、自分に関する一切のことに興味がないような気がする。
「いや、構わない、ニクロー侯爵。俺も泊まることになるとは思わなかった」
アニエスを送り届けて、普通に宮殿に戻るつもりだった。現在好意を持っている婚約者の家に泊まるのは少々勇気がいったが、普段着姿のアニエスを見られたのはよかった。
「母上も泊まっていただいてよいとおっしゃったでしょう」
「……まあ、そうだけれど」
息子に突っ込まれて、イザベルは少し不服そうだ。アニエスがエクトルを受け入れているので、娘の手前あまり強く言えないのだろう。
「アニエスもエクトル様が一緒の方がいいよな?」
「……昨晩の話?」
ことりと小首をかしげて兄を見たアニエスは、おっとりと言った。ちょっと天然が入っているのだろうか、この子は。
アニエスの返答が返ってくるまで長かったので、結局その話はうやむやになったが、朝食を終えたところでアニエスがちょい、とエクトルの服をつまんで引っ張った。なんだその可愛い仕草は。
「実はちょっとドキドキしました」
それだけ言って、アニエスはエクトルから離れた。なんだ今の。可愛い。
エクトルはローランと共に馬車に乗って宮殿へ向かっていた。アニエスはイザベルに連れられて買い物らしい。イザベルにどんな格好が好みか、と聞かれたので、ドレスでも買いに行くのだろう。……たぶん。
「エクトル様。昨日の犯行声明の件ですが」
「……ああ」
我ながら反応が鈍かった。ローランがさわやかに微笑む。
「妹が可愛いのは当然のことですが、現実に戻ってきてください」
「お前のシスコンもすごいな」
「兄として妹を守り慈しむのは当然のことです」
はっきりと言い切るローランである。まあ、エクトルも年の離れた妹がいるので、気持ちはわからないではない。
「それで、黒衣の騎士とはなにもんだ」
「実態がつかめないんです」
ローランは首を左右に振って困ったような笑みを浮かべる。
「……つまり」
「存在しない可能性が高い、ということですね」
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