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最果ての地にて眠り姫は幸福の夢を見るか?

作者: あさな
掲載日:2020/02/24

※2/25 誤字の訂正しました。

ご報告がくださった方、ありがとうございました。

 二月頭のデパートの催事売り場。ある店は上品さを、ある店は情熱を、ある店は可愛らしさを、様々なコンセプトをかかげた個性豊かなチョコレートがディスプレイされている。簡易の壁で仕切られた空間を、隅から隅まで何往復もしてお目当ての品を探し出す。

 わたしは単なる付き添いだけれど、幼馴染の元峯さくらからアドバイスを求められる。彼女の恋人がわたしの親戚・中里曜一だからである。二人が恋人になったのは去年の暮れで、わたしの方がまだ曜一さんについて知っていることも多い。付き合って初めてのバレンタインに張り切る彼女のサポートを求められるのは自然の流れである。


「さくらちゃんが選んでくれたものなら、何でも嬉しいと思うよ」


 わたしは答える。

 事実である。曜一さんはそういう人だ。

 けれど、そういうことではないのだろうというのもわかる。好きな人のために悩む。その行為そのものが楽しいのだ。本気で困っているわけではないし、本気でわたしに助けを求めているわけでもない。


 二人の縁を繫いだのは正しくわたしである。

 法事で我が家に親族が集まった。お坊さんが帰り、折り詰めの特注のお弁当を食べ、みんなでカラオケに行くのが恒例行事。おじちゃん、おばちゃんたちはたいそう盛り上がるが私は退屈する。人前で歌うのは好きではないし、酔っぱらってきたら時代錯誤の発言をする人もいて老害という言葉が浮かぶ。

 救いの手を差し伸べてくれるのはいつも曜一さんだった。

 その日も「明日は用事があるから」と抜け出すときわたしにも声をかけてくれた。

 店を出る。ビルの谷間は橙色。それをカーテンみたいに雲が覆い、途切れた先、仰ぎ見る真上の空は薄い青の、夜の色に染まっている。まどろむような時間帯。空気がキーンと冷えて、耳鳴りがした。

 自宅は駅とは反対方向だけれど曜一さんはきちんと送ってくれると言った。悪いからと断ることもできたけれど、わたしは頷いて、よく知った道を二人で歩いた。曜一さんはほんの少しだけ前を行くが一定の距離は保たれて開いてしまうことはない。

 これは、わたしの歩調に合わせてくれているのだろうか? 

 わからない。わたしに合わせてくれている、というのはどこでわかるのだろう? すべては思い込みなのではないか。合わせてもらっていると思えばそうなのではないか。ならば、わたしは合わせてもらっている。考えると心臓の音がよく聞こえた。もう一度冷えた空気を肺を満たすように吸い込んだ。晴れた空。夜の空。美しく清らかだ。

 公園前までくると、ぽつんと立ち尽くしている人がいた。さくらちゃんだった。自転車のタイヤがパンクして立ち往生しているらしかった。

 曜一さんはわたしを送るついでだからと彼女と彼女の自転車も送り届けると言ってくれた。さくらちゃんはふわりと笑ってお願いした。

 三人で歩き出す。わたしが先頭。後ろに自転車を押す曜一さん。その隣をさくらちゃん。

 さっきよりも極端に歩調が落ちて意識していないと二人との間に距離ができる。わたしはときどき振り返る。空気の抜けた自転車のカタカタと空回る音がする。

 先に、わたしの家についた。

 こういう場合はやっぱりわたしもさくらちゃんの家についていくべきだよねぇ。取り持っているわたしがいなくなると、二人とも気まずいよねぇ。

 わたしが何と切り出すか迷っているうちに先にさくらちゃんが言った。


「それじゃね、まりなちゃん」


 わたしを促す台詞。

 曜一さんを見る。


「……しっかり戸締りするんだよ」

 

 少しの間のあと、返ってきた。

 こうなっては一緒に行くとは言えなかった。

 わたしは門に手をかけてゆっくりと押した。鉄の門が一度も感じたことがないほど重い。のろのろと中に入り、開いたものは閉めなければと、振り返りぐぅーっと押し戻す。いつもなら、わたしが短いアーチを通り抜け玄関扉の中に入るまで待っていてくれるのに門前にもう人影はない。柵の隙間から覗くと歩いていく二人の後ろ姿が見えた。

