【17】
「ファントムが現れなくなったと、『アルカンシエル』の中で話題になっている」
「お兄様によると、街でも住民の口に登っているようですが……」
オペラハウスの席で開演を待ちながら、エクトルとアニエスは顔を見合わせた。思ったより皆、ファントム=アンリエットのことを気にしている。
「ですが、出てこないものは仕方がありません」
おっとりした口調できりっと言われた。そのちぐはぐな様子がおかしくてエクトルは思わず笑った。
「そんな自信満々に言われてもな」
だが、きっぱりと言えるのなら、これくらい開き直ってもいいのだと思う。はっきりと言えるくらい、エクトルになじんできただけかもしれないが。
「……思うのですが」
「ん?」
視線を向けると、アニエスはその理知的な顔に見合う真剣な表情を浮かべていた。
「……あれは恐らく、アンリエットの弟弟子……リオネルの魔術だったのではありませんか」
「あれとは、あの影のことだよな」
「はい」
確認すると、うなずかれた。エクトルはアニエスに言われたことを考えてみる。アンリエットの話を思い出してみた。確かに、リオネルは影を使うと言っていた気がする。『影の人』だったか。
「……出てくるのも、建物の影からだったな。可能性は、あるか……? なら、なぜアンリエットは引っ込んだんだ?」
「会いたくないから……でしょうか」
「弟弟子にか? だが、彼女は弟弟子を探していたんだろう。矛盾してないか?」
オペラが開幕になるが、二人は議論を続けた。
「いえ……そうとも限らないのでは……」
「どういうことだ?」
「えっと……」
気の短いエクトルの早口について行けず、アニエスが混乱したように口をつぐむ。エクトルは一度深呼吸をし、アニエスの肩に手を置いた。ビクッとされた。
「すまん。ゆっくりでいい。お前の考えていることを話してくれ」
「すみません……えっと、今のアンリエットでは、リオネルに勝てないんじゃないかな……って」
「勝てない? なぜ?」
アンリエット……リルは、リオネルより強い魔女だった。単純な身体能力でも、彼女が勝っているだろう。当時だって、不意を突かれなければ殺されなかったはずだ。
あの時と違うこと。時代、時の王、場所……。
「ああ、お前の体だからということか」
「はい……私は魔力が強い方ですが、生きているころのアンリエットほどではありません。最大の問題として、私とアンリエットでは、魔力の質が違います」
「ああ……」
アンリエットの二つ名は『閃光』だった。雷や、それに類する魔力の所有者だったのだろう。だが、アニエスは風魔法の使い手である。雷は風に分類されることが多いが、やはり別物だ。性質は近いが。
となると、アンリエットがリオネルに勝てないのでは、というアニエスの考えにもうなずける。エクトルが手合わせした限り、アニエスはそれなりに強いが、『旧き友』の魔女にはかなわないだろう。
「それで引いたのか……」
「……かな、と私は思ったのですが……」
アニエスの眼が、オペラが開幕していることに気づいてステージに向けられた。つられてエクトルもステージを見ると、一幕の半分くらいが終了していた。
「見られませんでした……」
「初めて見る演目か」
「そうですね……脚本は読んだことがありますが」
内容は知っているが、オペラで見るのは初めてだったようだ。それは悪いことをしてしまった。
「そうか。悪いことをしたな……また見に来よう」
「……」
アニエスがエクトルの顔を見上げて目をしばたたかせた。その、思いがけないものを提示されたような顔。
「何か気になることでもあるのか」
尋ねると、アニエスがゆっくりと口を開いた。
「いえ……『また』誘っていただけるとは、思わなくて」
「そうか」
あれだけ苦手だ、気に食わないからときつく当たっておいて、身勝手な話ではあるが、エクトルは今、アニエスに好意を持っているのだ。嫌がられないのなら、誘わないはずがない。
エクトルはアニエスの手を取り、指を絡めた。ぱっと、アニエスの頬が赤らむ。
「ほかの演目を見に来るのもいいな。遠乗りに行ってもいいし、美術館を訪ねてもいい。何かしたいことはあるか?」
いろいろと言われ、アニエスは混乱したようだ。えっと、しか口から出てこない。結局、オペラどころではなくなってしまった。
「悪い、急だったな。だが、よければ少し考えておいてくれ。お前が嫌でなければ、二人で出かけたい」
「い……っ、嫌では、ありません……」
小さな声でアニエスが言った。エクトルは目元を和ませ、「よかった」と微笑んだ。ぴゃっ、とアニエスが体をはねさせて目元をうるませる。その反応から、少なくとも嫌われていないとわかってエクトルはほっとする。そういえば、エクトルがそっけなくしても、アニエスは彼に好意的だった。エクトルは打算があったから彼女を婚約者とすることをよしとしたが、彼女もそうだったのだろうか。今となっては、聞くのが怖い。
「絵画めぐりだろうが、魔法名所巡りだろうが、付き合うぞ」
「……殿下は、王子様ですよね……?」
たとえが庶民的すぎて怪しまれた。
二幕からはちゃんと鑑賞したので、終幕のころにはアニエスも楽し気に拍手を送っていた。エクトルはもっぱらアニエスを眺めていたので、あまりオペラの内容が頭に入っていなかったが。
「あの……私、そんなに変な顔をしていたでしょうか……」
帰りの馬車の中で、アニエスは不安げに自分の顔に触れながらエクトルに尋ねた。ずっとエクトルに眺められていたことに気づいていたようだ。それでもオペラを見続けられる辺りに図太さを感じた。
「お前の表情がくるくる変わるので、かわいらしいなと思っていただけだ」
「……ぅっ」
自分から聞きに行って、ダメージを受けたらしく、アニエスは自分の顔を両手で覆った。その可愛らしい反応にエクトルのいたずら心がくすぐられる。
「顔、見せてくれ」
「い、嫌です……」
「顔が見たいんだが」
「駄目です……見せられません……」
かたくななので、さすがにエクトルは引くことにした。ここまで来て本格的に嫌われるのは避けたい。
「絶対に可愛らしい顔をしていると思ったんだが」
「殿下……そういうことをおっしゃる方でしたか……?」
戸惑い気味に顔を上げたアニエスが、頬を赤く染めたまま尋ねた。確かに、アニエスにはきついことしか言ったことがなかったと思う。だが。
「好きな相手なら、言う」
「……!?」
明らかに困惑した表情を浮かべるアニエスだ。エクトルもすぐに信じてもらおうとは思っていない。
「今までの態度も悪かったからな。すぐに信じろとは言わない。だが、覚えていてほしい」
幸いというか、アニエスにとっては悪夢かもしれないが、これは女王が定めた婚約だ。少々のことでは解消されたりしない。時間はある、と思っていた。
馬車が停まった。ニクロー侯爵家に到着したのだ。エクトルはアニエスをエスコートして馬車から降ろし、その取った手にキスを落とした。ぴゃっ、とアニエスの体が跳ねる。
「今日は楽しかった。お休み」
「お、おやすみなさい……私も、楽しかったです」
淡く微笑むアニエスを見て、エクトルの表情も緩んだ。緩んだまま、馬車に乗り込んだ。浮かれた声で指示を出され、御者がおびえたとかなんとか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




