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美奈子ちゃんの憂鬱

美奈子ちゃんの憂鬱 過去と母と長い髪

作者: 綿屋 伊織

 瀬戸綾乃の髪は、かなり長い。

 子供の頃からずっとのばし続けている。

 その理由は、母にある。

 綾乃の母、瀬戸由里香もまた、かなり髪を伸ばしている。

 物心ついた頃から母の長い髪が羨ましかった綾乃は、今までずっと、髪を伸ばしてきたのだ。

 しかし、そこには大きな謎が残る。


 何故、瀬戸由里香は、髪を伸ばしているのか。


 娘から聞かれても、何故か由里香は話題をはぐらかし、父である昭博もまた、何故か哀しげなまでの苦い顔をして黙ってしまうせいで、綾乃もその真実は知らない。

 ただ、小さいときから、「両親の機嫌を損ねるから、聞いてはいけないこと」位にぼんやりと思い、タブーとしてずっと触れなかった。


 今回は、そんな小さな謎についてのお話。


 母が髪を伸ばしている理由。

 その真実を、綾乃が知ったのは、たった一枚の写真がきっかけだった。

 綾乃の家には、学者である父、瀬戸昭博の研究資料や文献を収める書庫がある。

 その一角でのことだ。

「……やっちゃったぁ」

 綾乃は、中身を散乱させてひっくり返った段ボール箱を前に顔をしかめた。

「どうしたの?」

 物音に気づいたんだろう。母が近づいてくる。

「ごめんなさいお母さん。段ボールひっくり返しちゃいました」

「……あら」

 段ボールの中身は、どうやら写真や書類らしい。

 すこしだけ色あせ始めている写真を一枚、手にした由里香が驚いたという声で言った。

「懐かしいわねぇ」

「えっ?」

「これ、あなたがお腹にいた頃の写真よ?」

「……」

 綾乃も一枚、写真を手にしてみた。

 どこか旅行にでも行ったときの写真だろうか。

 どこかで見たような、でも違うような、心にひっかかる場所。

 若い頃の両親が、そこで楽しげに微笑んでいた。

「これ……どこかで見た場所なんですけど」

「葉月運河公園」

 娘の肩越しに写真を見た由里香は、即座に答えた。

「公園が出来たばかりの頃」

「……ああ。この噴水って、昔はこんな形だったんですね」

 由里香は片づけ始めた写真の山から他にも何枚か取り出した。

「水瀬さん達と一緒に遊びに行った時の写真ね」

「へえ?」

 さっきの写真が座っていたせいもあるだろう。

 母から見せられた写真に、綾乃は少しだけ驚いた。

 それは、母と水瀬悠理の母、水瀬遥香の二人が並んで立っている写真。

 二人の腹は、大きくふくらんだラインを描いている。

「……私達が、ここに?」

「そうよ?」

 由里香は懐かしむようなうっとりとした顔で、自分のお腹を撫でた。

「あなた、お腹にいる時から元気で、もう何度蹴ってくれたか」

「……へぇ」

 写真の中と現在、外見上はあまり変わっていない母達だが―――

「あら?」

 綾乃は、そこに気づいた。

 今とは決定的に違う事。

 それは―――

「お母さん」

「はい?」

「この頃、髪を切っていたの?」

 そう。

 由里香の髪は肩のあたりで綺麗に切りそろえられていた。

 悠理の母である遥香もだ。

「ええ」

 何でもない。という顔で由里香は頷いた。

「お腹の子供の事もあるし、思い切ってって、遥香さんと一緒にね」

「……初めて聞きました」

「そう?」

「そうです」

「……まぁ、思い出したくないこともあるから」

「何です?」

「あのですね?」

 由里香は語り出した。

 約16年前の真実を―――


 ●瀬戸由里香の場合。

 お腹の中でまた赤ちゃんが動いてくれた。

 ―――お外に出たい。

 そう言っているみたいだ。

 早く、外に出してあげたい。

 でも、もう少しだけでも、このままでいたいから―――。

 由里香は大きくなったお腹をさすると、鏡の前に立った。

 肩の辺りの感覚が全く違う。

 昨日まで腰まで伸ばされていた髪がない。

 美容院で思い切って、肩の辺りで切りそろえてもらったのだ。

 もしかしたら、人生でもかなり大きな決断だったかもしれない。

 遥香さんも一緒に切ると言い出さなかったら、もしかしたら切らなかったかもしれない。

「あなたのためなんですからね?」

 何をするにしても、近頃はお腹に語りかける習慣が出来ている。

 でも、それが何より嬉しい。

 後は―――昭博さんだ。

 今日、髪を切ることは、昭博さんには黙っていた。

 抱きしめてくれるたびに髪を指に絡ませる癖のある昭博さんだ。

 髪を切ったことを知ったら、どうするだろう。

 何て言ってくれるんだろう。

 残念?

 似合う?

 その答えを聞くのが、女としてドキドキするほど待ち遠しい。

 由里香は時計を見た。

 今日は、確か遅くなると聞いてはいる。

 でも、もう10時すぎだ。

 そろそろ―――


 ピンポーン


 玄関でチャイムがなった。


 昭博だ。



「おかえりなさい」

「たらいまぁ!」

 玄関に入ってきたのは、へべれけに酔っぱらった夫、昭博だった。

 入って来るなり、タバコと酒のにおいに思わず由里香は顔をしかめた。

「やぁ、駅で水瀬先輩と一緒になったんで、ちょっとだけのつもりが……」

 ろれつの怪しくなった口で必死に弁明する昭博は、トロンとした目つきで目の前の女性を見た。

「……あれ?」

「……ど、どうしました?」

 髪、切ったの?