 寄り添って隣り合って歩く二人を祝意のように外灯が照らす様を、鉄格子に分断された薄暗い庭先に立って一人で見ていると足元が揺れた。

 知っている気がした。この光景を。

 ゆらゆらとした予感が確信に変わっていく。それは、きっと、曜一さんより、さくらちゃんより、わたしがいちばん感じていた。

 


「まりなちゃん、どうしたの?」

 

 声がして我に返ると赤い頬のさくらちゃんと目が合った。人込みにいたから汗を掻いているのだろう。もうかれこれ七周は展示場を見て回っている。


「少し疲れたかも、休まない?」

「うーん、私はもっかい見てくる」

 

 だが、彼女はへこたれずふたたび颯爽と人込みに足を踏み入れる。ごった返す人の流れを押しのけて進んでいく。

 わたしは何もできなかったあの時みたいに、その後ろ姿をただ見ている。





 金曜の夜、くしゃみが一つ出たのを皮切りに寒気と頭痛に襲われずるずると体調を崩し切った。おかげで土曜と日曜の休日をベッドの中で過ごす羽目になる。休みだからと予定もないけれど。

 何もかも嫌になる。すべてがうまくいってない。そもそもうまくいっていたことなどあったか。思い出そうにも、叫びたくなることばかりが浮かぶ。

 たとえば三年前。わたしは本屋の検索機で蔵書を調べていた。二冊目の検索をはじめるとうしろから「まだ検索するのかよ」という声がして振り返ると角刈り頭の痩せた男が立っていた。わたしははじめて並んでいる人の存在に気づいた。悪かったなと思い謝罪して相手の後ろに並びなおした。待っていると、だんだんと腹が立ってきた。何十冊も検索していたわけではない。並んでいたことも知らなかった。お前が待てない気持ちなんて知るか! と無視してよかったし、「まだまだ検索しますよ」ぐらい言い返せばよかった。そいつはわたしが年嵩のいかない気弱そうな女だから舐めて嫌味を言ったのではないか。なのにわたしは、相手の言い分を反論することなく受け入れた。そんな自分が、あんな偉そうな物言いをされて、すごすご引き下がってしまった事実が、どうしても悔しい。 

 死ね! 死ね死ね。わたしに悪意を向けた人間は全員死ね。

 呪いを、唇からもらし、途端に我に返る。わたしは恐ろしくなった。こんな些細なことで他人の死を望むことにではなくて、人を呪わば穴二つ、わたしにもよくないことが降りかかるのかもと思うと恐ろしくて、やっぱり今のはなしと念じる。

 嫌なことばかり思い出すのは暇なのがいけないのかもしれない。でも、忙しくするというのはそれはそれで難しい。体調が悪いのに身体を動かすわけにはいかない。

 わたしはスマホを手にした。画面が明るくなると目の奥が刺激され、じんわりと生温い痛みに涙がにじんだ。光の棘に慣れるとお気に入り一覧から小説投稿サイトをクリックする。

 ファンタジー、王道

 キーワードを入れて検索。いくつもの作品が該当する。わたしはスクロールして適当な作品を開いた。

「黄昏の涯にて」

 とても寂しそうな題名である。始まりの一文を目で追う。


「彼女の話をしよう」


 語りかけ。

 かねてからの疑問だが、小説というのは一体どのようにして書くものなのか。こういう語りかけならば、読者に向かって綴ればいいのだろうけれど、そうでないときはどうするのか。誰かに読んでもらう目的の文章にはいくらかは語り掛けの要素を含有するのだろうけれど。

