エピローグ2 風が吹いている
風が吹いている。
隙間一つない、行き止まりにして吹き溜まりに、空気が流れる音。
道もないのに、なぜ。
そんな些細な疑問は視界に入ってきた情報で吹き飛んだ。
揺れる炎をともしたランプが影を作る。
古木を思わせる焦げた茶色のコートがわずかにはためいている。
引き込まれるような双眼は、深く黒く、輝いていた。
暗がりの中であっても、誰だ、と言うほど記憶は古びてはいない。
探偵の姿に相違ない。
だが、そんなはずはない。
彼の死は、確かにこの眼で確かめたはず。
「――お前は死んだはずだ」
勝手に喉元からこぼれた言葉を、探偵は微笑みで返す。
「死とはどう規定するのでしょうね、この魔術のあふれる世界で。なんてごまかされるのはお嫌いですか?」
「確かに、お前の死をオレ達は視たはずだ」
「ええ。確かに見せました。ですが、ここに『私』がいてもかまわんでしょう」
あまりにも落ち着き払った、淡々とした振る舞い。
幻覚だと断ずるにはあまりにも、存在感があった。
だが、ありえない。
「どうやって、ここに来た」
――目の前に居るはずはない。
この男が何者であっても、この鍵のかかった空間に待ち受けられるはずはない。
「さて、貴方が何者でもないのなら、私がここにいることはなんでもない話のはずでしょう、アルセトさん」
探偵は淡々と語りながら、じぃ、と睨みつけるように、こちらを覗き込んでくる。
「なんだ、すべてわかっている、とでも言いたげな口ぶりじゃないか」
「世間で蔓延する噂話よりは詳しいつもりですよ。あなたが為そうとする破滅のシナリオに関しては」
暗がりを照らすたった一つのランプが、またも風に揺らめく。
漆黒の瞳もまた、情熱に浮かされたように、揺らぎ、そしてきらめく。
ああ、と心の内で感嘆の声を漏らす。
目の前の男は、幻か、虚構か、偽りか。
そのどれであっても、あるいは構わない。
もしも目の前に対峙している人間に彼の意思がなければ。
これほど、心臓の音は高鳴っていなかっただろう。
目の前の形そのものはともかく、宿る意思だけは間違いなく、本物だ。
「闘志が高ぶってるところ悪いが、オレは偶然ここを訪れただけだ。もちろん、アンタがそこにいるのには驚いたがな」
だから、言い訳を重ねてしまう。
「もちろん、その可能性も願っていました」
「なら、一緒に外に出ようじゃないか。何の話かは知らないが、別に今すぐ結論を出さなくちゃならない、と言う話でもないだろう」
先送りにしよう。
もう少しだけ、視線を合わせない時間が続いてもいいんじゃないか。
「残念ながら、あなたがどうしようと、もう私の為すことは変わらない」
そう願ったのに、炎を映す瞳は頑として動かなかった。
この男はすでに。結末を見据えている。
おそらくは、なにをしても、自主的にこの場を離れることはないだろう。
背を向ければ、強硬手段に出られるかもしれない。
計画としても、この場を離れて――いや、この場所を陣取られて魔法陣を起動させることは不可能だ。
何より、この場に至ってオレ自身がこの場所を離れる理由がない。
「なら、ご高説願ってもいいか」
ならば、逃げることはできない。
こちらが腰を据えるのを見て、彼は笑った。
「かまいません。ですが、最後くらいはフェアに行きましょう」
「何を公平にするって?」
「たった今、アンフェアになりそうなものが二つほどありまして」
探偵が取り出したのは銀に鈍く輝く、球体。
表面に浮かび上がる紋様は幾重にも重なる魔法陣に違いない。
「それはなんだ」
「存じているでしょうに。『夕暮れ』ですよ。本物のね」
探偵には、しらばっくれた――ように聞こえたらしいが、そうではない。
「どうしてアンタがそれを?」
なぜそこにあるのか。
そちらの方が疑問だった。
「この部屋にあなたが来てから、後ろ手に魔術を起動されても困りますから用意してたんですよ」
「――なるほど。用意周到なことだな」
