なんだろさん
突然俺には「なんだろさん」なるものが見えるようになってしまった。もちろんこいつに元からそんな名前があるわけでもないし、周りの人がこいつを見れるわけでもない。俺がおかしくなったわけでもないし、周りがおかしくなったわけでもない。ただ、人のやることなす事にいちいち「なんだろなー。なんでだろなー」と言うだけのこいつを俺が勝手になんだろさんと呼ぶことにした。それだけである。
最初にあいつが出現したのは、俺が家でゲームをしてるときだった。
成績不良だった俺は、周りで次々に大学に合格していく友達が鬱陶しくてならなかった。テストの点数がどーだとか、模試の判定はどーだとか、鬱陶しいったらありゃしない。
家に帰っても、前回の点数がどーだとか、今回はいけそーなのかとか、ゲームなんてしてていーのかとか、そんなことばかりである。
親が入れと言った学校に入って、行けと言われた方へ歩いて、俺の人生こんなものかと思ったらもうどうでもよくなった。大学もテストも何もかも。それは俺が決めたんじゃない。勝手にお前達が決めただけ。俺の考えも意思も尊重なんてするはずもなく。
ゲームの敵キャラに負けてコントローラーを投げ出そうとしたその時、すぐ隣で声がした。
「なんだろなー。なんでだろなー」
ぎょっとして後ろに飛びずさった俺は、生まれて初めて驚きすぎて声が出ないという経験をした。
そいつは俺の体よりも大きく、頭は自身の体の3倍はあった。ウサギのような長い耳と黄ばんだ体。黒いボタンを取り付けたような目は中の綿もろとも飛び出して、顔の真ん中にぶらさがっている。見た目はぬいぐるみ。でも決して子供向きではない。
「な、ななななな!」
指を指してガクガク震えている俺など見えていないかのように、その巨大なぬいぐるみもどきは右へ、左へ、大きく体を振りながら、なんだろなー。なんでだろなーと言っている。
「お、お前っ!ど、どどどどどこから入って!」
壁に背中を打ち付けながら、それでも下がろうとする俺に一瞥もなく、そいつはじっとテレビの画面を見ながら体を揺すっている。
「なんだろなー。なんでだろなー」
お化けが出ましたとかそんな生優しいものではない。体が揺れると、少し遅れて飛び出した目が揺れ、何か目的を達成するのでもなくただそこにいるだけ。ご飯が欲しいとか、飲み物が欲しいとか、そんなものなら喜んで出しただろうが、そうでもないのだ。俺が広げていたお菓子やジュースに目もくれず、ましてやコントローラーにすら無反応。ただ言うのだ。なんだろなー。なんでだろなー、と。
朝、俺がリビングに降りていったときに母親が
「うっ!」
と言ったのを聞いたのは恐らくあのときが最初で最後に違いない。いつもなら昨日の勉強とか口出ししてくるのに、震える声でいってらっしゃいとだけ言ったのを聞いたのはあれが初だった。
「母さん、俺の後ろになんかいる?」
「あ、あんた、大丈夫……?」
精魂尽き果ててはいたが、それでもどうしても気になって鏡の前に行ってみる。そこには深いクマと、やつれた顔。目は落ち窪んで、口から魂さえでかかっていそうな散々な見た目の俺がいた。頭が真っ白になっているのかとヒヤヒヤしたが、頭は黒いままでほんの少し安心した。
一晩で頭が真っ白になっていたら、俺は今日から平成のマリーアントワネットとか呼ばれているのだろう。
「な、なんなんだこれは……。俺は、昨日ラスボス倒そうとして、それで……。げっ!」
そうこうしている間にも、あのぬいぐるみもどきはゆっくりと俺の後ろに忍より、人一人分の距離を開けてただたっていた。俺は逃げるように家を出た。
昨日の晩に分かったことだが、こいつはどうやら俺に危害を加える気はないらしい。それから、俺以外の人間が見ることもこいつの声を聞くこともない。現にそれは昨晩様子を見に来た母親がこいつを前にしても無反応であったことが証拠として挙げられる。
登校している間も誰一人としてこいつに反応する者はない。あるとすれば一晩でやつれた俺を気味悪がるくらいなものである。
授業中も、授業の合間も、こいつはただ俺の隣で体を横振っているばかり。他の生徒がぶつかっても、通り抜けるだけで何も問題はない。そんな、ただいるだけの存在は呆気なく俺に慣れというものを引き起こしていった。
見た目はグロテスクだが、俺を傷つけることも生活に支障が出ることもない。気になると言えばこのサイズである。俺が4人分くらいの場所を取るこいつが側にいるとどうしても圧迫感があるし、肩身が狭い。いつの間にか肩をすぼめて生活しているのを知ったときの敗北感にも似た感情は恐らく俺にしか分からない。
「はい、この問い分かる人いますかね?」