 答えなど容易に出そうにないので、ふたたび作品に戻る。





楽園があった。

そこは貧富の差も、身分の差もない、皆が平等に穏やかに暮らす場所。


あるひと組の夫妻に子ができた。

皆も祝い喜んだ。

しかし、臨月に入ると急に妻の容体が悪くなった。

このままでは命が危うい。

夫は薬を求めて探しまわるが、有効なものは見つからなかった。

苦しむ妻の手を握り励ますだけの日々が続いたある日、旅人がふらりとやってきた。

夫婦の話を聞くと旅人は、助けてやる代償に子をもらうと言った。


「このままではどちらの命も失われるのだ。

妻も子も助かり、なお妻はお前のそばにいる

子ならばやがてまたできるだろう」


夫は旅人の言葉に最後はうなずいた。


「約束、違えるなかれ」


旅人は妻に薬を与えた。

やがて妻は体力を取り戻し、丈夫な子を産んだ。

夫は約束の通り旅人に子を差し出した。


「これはいい」


旅人は大いに笑った。


「確かに子をよこせといったが、お前の子とは言わなかったからな

人とはなんと恐ろしい生き物か」


高笑いをやめぬ旅人に夫は告げた。



「うちには長いこと子ができなかった」

     ――憤怒が

「ようやっと授かった子をやれるはずがない」

     ――物欲が

「あの夫婦にはすでに五人の子がいる」

     ――嫉妬が

「ならば一人くらいよいだろう」

     ――高慢が



罪が、生まれた。

罪が、生まれた。

罪が。


「ああ、そうだとも、そうだとも

それが真なる平等というものだ」


旅人は子を抱き上げると消えた。


嵐がくる。

諍いという嵐が吹きすさぶ。

自分のために他者を排することを是とするなら、避けられない。

それが理。


そして、崩壊がはじまった。

大地を混沌が覆う。

やがて楽園は分断された。


すべては張りぼてであったよう。

何もかもが偽りであったよう。

きっかけひとつで、あっけないほど楽園は崩壊した。


だが――


いかほどの月日が流れたか。

人は一人では生きていかれない。

散り散りとなったはずの人々が、少しずつ集いはじめた。

村を作り町を作り国を興した。

しかし、その世界には身分差も、貧富の差も、男女の差も、存在した。

虐げる者、虐げられる者との間で、小競り合いは常にあった。


愁いの中で誰かが言った。


「悪魔が我々から幸福をかすめ取ったのだ」


共通の敵に、皆が呼応した。

徒党を組み、こぶしを震わせる。


取り戻せ。

取り戻せ。

奪われたのなら、取り戻せばいい。


轟は熱となりうねる。


――――おもしろい


応える声があった。


――――宣戦布告、聞き入れた


地響きがし、大地が罅割れ、割れた隙間から異形が現れた。

今度は人間と異形の争いの幕が切って落とされた。


血が流れ、憎しみが増した。

命が散り、怒りが溢れた。


長い戦いに終止符を打ったのは、一人の青年。

聖なる力を手にした勇者。

勇者は異形の長を討ち滅ぼした。


異形の消えた場所に、強い光が一筋落ちると、地面が反射した。

勇者の目は眩み、強く瞼を閉ざした。

しばしのち、光の洪水が静まった気配がし、瞳を開くと少女が横たわっていた。


――――返してやろう


声と呼ぶには禍々しく、擦り切れた音が聞こえた。


それはかつて、平和と共にさらわれた子。

はじまりの子。

哀れな子。


勇者は手を差し伸べた。

少女はその手を取った。


温かい手。

柔らかい手。