探偵は微笑みながら、『夕暮れ』を机の上に置く。
「これが一つ目。貴方は魔術を今使えない。不都合なことが合っても後ろ手に魔術の起動、なんてマネはできないということです」
話を聞きながら計画の遂行、と言うこともできず、魔術でねじ伏せることもできない。
もとより、そんなつもりなんてなかったが。
「かまわないさ。二つ目は?」
「時間をかければ私の仲間が駆けつけるのが間に合うかもしれません。構いませんか」
妙な問いをするものだ、と思った。
この場所にたどり着くものは他にいない。
目に見えるものにしか気を向けてこなかった連中には、この地の底には届かない。
権力と領地を奪い合うことでしか、発展できないと思い込む。
この世界の陣取り合戦が終わらなかった要因でもある。
そんな奴らに、この地の底にまでは目は届かない。
それに。今は、今だけは優先したいものがもう一つある。
「そんなの、気にしない。それに、アンタが謎を解き明かしたっていうならぜひその答えを聞いてみたい」
「採点がしたい、ということですか。教職らしいとでもいうべきでしょうか」
その推測はズレている。
以前にも思ったことだ。
ロージキィは、洞察力には優れているが、時折、人の心情を読み解くのが恐ろしく下手になる。
ないものはないと推理できても。
あるかもしれない物のあたりをつけられない。
論理の紐づかないところでは、ひどく勘がさえない。
だからこそ、思考と言う武器を身に着けたのかもしれない。
その推理の残響にもまた、そんな弱点は残ったままらしい。
「まあ、そんなところだ」
ただ、そんな勘違いでも構わない。
「では、お話ししましょうか。どうせ、決着に影響はないでしょうから」
鷹の瞳が見つけた結論は果たして、どんな過程を描いたのか、目の前の男の口から聴いて見たかったから。
「結論にたどり着くには三つのプロセスを経ました」
探偵は机の上に紙を敷く。
「一つは『動乱』を生み出した大陸を巻き込む魔術における偽装」
ペンを滑らせ、小さな丸が描かれる。
「二つ目はそれにまつわる、魔術を超えた知識の必要性」
球状の『夕暮れ』が転がり隣に置かれる。
「そして、最後に――つまらない方法ですが、貴方でしかない理由を特定した」
指が空を滑り、こちらを差していた。
「聞かせてもらおうか」
「では、まずは動乱を描くはずだった、魔術の円についての話です」
探偵は机の上の紙をつまむと、見せつけるようにぴらぴらと動かす。
「その中心はグランブルトの魔導学園の塔と言われていましたが、それは少々ズレている。我らが今立つこの地球は球体。その表面に描かれた円の中心は、地下に埋まっている」
よどみない語り口に、この男は分かっているな、と確信した。だから、余計な口は挟まず、一通りの説明を聞くことにした。
「この世界の地球も、大きさのスケールは向こうと変わらない。視界に収まる程度の魔術ならいざ知らず、数百万人規模の人間が住まう国々を覆いつくせる魔法陣とあれば、数百キロメートル単位の直径となっていたことでしょう。その場合数十メートルは地中に埋まった地点がその『核』となる」
「それで、この場所を突き止めた、と」
「ええ。万が一にも地上でエドワード卿の計画が成功に近づいた際には、真の『核』であるこの地下でその魔術を操るおつもりだったのではありませんか?」
「さあな、アンタの言ってることが正しいならそういうことを考えていた人間もいただろうな」
アルセトの曖昧な回答に、探偵もまた小さくうなずく。
「それが一つ目の偽装です。エドワード卿の生み出した大陸をまたがる魔術は、彼がこの大陸に平等を敷くためではなく、奪い取ることができる何者かのためのセーフティに過ぎなかった」
「可能性がある、だろう。仮説と事実を混同すべきじゃあない」
「ええ、ですが、仮説を重ねた先であれ、実際に今、起こったでしょう」
探偵はわずかにも身じろぎすらせず、ほんの少しだけ笑みを深め。