 由里香は、夫がそう言うと思っていた。

 似合うよ。

 夫は、絶対にそう言ってくれると、信じていた。



 ところが―――



「……」

 何故か昭博は、玄関の中をきょろきょろ見回した挙げ句、

「大変失礼しました」

 その一言を残して玄関から出ていってしまった。

「あ、あの!?昭博さんっ!?」

 夫に何が起きたかわからない由里香は、サンダルをつっかけると慌てて玄関から外に出た。


 チュドォォォォンッ!!


 盛大な爆発音が隣の家、水瀬家から聞こえたのはその瞬間。

 どうやら夫婦喧嘩がスタートしたらしい。

 遥香、スマンっ!

 話せばわかるっ!

 玄関が吹き飛び、亭主である由忠の命乞いが聞こえる中、由里香の夫、昭博が家の前で首を傾げていた。

「あれえ?」

「ど、どうしたんです?」

「……その声は由里香さんなのに……あれえ?」

 由里香はそれで悟った。

 酔っぱらった夫は、目の前の女性が一体、誰なのか分からなくなっているのだ。



「そんな馬鹿な」

 そこまで聞いた綾乃は、思わず声をあげてしまった。

「酔っぱらっていたからって、妻の顔がわからなくなるなんて!」

「―――事実です」

 由里香は憮然とした声で言った。

「思わず殴ってしまいました。翌日、お父さんはお母さんに土下座して謝りましたが、お母さんは未だに許していません」

「……はぁ」

 お母さん、結構頑固だから。

 ……お父さんも大変だ。

 綾乃は少しだけ、父親が気の毒に思えた。

「だから、お母さんはその時、お父さんに言ってあげたんです。髪が短くなったら、妻の顔が分からなくなるなんて、あまりに薄情です!そんな薄情者が夫なら、私は一生、髪を切りませんからねっ!―――って」

「……ああ」

 ぽんっ。

 綾乃は思わず手を叩いた。

「それでお母さん、髪を切らなくなったんですか?」

「そうです」

 由里香は自分の長い髪を指で梳いた。

 午後の日差しを反射する母の黒髪の美しさに綾乃は目を奪われる。

「この長い髪は、女の、そして妻のプライドを傷つけたお父さんに対する当てつけです」

「……意地っ張り」


 翌日 明光学園教室

「―――というわけです」

 昼休み、綾乃は水瀬や美奈子達と一緒にフルーツを食べながら、昨日、母から聞いた話を話し終えたばかりだ。

「……にゃあ……おばさんの言い分はわかるよね」

 未亜はリンゴをかじりながら何度も頷いた。

「髪型変わったら、夫から誰だかわかってもらえなかったなんて、妻として傷つくもんねぇ」

「綾乃ちゃんのおじさんって、結構ドジなんだね」

 美奈子のちょっと意外。という顔だ。

「あれほどの学者さんなのに」

「知ってるんですか?」

「民俗学系の解説書、かなり持ってるよ?図書館にだってたくさんあるし」

「……はぁ」

「……知らなかった?」

「お父さんが本を出していること、知りませんでした」

「……後で言ってやろ」

「やっ!困りますっ!」

「……ふうむ?」

 そのとき、感心したような、複雑なため息をついて、腕組みをしたのは水瀬だ。

「どうしたんです?悠理君」

「あのね?」

 水瀬は言った。

「それ、同じような話、聞いたことあるの」

「えっ?」

「僕のお母さんが、髪を伸ばしているのも同じ理由なんだって」

「そうなんですか!?」

 綾乃は思わず声をあげてしまった。

「てっきり、似合うからとばかり!」

「おばさんも言ってたでしょう?お母さんも一緒に切ったって」

「―――はぁ」

「にゃあ。じゃあ、水瀬君のおじさんも?」

「少しだけ違う」

 水瀬は首を横に振った。

「でも、おじさんの方がまともだと思う」

「?」

「―――お父さん、酔っぱらって帰ってきて、玄関で出迎えたお母さん見て、別な名前言ったんだって」

「別な名前?」

「うん―――愛人と間違えたらしいよ?」

「……」



「おやおや」

 その日の夜、綾乃は久しぶりにリビングで父親の肩たたきにいそしんでいた。

「珍しいこともあるもんですね」

「タマにはサービスです♪」

 言いつつ、綾乃は思った。

 酔っぱらっていたし、髪型を変えると結構イメージが変わる女はいる。

 だから、お父さんの失敗はカワイイものだ。

 自宅の玄関で、愛人の出迎えを受けたなんて、普通は絶対にしない勘違いをしてのけた由忠叔父様のようなマネはしていないんだから。

 そう。

 私のお父さんはマトモなんだ。


 綾乃は、自分をそう言い聞かせた。


 台所には、父の好物のおつまみを作る母の後ろ姿が見える。

 その髪は長い。


 父への当てつけ。


 母はそう言う。

 だけど―――

 綾乃はふと思った。

 その時、お母さんが本当に怒ったのは、傷ついたから。

 一瞬でもお父さんに忘れられたって思ったから。

 その時以来、お母さんが本当に髪を伸ばしている理由。

 それは、お父さんに忘れられたくないから。

 そんな心の現れなんだろう。


 そんな母が、綾乃には少しだけいじらしい存在に思えた。


「あ、お母さん?私、お茶いれましょうか?」



  

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