光。


それは少女に初めて与えられたもの。


少女は閉ざされ生きていた。

否、それを生と呼んでいいのか曖昧な。

時のない場所、静かな場所、周囲は夜と呼ぶには明るく、昼と呼ぶには暗い。

思いついたように、ふと風が流れることがあった。

風が流れると身体が軋み、成長した。

少しずつ、少しずつ、風に当てられ赤子から幼児、少女へと。

空腹を感じることも、渇きを感じることもない。

何も感じないのは、何もないのと同じ。

ただ、その肉体だけがゆっくりと老いていく。

老い切ってしまえば、それでおわりなのだろう。

少女は漠然と思っていた。

ただ、その日がくるまでここにいるのみである。

寂しくも、悲しくもない。

或いは、寂しくも、悲しくもあったのかもしれないが、そうと理解できなかった。

はじめから何もないから、何かを感じる必要もなかった。

終わりを。

ただ、終焉を。

それだけの存在であったのに。


勇者は行く当てのない少女を保護した。

故国までの凱旋の道中、人の生業を手ほどきもした。

少女にとってそれは物珍しく、新鮮で、楽しいものだった。

キラキラと見るものすべてが鮮やかに美しい。

勇者の指導の甲斐あって、国へたどり着く頃、少女は人並みのことをこなせるようになった。

そして、少女は勇者に感謝をした。

世界を与えてくれた人、優しさを与えてくれた人、少女にとって世界の中心。


帝国につくと勇者はすぐに皇帝陛下に謁見した。

皇帝は少女の存在に不安を抱いた。

異形の元より戻った者、異形と通じる者を危惧するのは国を統べる王として当然である。

冷めた視線が少女を突き立てた。

望まざる存在。いらない存在。

少女は俯いた。

世界から拒絶され、それを一人きりで受けとめるにはあまりに重い。

どうすればいいかもわからない。


勇者は言った。


「異形の元から奪還したということはこれこそ我らの勝利の証ではないですか」


禍の種と見るか、福の兆しと見るか。

渋面の皇帝を説得したのは、控えていた皇女である。


「お父様、誰よりも異形を知るであろう勇者様がそうおっしゃるなら、その通りなのではありませんか」


皇帝は深く考え込んだ。


少女が死ねば、その消えゆく命が贄となり、ふたたび厄災をもたらす可能性もある。

下手を打つより、未だ怪しい動きがないなら静観するべきか。

最後は少女の存在を赦すことを選んだ。

ただし、町から離れた森の奥に暮らし、その森より出ないことを条件とした。


簡素な小屋で少女の新しい生活が始まった。

必要な物質は五日に一度配給される。

それ以外で訪れるのは勇者だけである。

勇者は暇を見つけては、少女の元にやってきて、あれやこれやと世話を焼いた。

生活に必要なことばかりではなく、文字の読み書きなども教えた。

少女は満たされていた。勇者がいてくれるなら、他に求める物などなかった。

だが、次第に勇者の訪問回数が減っていった。

三日後、五日後……だんだんと間隔が開いていく。

少女は窓辺から外を眺め、勇者がくるの待った。

独りでいるのは慣れていた。否、待っていれば勇者が来てくれると思えば格段に楽しかった。

待つ者があるというのは、とても気分がいいことである。

待っている間、少女は書物を読み、人の暮らしについての知識を増やしていった。

時折、書物から顔を上げ小屋の外を覗くと雨が降り森の濃い緑を濡らすこともあった。雨音が静寂をより強めたが、雨が止むと差し始めた日の光が雨粒を反射させ硝子のように輝く姿は美しかった。