指先を、天へ向けた。
「地球を覆う、衛星軌道を使う魔法陣は、巨大な魔術を扱うためだけではなく、地上で行われる魔法陣を塗り替えて、そこに満たされる魔力を奪うこともまた目的だった」
腕を下ろすと同時、その指先は大地へ向く。
「もしもエドワード卿の計画が成功に向かっていった場合、今撃ちあげられようとしていた地球の衛星軌道の魔法陣を作る計画を早めてしまおう、とでも考えていたのでしょう」
「筋は通っているようにも聞こえなくもないな」
「ともあれ、今起きている衛星軌道の魔法陣と、エドワード卿の作り出そうとしたシナリオは地続きの話、と言うことです――であれば、衛星軌道の魔法陣を誰が描こうとしているのか、それを知れば答えにたどり着く」
探偵は足を組み替えながら、指をもう一つ立てる。
「二つ目は現在地球の衛星軌道に描かれようとしている魔法陣から漏れた確信です」
「漏れた?」
「ええ。犯人は私と同じ地球に暮らしていた、あるいは暮らしてきた地球の現代人――ある
いはそれに類した文明レベルの人間であるだろう、と確信しています」
「へえ、そんなけったいな発想にたどり着いたのはどういったわけなんだ?」
「そもそも、思想の話として。今行われようとしている魔術は――何のために行われるのでしょうか」
改まったように紡がれる言葉は、問いかけるように。
地の底から、空を見上げるように。
「世界すべてを巻き込む魔術。にもかかわらず、国も、貴族も、あるいはギルドのような力を持つ組織のいずれにも属さない、何者かによって行われている。どこからもその正体が漏れないような一個人がこの大魔術を成立させたところで、世界すべての敵となって破滅するだけです」
――そう。破滅なんて、初めからリスクですらない。
「そして、そんな破滅前提のある個人が、世界を破滅させる十年にもわたる計画を為したうえで正気を保つ、と言うのは難しい話です。広い視点を備えたうえで周到な用意を重ねた、と言えるエドワード卿でさえ、大陸全土が限度だったと言うのに」
探偵はもったいぶるように語りながら、視線はこちらから一切離れない。
じっと、覗き込む瞳は、未だに見通すべき真実を求めるように。
「地球すべてなんて巨視的――グローバルな視点を持てるのは生まれた時から視点が違う人間――つまり、別世界から来た人間と言うのは自然な発想ではありませんか?」
その予想は、やはり少しずれている。
確かに、自分と同じ発想に至り、そして実行に移し人間は居なかった。
ただ、以前。同志を募ろうとしたことはあった。
二十年前から十年かけて行った、一度目の計画の時だ。
魔族と言う同志を束ねて、一大勢力を築き上げ、計画は一歩手前まで行った。
強大な力を手にした者はその力に溺れ、安易な道を選ぶ。
結果、人間と魔族の最終戦争などと言うつまらないものに発展した。
幸福とは程遠い、混乱と破壊だけがもたらされた結果だった。
だから、探偵の予想は違う。
視点が違う、なんて孤高な理由で味方を作らなかったのではなく。
視点を共にできる味方がいなかったから、孤独だっただけ。
そこまで考えて、自分以外の誰からしたって、そんなものは些細な違いか、と自嘲した。
孤独も、孤高も、他人からすれば等しく独りだ。
「ただの空想じゃないか。探偵を名乗るならもうちっと根拠のある予測を上げてみろよ」
投げ出すような声で、いら立ち交じりになった、と自分でもわかるほどだった。
目の前の男の推論が少しずれているからに違いない。
「そう言っていただけると思いましてね、科学的な裏付けもありますよ」
男は堂々と飄々と。
確信に至った推論をそのまま口にし続ける。
「地球の円周を周回させるには、宇宙空間での正確な位置の導出のために相対性理論を必要とします」
魔導学院に入って以後、聞き覚えのない言葉だ、と確信を持って言える。
ただ、同時に。はるか昔、ここではない場所で聞いた覚えのある言葉でもあった。
