【18】
最近、エクトルとアニエスの仲がいいらしい、というの話は、ゴシップ好きの社交界の皆様の間で話題になっていた。その話題の真相を突き止めようと、某伯爵家の夜会に出没した二人を、みんながこそこそと伺っている。
他人の視線はうっとおしいが、誰にどう思われようとそれほど気にする二人ではなかった。この点に関しては、アニエスの方が心が強いだろう。おっとりして気が弱そうに見せかけて、なかなか強情だ。兄のローレンも同じようなことを言っていた。
「エクトル殿下とアニエス嬢ですわよ」
「仲良くしていらっしゃるというのは本当なのね……」
「あら、前から一緒にはいらっしゃったでしょ」
「それもそうね……」
「じゃあ、噂は噂に過ぎないってこと?」
ご令嬢たちが聞こえよがしに言う言葉に、エクトルは憮然としたがアニエスはなぜか笑った。
「殿下、人気ですね」
「王子という肩書に目がくらんでいるだけだ……」
少しあきれて言うと、アニエスはおっとりと微笑んだ。
「嫌われるよりは、好かれている方がいいと思います」
「……なんだか身につまされる言葉だな」
遠回しに嫌味を言われているような気分になる。いや、アニエスはそんなこと言わないだろうけど。アニエスはエクトルを見上げて小首をかしげた。そのアニエスを見て、エクトルも微笑む。
「お前のことは好きだぞ」
「私も殿下のことは好きですよ」
家族のことが好きだ、というのと同じくらいのレベルで言われた気がした。ひとまず、それでよしとした。
王の名代として参加しているエクトルには、夜会に参加している貴族たちが挨拶に来る。アニエスはおっとりと笑っているだけ。もっとも、彼女では会話に入れなかっただろう。頭の回転自体は速いが、口に出るまでが長い。
それはアニエスが化粧直しに行くと言ってエクトルから離れたときに起こった。といっても、アニエスに何かあったわけではない。突然、この屋敷の令嬢が悲鳴を上げたのだ。エクトルはそちらに向かう。
「すまん。通してくれ」
王子であるエクトルに言われれば、通すしかない。ホスト側として差配をしていた令嬢は、悲鳴こそ上げたが客を窓から遠ざけていた。その窓ガラスが。
「念写ですね」
唐突に隣から声が聞こえて不覚にもびくっとした。いつの間に戻ってきたのか、アニエスだ。きっぱりとした言い方に、まさかアンリエットかと思ってうかがうが、どうもアニエスで間違いないようだ。
「念写か……まあ、塗料をかけてこの形にはならないよな……」
古い文字が書かれている。窓ガラスいっぱいにその文字は書かれており、とても不気味だ。エクトルは少し身をかがめて、アニエスに尋ねた。
「読めるか?」
小さく頭が左右に振られた。
「いいえ……アンリエットなら、読めたかもしれませんが」
残念ながら出てくる気配はないらしい。アニエスは小首をかしげる。
「どうも、犯行声明のようですけれど……」
「犯行声明?」
「これからこんな悪いことをします、という宣言文です」
「いや、それはわかっている」
斜めにずれた返答を貰って拍子抜けした。これをおっとりというものだから、一瞬怒鳴りそうだったが、ひとまず耐えて最後まで聞いてからツッコミを入れた。アニエスはさして気にした様子もなく、「そうですか」とうなずいた。
「申し訳ありませんが、お客様方。しばらく会場でお待ちくださいませ」
その間、音楽など、とホストの伯爵が声を上げた。楽団がしっとりと音楽を奏で始める。エクトルはアニエスと顔を見合わせた。エクトルが尋ねれば、伯爵は事情を教えてくれるだろう。帰りたいと言えば、拘束されずに外に出してくれるだろう。アニエスがどうなるかは微妙であるが。
「……行くぞ」
「はい」
アニエスがエクトルの手を握ってついてくる。ちょっとかわいい。少し歩いたところで気づいた。
「アニエス、お前、スカートをどうした」
「え?」
今日の彼女は深みのあるグリーンのドレスだ。控えめに広がるドレープが美しいが、エクトルの視界にちらちらと映る裾は、別の色に染まっていた。裾にあしらってあるフラウンスが薄い色なので分かりやすかったのだ。
「……ワインですね」
「やはりか……かけられたのか?」
「そういえば、お話ししているときにぶつかられたので、その時でしょうか」
「……そうか」
多分それは、エクトルとの仲が改善されているように見えたアニエスへの事情徴収……というより、一種のつるし上げだったのではないだろうか。要するにいじめだが、アニエスは気にした様子もない。そもそも、気づいた様子もない。
「お前は大丈夫か?」
尋ねると、おっとりと首を傾げられた。エクトルが焦れる間に何度か瞬きをしてから、彼女は答えた。
「大丈夫です。アンリエットも出てきません」
「お前の心配をしているんだ」
あきれて言うと、アニエスはなぜか嬉しそうに笑った。
「はい」
「……」
本当に大丈夫なのだろうか。まあ、アニエスはおっとりしてはいるが、頭は悪くないし、とっさの判断力もある。一応信じることにしよう。
「伯爵に着替えを用意させるか」
ダメだと言われれば、帰ると言い出せばいい。どちらに転んでもエクトルは構わない。伯爵に声をかけると、アニエスの着替えを用意してくれた。彼女は平均よりやや背が高いが、まあ大丈夫だろう。その間に、エクトルは伯爵に話を聞くことにした。
「広間の窓、あれは念写のようだが、何があった」
「あ、いや、それは」
伯爵はしどろもどろに口を開く。エクトルが強く「言え」と言うと、観念したように口を開いた。
「ご存じありませんか? この頃、貴族街をにぎわせているんです。黒衣の騎士がその家の宝を奪っていく、と。そして、犯行に入る家には必ず犯行声明が残される……尤も、読めませんが」
「……初耳だ」
エクトルの管轄外の話なので、耳に入っていなかった可能性もあるが、ごく最近の話らしい。兄のジルベールが何らかの対応をしているだろうと考えられた。
「お客様方には申し訳ありませんが、屋敷の中を調べてからお帰りいただくことにしようと思いまして……」
「懸命だと思う。何か言われたら、俺も納得したと言え」
「ありがとうございます」
伯爵がほっとしたように言った。王子であるエクトルが納得したと言えば、他の貴族たちも従わざるを得ないだろう。
アニエスが戻ってきた。瀟洒なドレスから、ブラウスにスカートという軽装になっている。装飾品や靴はドレスに合わせたものなのでなんとなくちぐはぐだ。
「お待たせしました」
「いや、大丈夫だ」
エクトルはジャケットを脱いでアニエスに着せかけた。格好が普段着のようなのでこの場にいるには少し隠した方がよかろうと思ったのだ。きょとんとするアニエスに「着ておけ」と言うと、彼女は素直にジャケットに腕を通した。当たり前だが、大きい。好いた少女が自分の大きな服を着ている、という状況に何とも言えない気持ちになった。
「……アニエス。最近出没するそうだが、黒衣の騎士を知っているか」
「黒衣の? いいえ」
首を左右に振られた。貴族街に住んでいるアニエスなら知っているかと思ったのだが、そんなに有名ではないのか?
「そいつの犯行声明なのだそうだ、あれは」
「はあ……」
アニエスの反応は鈍かった。
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