そうして過ごしていると、十日ぶりに勇者が現れた。

少女はいつものように窓辺にいて、勇者の姿を見つけると立ち上がり小屋を出た。

出迎えの少女に気づくと勇者は片手を挙げた。合図に少女も答えようとして、その後ろにいる人物に動きをとめた。

勇者と……もう一人、少女も見たことのある人。皇女様。


「同性同士の方が話せることも多いでしょう? なんでも話してね」


まばゆいばかりの笑みで皇女が告げた。

以降、少女の元を訪れる折は二人必ず一緒に来た。

二人は婚姻を結ぶのだという。もうすぐ夫婦になるのだという。

夫婦がどういうものか、少女にも書物を通して理解できた。

めでたいことだ。めでたいときには、お祝いしなければならない。


「おめでとうございます」


告げると声が喉に絡みついて、腹の底が凍ったように冷えた。

めでたいとき、このようになるものなのか。少女は戸惑った。

叫びだしたいような、走り出したいような、そんな衝動。

わからない。わからないものは居心地が悪い。

少女は二人が並び立つ姿を直視できなかった。


そんなある日、事件が起きた。


木々が紅葉し、肥えた大地に葉を落とし、地面が赤と黄色で覆われた。

一年の内、最も森が豊かになる時期。

三人は山菜狩りへと向かった。

普段は行かない場所、キノコや果実を籠一杯に摘んでいると狼の群れに遭遇した。

厳しい冬を前に、獣たちは寒さをしのぐ準備に入る。

ひときわ大きな個体、群れの長であろう狼が低く唸り前足で地面を強く蹴り上げた。枯れた葉が散らかった乾いた音がした。


次に少女が目を覚ますと見慣れぬ天井があった。

視界が悪い。左目に触れるとざらついた布が宛がわれている。

狼の群れに襲われ、治療の為に緊急で王都に運ばれたのだと聞かされた。

少女は命を取り留めたが左目を失っていた。

意識を取り戻してほどなく、部屋に勇者と、それから皇女が入って来た。

勇者は首から三角巾を下げていたが、それ以外は元気そうである。

皇女には一切怪我がない。勇者に庇われ無傷であの場から逃れた。

混線していた少女の記憶が鮮明になっていく。

狼が飛び跳ねた瞬間、勇者が皇女を庇うように前に出たのが見えて、次に耳元に獣の息遣い、かと思えば身体の自由を奪われて地面に倒された。

枯れ葉が緩和剤となり衝撃は感じなかった。或いは感じられないほど身体が硬直していた。

意識の端で勇者が皇女を逃がす声がする。

左目が刺すように熱を持ち、駆けてくる足音が最後に聞こえた。


「彼女が人を呼んでくれたおかげで、助かったんだ」


礼を――と勇者は言った。


「……ありがとうございます」


皇女は少女に近寄って、もう大丈夫よ、とほっそりとした白い手で頭を撫でた。

次にそれが頬に移り、滴り落ちる熱いしずくを拭う。

もう、大丈夫。もう、怖くない。

繰り返される言葉に少女の胸が詰まり、涙はとめどない嗚咽に変わった。


少女は歩けるようになると小屋に戻った。

皇女はもう少し回復するまで留まるようにと言ってはくれたが一刻も早く王都を離れたかった。

そうでなければ、よくないことが起きる。

そうでなければ、よくないことを起こす。

何かが、何かが、何かが――――――。

足元が不安定で、大地の上に立っているのに覚束ない。

森でのことがあって以降、ずっと腹の底で冷たく、熱く、蠢くもの。

これは何であるか。

知らない。

知りたくない。

知ってはいけない。

けれど、



知りたい。



何が足元を揺るがすのか。



少女を混乱に落とすもの。

少女を焦燥に駆らせるもの。



『わたしは、何を、』


疑問。


―――――カワイソウニ


小鳥のさえずりような川のせせらぎのような優雅で静かな声が、通り雨が降り出す寸前の甘い潮の匂いと共に聞こえた。


――――可哀想に

――――ああ、可哀想に


そう、少女は可哀想な子だった。

狼に襲われて左目を失った。顔にも傷跡が残っている。


――――そうではない


そうではない?

では、何が?


―――――わかっているのだろう?

―――――だから悲しいのだろう?

―――――だから憎んでいるのだろう?


憎む。その言葉が少女の心臓を強く打った。

底冷えしているのに、禍々と熱をもつ正体不明のものが、名づけられた瞬間に存在を強固にした。


『わたしは、憎んでいる』


唱えると臓物が煮えたぎるように熱く発した。

痛みはない。ただ、燃えている。燃えて、燃えて、研ぎ澄まされていく。


少女には何もなかった。

生まれてすぐ両親を奪われ、昼とも夜ともない永遠の逢魔が時の塔に閉じ込められ一人きり。

いずれ肉体が滅びれば、もろともに消え失せる運命だった。

何もない。何も知らない。ただ、純粋な命として存在した。

ある日、塔から放り出された先に待っていたのは一人の青年。

彼は少女に世界を教えてくれた。


見るものすべてが美しく。

触るものすべてが珍しく。

聴くことすべてが楽しい。

世界とは、人とは、これほどのものかと――――――


少女は五感を取り戻し、感情を取り戻し、人になっていった。

それはけしていいことばかりではなかった。

昼があれば、夜があるように、

楽しいがあれば、悲しいがある。

嬉しいがあれば、怒りがある。

相反する事象が存在し、そして、存在するものがすべてを祝福できるわけではない。


――――可哀想に、可哀想に

――――慕っていたのに、一番にはしてもらえなかった

――――あの男の特別にはなれなかった

――――お前をその気にさせながら、いざとなれば見捨てた

――――助けてもらえず、左目を奪われた

――――何かあれば優先されるのはお前ではない

――――腹立たしいだろう? 悲しいだろう?


