【16】
ファントム、というか、アンリエットと新しく取引をしてしばらくが経った。エクトルの進言により、王宮の結界は張りなおされたが、まだ油断はできない。
弟弟子の痕跡は見つけたものの、アンリエットはモンスター狩りをやめなかった。遭遇するたびにエクトルが怒っているが、そんなものどこ吹く風で受け流されている。相手が百歳を超える魔女だとわかると、小僧扱いされていることが分かる。それも腹立たしいが、長寿の魔女から見ればエクトルなんて子供も同然だということは理解できた。
その日も、エクトルはファントムと遭遇していた。射手と魔術師の二人の部下を連れて、怪鳥を追っていたのだが、彼らが射落とす前にアンリエットが射落としてしまった。矢ではなく、魔術でだったが。落ちてきた怪鳥をエクトルが斬った。
「おや、ありがとう」
鳥の落下地点に向かってきたのだろう。遭遇したアンリエットはさらりとそんなことを言ってのけた。エクトルは反射的にキレる。
「お前なぁ……! ありがとう、じゃねぇんだよ……!」
相変わらず、彼女は『アルカンシエル』の仕事に横やりを入れている。しかも。
「俺も一緒に行くっつったよなぁ?」
「そういえば、そんな話もしたね」
飄々とアンリエットは言ってのけた。したね、ではない。したのだ。そのまま怒鳴りつけそうになり、なんとかこらえた。
「まあ、お前がただおとなしくしているようなやつじゃないことをわかっていたのに、放っておいた俺も悪い」
「おや! 成長してるね、殿下」
思わず頭をはたいた。余計なお世話だ。
「で、殿下」
魔術師が声をかけてくる。目深にフードを被ったアンリエットは「痛いなぁ」と後ろ頭をさすっている。
一応エクトルは見回り中だった。アンリエットの肩を引く。
「お前も行くぞ」
「遠慮したいなぁ」
そう言いながらも、アンリエットはついてきた。エクトルの同行者は件のファントムの正体が気になるだろうが、王子であるエクトルが容認しているので指摘しないようだが、ちらちらとアンリエットを見ている。
「探し物は見つかったんだろ。なんてまたモンスター狩りしてんだよ」
「痕跡が見つかった、ということだ。本人は見つけていないからね」
それもそうだが。なんとなく釈然としないエクトルだった。そのエクトルに、魔術師が声をかける。
「殿下、来ます」
エクトルはとっさに剣を抜いた。アンリエットも迎撃姿勢を取る。
べちゃ、べちゃ、と泥を落としたような音がする。現れたのは、『人の影』だった。人型と言っても、人間以上の身長に、腕が長い。地面に手を擦りそうだ。かろうじて服を着ているのだろうな、というのはわかるが、顔などはわからない。本当に『影』なのだ。
「……あれは」
アンリエットがつぶやくのを聞いて、エクトルが彼女を見ると、彼女はフードの奥で目を見開いていた。翡翠色の瞳が限界まで見えている。
「殿下!」
長い腕が振り上げられたのを見て、射手が矢を放った。魔術師も攻撃魔法を撃ちこむ。だが、魔法が効いている様子はない。
「打ち込んだ魔力よりも、あっちの魔力耐性が高いんだ。魔法攻撃は効かないと思った方がいい」
アンリエットの忠告が飛んできた。彼女がそう言うのなら、そうなのだろうが。
「矢は刺さっていただろう。物理攻撃なら多少は効く。この辺一帯を更地にしてもよければ、私がやるが」
「やめろ」
それはごめん被りたい。過去の、アンリエット、というか『旧き友』のリルが生きていた時代の話を聞いたときに、彼女は強い魔力の持ち主なのだろうと思ったが、その通りだったようだ。
エクトルが影に剣を突き立てた。確かに物理攻撃は通るし、動きは鈍い。何かはわからないが、倒せる気がする。
「あっ」
アンリエットが剣を斬り下ろしたが、不意に間抜けな声を上げた。そのまま剣が切り上げられる。見事な太刀筋だった。エリアンが肩から切り捨てると、その体が崩壊する。
「大丈夫か」
エクトルが駆け寄るとアンリエットはどこかおどおどとした様子に見えた。
「……アニエスか?」
声を低めて訪ねると、フードの奥から戸惑った翡翠色の瞳がエクトルを見上げた。
「アンリエットが引っ込んでしまいました。どうしましょう……」
「……」
いったい何があったというのか。
少し話をしたアンリエットが、どう見てもアニエスだったので心配したエクトルであるが、彼女の身体能力は変わっていなかった。普通にモンスターを倒し、そしてニクロー侯爵家に帰って行った。けろっとしすぎて逆に不安になった。
翌日、なんとなく不安になってアニエスを尋ねると、見慣れたおっとりとした態度で出迎えられた。最近はよく一緒にいるので、ニクロー侯爵家を訪ねてもあまり警戒されなくなってきた。……婚約者なのに、警戒される方がおかしいのか?