そんな教師の言葉を聞き流しながら、俺はこの日も窓の外を見ていた。グラウンドで体育の授業をしている生徒を見ながら、その生徒の中にこいつと同じ姿がないか探すのだ。こいつは俺に危害を加えない。分かっている。それだけでどれだけ俺が救われているかってことぐらい。しかし、やはり問題がある。それは
「なんだろなー。なんでだろなー」
この終始繰り返される声。大きすぎるのでもなく、小さすぎるのでもなく、一人言のようなこの声が一日中隣でエンドレス再生され続けると、どうしても気が滅入ってくる。
何がなんだろなーだよ。なんでだろなーだよ。そんなの俺が聞きたいわ。どこかの芸人でも無いんだし、突然現れてずっと隣でこんなこと言われ続けたら俺が頭おかしくなるわ。何考えてんだこのタコ。
肘をつきながらそう思っていた俺の前に小テストが配られてくる。そんなものの存在すら忘れていて、いざ解こうとしても分からない。もちろんだ。勉強してないのだから。
「なんだろなー。なんでだろなー」
そんな苛立ちをよそに、隣からは一定のペースで揺れながら一定の感覚と口調で声が聞こえてくる。イライラが最高潮に達すると、俺は机を叩きつけるようにして立ち上がり、ぬいぐるみもどきを指差した。
「なんだろなーなんだろなーってうっせーぞお前!」
「おいこら座れ池田」
日を追う毎にそれはもう無視し難い問題となってきていた。
問題はただ1つ。
うるさい。
こんなことでと思うかもしれないが、とにかくこいつうるさい。
クイズ番組をぼーっと見ていても、なんだろなー。なんでだろなー。
月曜日まじうぜーと思ってなんとか起きようとしてるのに隣でなんだろなー。なんでだろなー。
仕方なくノート広げて頑張ろうとすればなんだろなー。なんでだろなー。
ゲームしてると隣でなんだろなー。なんでだろなー。
俺のやることなす事全てになんだろなー。なんでだろなーコメントがついてくる。
我慢しかねた俺は、その日ポータブルのゲームを布団の中に持ち込んで電源を入れた。今まで俺の行動を監視する事でなんだろなー。なんでだろなーコメントを可能にしていたかもしれないが、こうやって見えない状況に持っていけば自ずとこいつは何も言えなくなる。
「へっへっへ!ばーかばーか!こうすりゃお前も俺が何をしてるかわかんねぇだろ!そこで困ってやがれ!」
とこれ見よがしにバカにしてから布団の中に潜り込むと、声は聞こえなくなった。
やはり、俺が見えてなければこいつは何も言えなくなるのか。
そう思っていた俺は、いつの間にかゲームオーバーになっていることに気がついて布団の中で声をあげた。
「おいおい!まじかよ!こんなところで負けるかぁ!?こんなやつに気をとられてまた一からかよぉ!」
と言うと、布団の外からまたあの声が聞こえてきた。
「なんだろなー。なんでだろなー」
俺は布団をめくりあげてそいつを見てみた。ゆーらゆらと揺れながらそう言うところを見ると、思わず頭突きをかましたくなる。
完全に俺をおちょくっている。そうとしか思えない!
「なんだコラ!バカにしてんのかおめー!」
「なんだろなー。なんでだろなー」
「わかってんだぞ。俺にはわかってんだぞ!そうやって構って欲しいアピールしてんだろ?そうなんだろ!」
「なんだろなー。なんでだろなー」
「あ、そうか!お菓子か!お菓子欲しいのか?」
「なんだろなー。なんでだろなー」
「とか、思わせて実は一緒にゲームがしたいとか!?」
「なんだろなー。なんでだろなー」
そこまできて俺は一度深呼吸をした。そうしてそいつの前に座ると、対等な気持ちで向き合った。
「よし、俺がお前をそいつとかあいつとか心の中で呼んでいたことは謝ろう。確かに呼び方は大切だ。そうだな?」
「なんだろなー。なんでだろなー」
内心イラッとしながらも、俺は腕を組んでなんとか苛立ちを押し殺す。
「俺はこれからお前をなんだろさんと呼ぼう。どうだ?嬉しいだろう。この名前に免じて俺の前から去っていただきたい」
「なんだろなー。なんでだろなー」
「違うぞ。なんだろさん。俺は今疑問を投げ掛けてるんじゃない。去ってくれとお願いしてるんだぞ?そこまでは分かるか?」
「なんだろなー。なんでだろなー」
「だからだな、まずは盃を酌み交わす的な感じで炭酸ジュースを酌み交わそうじゃないか。それでいいだろ」
「なんだろなー。なんでだろなー」
黙った。心の中でぶつかり合う冷静な自分と怒りを露にする自分。待て。ここで声を荒げるのはいかん。ここはあくまで冷静に……。
「なんだろなー。なんでだろなー」
「やっぱおちょくってんだろこのヤロー!一回表出ろコラァ!」
「こら聡、うるさいわよ」