違う、違う。

あれはそういうのではない。

二人は夫婦となるのだ。

夫婦となるから、何かあればお互いを助け合うのは当然で……。

仕方ないこと、どうしようもなかったこと。

その後で助けてもらったのだから、見捨てられたわけではない。


――――仕方ない? 本当に?

――――ならば、すぐに助けられなかったことを詫びられたか?

――――左目が失われたことを悲しんでもらえたか?

――――そうでないなら、お前など命があるだけよかったと思われている証拠

――――情けで拾ってやった命が少しぐらい欠けたところで大したことではないと


違う。

そんな人たちじゃない。

優しくしてくれた。

親切にしてくれた。

気遣ってくれた。

違う、違う。


――――ああ、可哀想に。意固地になっても誰も褒めてはくれない

――――ああ、可哀想に。もっと正直になればいい

――――お前は憎んでいるのだ

――――お前の中にあるのは憎しみ

――――手を差し伸べながらも、突き放したあの男を

――――お前の存在を知りながら、あの男を奪っていったあの女を

――――知っているか? 

――――あの男が森にこなくなったのはあの女が引き留めていたせい

――――知っているか? 

――――あの女はお前を異形に差し出した男の子孫ということ

――――いつも、いつも、お前から奪っていく

――――だから、恨むのは当然。憎むのは当然。何も遠慮することはない

――――糾弾すればよかったのだ『何故、一番に助けてくれないのか』と

――――怒鳴りつければよかったのだ『そのせいで、左目を失った』と


違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うう違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。


――――あはははは。そんなに否定しなくてもわかっている

――――わたしにはわかっている、お前の本心が

――――だって、お前は、わたし


右と左。

上と下。

対象をなすもの。

境界線。

相まみえないもの。

混ざる。

混ざる。


一度に二人は助けられないから。

愛する人を助けるために真っ先に動くのは当たり前。

私を見捨てて二人で逃げれば彼も怪我をせずにすんだのに、私を助けてくれた。

それで十分、それ以上に望むのは傲慢というものだ。

それを憎むなんて、恨むなんてお門違いもいいところ。

わたしの思いが叶わないからと、何もかもを呪うのは見当違い。


だけど、だけど、だけど……


――――どうしてわたしではなく、あの女を先に助けたの?

――――どうして、どうして、どうして、どうして

――――あの女を先に助けたから、わたしは助けてもらえなかった

――――あの女は無傷で、綺麗な顔のまま、親もいて、権力もある、皇女様

――――わたしは左目を失い、額に消えない傷も残り、誰もいなくて、何もない

――――憎い、憎い、悔しい、不平等、なんという理不尽。許せない



是と否が溶ける。

天と地が融ける。



何もなかったわたしに、世界をくれた。世界は素晴らしかった。

――――世界は残酷に順序をつける。特別になれないなら何もいらなかった

長く人の世から離れていたわたしを、受け入れてもらえたのだ。

――――森から出るなと命じられた。居場所などないとまた突き付けられた

優しくしてくれた。特別な感情はなかったけれど、人として親切にしてくれた。

――――同情された。可哀想だから捨て犬を拾うみたいな気まぐれ。けして対等ではない



混乱が。

混沌が。

激流のように襲う。

身も心も張り裂けそうに苦しい。



――――苦しいなら、正しさなど捨ててしまえばいい

――――辛いなら、理性など無視してしまえばいい

――――感じたままに素直になれば楽になる

――――さぁ、さぁ、さぁ、さぁ



わたしは、

――――さぁ

―わたしは、

―――さぁ

――わたしは、

――さぁ

―――わたしは、

―さぁ

――――わたしは、

さぁ



――――どうしてこんなことになったのか?