「あれからどうだ。大丈夫か?」
「私自身は大丈夫なのですが……話しかけても、アンリエットが出てきてくれません」
応接室で、不安そうに手をすり合わせながらアニエスは言った。ざっと見たところ、確かに怪我などはなさそうだ。最近、剣を持っている姿に出くわすのはアンリエットばかりなので、アニエス自身がそれなりに剣を扱えることを忘れていた。というか、アニエスの体なので、彼女が剣を使えなければ、アンリエットも当然動けないことになる。
「……消えたんじゃないか」
それはそれで喜ばしいのでは。アンリエットがいなくなったと思うと、付き合いの短いエクトルでも少し寂しいが、本来アニエスだけの体だ。
だが、アニエスは首を左右に振る。
「いいえ……消えたのではないと思います。呼びかけても反応はありませんが、『いる』のは確かです」
そう言うものなのか。当事者がそう言うのならそうなのだろうと思うことにする。
「あの、影のようなものを倒した後に引っ込んだのか?」
クッキーをほおばっていたアニエスが、エクトルの問いかけに首を左右に振る。紅茶で口の中のものを押し流すと、言った。
「いいえ。正確には、あの影のようなものと戦う直前です。……攻撃姿勢を取ってしまっていたので、応戦したのですけど……」
ということは、あの影のようなものを斬ったのはアニエス自身なのだ。
「見事な腕だった」
ひいきではなく、本当に。アニエスははにかんで「ありがとうございます」と言った。可愛いな。
「だが、危険なことはするな」
アンリエットは聞いてくれず、ほいほい外に出るが、アニエスは神妙にうなずいた。
「私のうっかりで死ぬわけにはまいりませんから」
この子は基準がアンリエットだな、とエクトルは思わず眉をひそめた。どれだけ考えても、話さないアンリエットのことはわからないので、とりあえずアニエスに聞き取りを続けてもらう。その結果待ちだ。
「話は変わるが、アニエス。お前、オペラは好きか」
アニエスはゆっくりと首を傾けた。
「オペラですか? お姉様とよく見に行きましたが……」
アニエスの姉ミレーヌはエクトルの兄ジルベールの学友である。本人たち曰く腐れ縁であるらしいが、このミレーヌは昨年嫁いで、ニクロー侯爵家を出ている。つまり今年はともに見に行く人がいないのだろう。
「では、俺と一緒に見に行かないか?」
アニエスがゆっくりと瞬く。反応が鈍くて先を促しそうになるが、耐える。無視しているわけではないので、待っていれば返事がある。……はずだ。
しばらくして、アニエスはおっとりと微笑んだ。
「はい。ぜひ」
「そうか。では、また日時を連絡する」
「はい」
柄にもなく緊張した。ほっとしながら言うと、アニエスはにこにこしたままうなずいた。ダメだ。可愛い。自分がアニエスに好意を抱いていると、再確認したエクトルだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
アンリエットが引っ込んでしまったので、しばらく恋愛パート(たぶん)です。