「なんだろさんと腹わって喋ってんだ!うるせー!」
「なぁ、聡。お前最近大丈夫か?」
休み時間、机に突っ伏していた俺を見かねた原田亮太が声をかけてきた。
「大丈夫お前。なんか最近ずっとぐったりしてるし、なんか、やつれてんぞ」
それはそうである。なんたって今も俺の隣でなんだろさんは体を揺すっているのだ。俺は机に頭を落としたまま鼻で笑った。
「はは……やっぱわかる?」
「お前なんか問題抱えてんの?相談に乗るぞ?」
「まじで?何とかなる?これ何とかなる?」
亮太は自信たっぷりに俺に問いかけてくる。
「ほら言ってみ?恋愛か?勉強か?」
「なんだろさん問題」
「大丈夫か?」
俺の勉強の遅れと、俺の精神状態を心配した母親が、休みの日に亮太を家に呼び出した。もちろん部屋の中はなんだろさんが半分以上を占め、その中に亮太と俺がいるわけで窮屈である。
「聡ってさ、いっつも家の中でそんな小さくなって勉強してんの?」
「ちょっと部屋狭くてさ」
なんだろさんのせいで。
「まじで?俺の部屋より広いけどな」
「案外狭いって」
なんだろさんのせいで。
「とりあえず、始めるか。で?聡どこからわかんねぇの?」
そう言われて、俺はチラリとなんだろさんを見てからノートを広げた。亮太との勉強中、なんだろさんは何故か一言も声を出すことは無かった。何故かは分からない。ただ、あんなに俺を悩ませていたなんだろなー。なんでだろなーの一人言はピッタリと止まったのである。
「なんだろさんが止まってる」
俺はあまりの感動に、どうしてもそう言わずには居られなかった。
「なんだろさん止まってる!!」
「おい、大丈夫か聡」
俺は踊り出しそうになりながら、亮太の手を掴んだ。両手でギュッとその手を掴み、亮太に熱いまなざしを送った。これだけの感動が今まであっただろうか!いや、ない!なんだろさん停止に成功したなんて、信じられない!
「ありがとう亮太!俺まじで今感動してる!これからも頼む!」
「い、いや、俺は別にいいけど。あ、そういう意味じゃなくて、いいけど。とりあえず手離してくれる?」
その日からと言うもの、俺はとにかく亮太に張り付いた。休み時間や移動時間、とにかく合間と言う合間、亮太に張り付いた。もちろん亮太からは割りと引かれていたが、この際誤解されたとしてもどうでもいい。もう、なんだろさん問題解決の糸口は亮太にしかないのだ!
亮太に張り付けば張り付くほど、努力家の亮太の巻き込みによって俺も勉強をするようになった。
母親はその姿を見て何も言わなくなったし、俺自身考え方も少しずつ変わってきていた。亮太は勉強を教えるのが上手かったから、意味が分からないまま放っておいた場所もいつしか分かるようになり、自ずと点数も伸び始める。
周りの反応もいつしか俺をバカから、論理的なやつとして見るようになってきていた。
大学に合格した日、あれだけ俺を悩ませていたなんだろさんは突然姿を消した。どこを見ても、探しても、あれだけ片時も離れなかったなんだろさんは気配すらなくなり、俺もまたなんだろさんを忘れていった。
「ねぇ、パパ。雨が降ってるよ」
数年後、俺は窓に張りついて雨を眺める幼い娘に顔を向けた。
「今日は雨の日だからな。でも、来週には止むからまた来週遊びにいこうな」
そう言って手元の新聞に目を向ける。
「ねぇ、パパ。なんで雨って降るの?」
「そりゃ、雨って言うのは」
なんだろなー。なんでだろなー。
不意にその声がよみがえった。
「パパ?」
俺は窓に映った娘の隣に、目が飛び出したような大きなぬいぐるみもどきの姿が見えた気がして目をこすった。もう一度見てみれば、そこには何もいなかったが、そこでふと長年の謎に納得した。
「あぁ、そっか。なんだろなーって、そう言うことか」
ゲームで、負けるはずがないところで負けた。
勉強をする意味が分からなかった。
どうして俺の目の前になんだろさんがいるのか分からなかった。
俺は、何も自分で考えようとはしていなかった。
「ねぇ、なんで雨って降るの?」
娘がもう一度そう聞いてきて、俺はそっと隣にいって一緒に雨を眺めた。
「さぁ?なんだろなー。なんでだろなー」
と、体を横に揺らしながら言ってみた。娘が首をかしげているのを見て、おかしくなってしまう。
「じゃあ、なんで降るのか一緒に考えようか」
俺にはもうなんだろさんは見えない。娘には見えているのだろうか。いや、きっと見えていないんだろう。大丈夫。なんだろさんがいなくても、きっとこの子は大丈夫。
俺は娘と一緒に本を探しに図書館へ向かった。
最後まで読んでもらってから、もう一度読むと、なるほどそれで言ってるのかと、よりわかっていただけるかなと思います。