――――世界は美しいけれど、わたしには手の届かないものがある。

――――世界は優しいけれど、わたしには注がれないものがある。

――――それが、こんなにも、こんなにも、妬ましい。

――――恨んでいるの。嫌っているの。

――――消えてしまえばいいのに。



ああ、そうだ。

それでいい。それでいい

認めて、すべて消し去り、また、あの黄昏時に還ればいい

世界を壊して、何もない故に完璧だったあの場所へ

遠慮はいらない

大丈夫、怖いくないよ

みんな一緒に消えるなら誰も寂しくないよ

そして、ひとり、夢を見ればいい

今度はうんと幸せな

幸せな、幸せな、王子様と結ばれる夢

だから、



――――優しい、優しい、子守歌みたいな。

――――甘い、甘い、誘惑。

――――紅の闇が迫ってくる。

――――ああ、とても懐かしい。



還るための、言葉を

たった一言―――――――――――――『 滅 び ろ 』





 酷い頭痛に目を開けた。

 首筋をパジャマの袖で拭うとぐっしょり湿るほどの汗をかいている。

 横になりスマホをいじっていたところまでは覚えていたが、いつのまにか意識を飛ばしていたらしい。

 夢……を見ていた。もう遠くに消えて内容は朧けになってしまったが、寂しいものだったように思う。それを身体中で受けとめたせいで肉体が疲労している。胸の真ん中に大きな空洞ができてしまったような、そこから大切なもの、生きる活力だとか、喜びだとか、キラキラと美しいものがこぼれて行くような感覚があり、とても虚しい。体力を回復するために横になっていたのに、これでは逆効果だ。

 倦怠感にしばし仰向けになっていたが、喉の渇きを覚えて這い出すようにベッドから抜け台所へ向かう。

 廊下を渡り階段を下りたが誰もいない。もう夕刻で、今日は日曜日で、だから父が居間でテレビを、母が夕食の支度をしているはずが、不気味に静まり返っている。

 何処へいったのだろう? 出掛けるといっていたっけ?

 何かがおかしいけれど、それがうまくつかめない。

 冷蔵庫の扉をあける。中の電球が反応しない。何度か開けたり閉めたりするとウィーンとモーターが回る音がしてようやく明るくなった。水切り籠からコップを取り出してペットボトルの水を注ぎ一口飲む。生温い。冷蔵庫そのものが機能停止になっていたらしい。空っぽの胃には冷たすぎるよりはいいかもしれない。

 コップになみなみ注いだ水を飲みほしても渇きは消えなかった。けれど胃の方が水ではなくもっと栄養のあるものを求めるので、ふたたび冷蔵庫をあける。すぐに食べられそうな物は見当たらない。出歩きたい気分ではないが、このまま横になる気にもなれないので、迷った末にコンビニに行くことにした。

 パジャマのズボンだけを履き替えて、上半身はコートで隠す。自転車は家族の誰かが乗っていったのか見当たらないから徒歩だ。

 日が暮れはじめて薄寒い。コートの襟元を摘まんで風をしのぐ。

 コンビニは徒歩五分圏内にないとコンビニエンスとは呼べないと言ったのは誰だったか。便利さを覚えるほど、豊かになるほど、欲深くなる。なければないなりに満たされていたのに、一度知ってしまったら知る前に戻ることをよしとはできないのだ。

 とりとめのないことを考えながら進んでいると違和感を覚えた。

 音がない。車の通りはおろか、自転車や徒歩の姿も見当たらない。時間帯によって誰もいないことはあるが、もっと根本的な生命の息遣いや匂いがない。まるで無菌室に閉じ込められてしまったように、無味無臭の空気と建物だけがある。

 家の中でも虚無を抱いたが、あれがもっとずっと濃くなって、世界に一人取り残されたようで不安になる。バカバカしいと思う。そんなわけがない。わたし以外の人が消えてしまうなんて、映画や小説ではないのだから……。でも、自然と足が早まった。そんなわけがないことを証明しなくてはいけない。駅前までいけば流石に人がいるだろう。目で見れば、音を聞けば、すべてが解決する。

 焦るわたしを傾いた太陽が背中から差して、前に長い影が伸びる。一歩踏み込めば、一歩先に逃げる。永遠に終わらない影踏み。一人遊び。誰もいない。


「まりなちゃん」


 突然わたしを呼ぶ声がして振り返る。

 ようやく見つけた人。よかった、やっぱり人がいた。

 そこには男女が二人立っていた。――さくらちゃんと、曜一さん。

 知った顔に安堵とタイミングのよすぎる登場に面食らう。

 そういえば、今日デートだと聞かされていた。本当はバレンタイン当日に会いたかったけれど、社会人の曜一さんが平日に時間を作るのは難しくてゆっくり会える日曜日に会うことにしたと。ただ、チョコだけは十四日に渡したいと言えばもらいにきてくれた。イベントはイベントの日ではないと意味がないから、仕事で疲れていても、帰りにこちらに寄ってくれたと。そういう意味の文章が電子の波に乗って届いた。無機質であるはずの文字が踊っているように見えた。わたしはよかったねぇと顔文字を添えて返した。そうしながら腹の底が冷えた。一連の報告に、微笑ましいとか、可愛らしいとか、そう感じるべきなのだろう。でも、わたしは曜一さんの親戚だから、曜一さんが無理したのではないかとそちらの心配の方が大きかった。曜一さんに無理をさせる嫌な女。

 はっと息を呑む。

 何を考えているのだろう。そんなこと、思ってはいけないのに。けして、思ってはいけないのに。思わないように避けてきたのに。それは全部妬みだから。

 わたしは二人と一歩、一歩と距離をつめる。

 だけど、その距離が全然埋まらない。歩いても、歩いても、近づけない。まるで影みたい。たしかに二人はそこに立ってわたしを見ているのに、立ち止まってこちらを見ているのに、追いつけない。

 よくないことを思ったからだろうか。それが伝わってしまったからだろうか。

 違う、違う。アレは違う。

 否定を繰り返すが、そうするほど酷い耳鳴りと頭痛がした。

 激しく。とても、激しく。鈍い痛み。どっくどっくと脈拍が振れて、胸の中央に空いたままの大きな空洞に風と共に理性や理屈や常識や良識が剥がれて吸い込まれ、隠していた醜く淀んだ感情が余計に表面へとあぶりだされていくような。

 ふと匂いがした。甘い香り。雨が降る寸前の潮けの混ざった甘い香り。

 ああ、知っている。この感覚を知っている。

 飲まれて、飲み込まれて、委ねてしまった感覚。

 違う。違う。

 わたしはもう味わいたくはなかった。悲しいことも、辛いことも、寂しいことも。そう望み、味わわなくて済む手段を選んだ。それは達成されたはずだったのに。何を間違えたのだろう。どこでおかしくなったのだろう。もうずっと、何もかもがうまくいかない。


「これからデートなんだ」


 ふふふっとさくらちゃんが笑う。とても無邪気に笑う。

 さくらちゃんの桃色のステンカラーコートと白いマフラーが風に舞う。肩まで伸びた髪をホットカーラーで巻いている。さくらちゃんは髪が細く柔らかく型がつきにくいからあまり髪型で遊べないと文句を言っていたが、今日はキレイに巻けている。時間をたっぷりとかけて、頑張ったのだろう。可愛くありたいという努力。

 対するわたしは、コートの下はパジャマで、寝ぐせのついた髪。何の努力もしていない。

 そう、わたしは、何も努力をしなかった。

 努力をするということさえ知らなかった。

 ほしいものを手に入れるためには、待っているばかりではいけない。そんなことも知らず、見ているだけだった。そうして、嫌になって、何もかもを捨て、わたしは逃げ出した。

 逃げた先で幸せになるはずだった。幸せな、幸せな……――――――夢。

 どくりと身体が脈打ち、頭の中から、ガラガラと何かが壊れる音がした。

 音は加速をつけて、ばらばらと落ちてくる。世界を構成するすべてが。


「それじゃあね」

 

 さくらちゃんが手を振る。二人の姿がぼんやりと消えて行く。とけていなくなって……引き留めようとしたけれど金縛りにあったみたいに動けない。


――ああ、そうだ。


 夢を見ようと思った。

 知ってしまったから。

 世界を知ってしまったから。

 だからこそ、見られるはずの夢。

 それで、今度こそ幸せになるの。

 世界を壊して。

 何もかもすべてを破壊して。

 たった一人、最果ての地に還り、そこで夢を見るはずだった。


 なのに、どうして?


 風が止み、辺り一面が、ふたたび静寂に包まれる。

 一人きり残されたわたしの視界には、逢魔が時の毒々しいほどの赤い空が広がるばかりだった。

読んでくださりありがとうございました。


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