「魔術は円と、その中心を繋ぎ合わせる必要があるのですから、そちらを把握できていない人間に、宇宙規模の魔術は発動できない」
重力と時間が存在する世界で、宇宙と地球において、わずかに時間の流れる速度は異なる。
GPSのような、人工衛星によって位置を正確に把握するシステムにおいて、宇宙と地球の時間差を考慮しなければ地上では数kmもの誤差が生じるほど、重要なものだ。
その差を考慮に入れるには、探偵の言ったように相対性理論によって重力と時空間の関係を導く、もしくは数えきれないほどの実験を必要とするだろう。
だが、この世界において、自分が宇宙へ飛ばしたロケット以外に宇宙空間を目指した物体は存在しない。
つまり、この世界の人間がこの計画を実行するには実験を重ねずに時空間を支配する理論に至らなければならない、
「解説は必要ですか、教授」
「要らないさ、そんなもの」
光に速度がある、と言う論文が出回るのが騒ぎになるようなこの世界で、相対性理論にたどり着くのはまだ先のことだろう。
つまり、宇宙を周回する魔法陣なんてものは、この世界の人間には作れない。
そんなわかりきった話の説明は要らない、と言う意味でもあるし。
「そもそも、オレとは何のかかわりもない話じゃないか」
当然のように白を切るに決まっている。
ここまでの話で、結局大事な前提が自分と結びついていない。
「結局、その発達した文明から来た人間が犯人であるってことは重要なのか」
「アルセトさん、あなたと私がこの地下を通じて竜を止めに行ったとき、あるたとえ話をしたんですが覚えていますか」
ぴしり、と指先にしびれにも似た感覚が走った。
「おや。覚えていませんか」
言っていない、と言うのは無意味とわかる。
目の前の男はただ、確認作業をしているに過ぎない。
「さあ、話したかもな」
曖昧な回答に、探偵は小さく首を横に振った。
「貴方に蛇口をとめるんじゃあなく、水源をつぶす必要がある――と説明してもらったのですが、この世界には、未だに水道と言う概念はありませんよ」
「――」
「魔術で水を生み出せるのですから、水を運ぶという概念があまりに薄い。水筒さえ珍しい道具なんです。そのせいで、公衆衛生と言う概念すら導入がずいぶん遅れているようで、とある医者はずいぶん苦労していたようです。そんな現状、水道なんてのは別の世界から来た方でもないと、アイデアとしても浮かばないような概念ですよ」
「――確かに、オレは珍しいことを知りすぎていたからかもしれないな。だが、それは確たる証拠なんかじゃあない」
つぶやいた己の心を振り返れば、ぽっかりと穴が開いたようだった。
「――だが、オレ以外の、真っ当な天才がいて、アンタの言うその理論にたどり着いたんだろう。そいつが、こんな大仕掛けを思い付いたんじゃあないか」
ここまでの前提は、犯人がこの世界よりも随分未来の思想と知識を持っていて、オレもそれに似た観点を持っている、と言うだけの話。
世界に一人くらいは、常軌を逸した天才という者はいる。
リェールは果てしなく、それに近かった。
もしも彼がオレの視点を持っていたなら、たやすくこの計画を実行できていたことだろう。
「確かに。アインシュタイン並みの天才が計画を遂行したかもしれない、とは思っていましたよ」
自分の心がどうしてこうも悲壮に満ちているのか、というのは分かっていた。
「そいつは知らないがな、オレも同じ結論にたどり着いたんで、ここに来ただけだったんだ。さあ、一緒に真犯人を待とうじゃないか」
結局、彼は犯人を特定したのではなく。
敵がいることを特定して、もっとも疑わしい人間が自分だっただけだ。
ほんの少し、けれどとても大きな差。
自分が待たれていたわけではない。
ただ、敵を待っていただけだった。
そこまで思考が巡ったところで、その結論を否定された。
何よりも早く、明確に焦点のあった、双眼によって。
「いいえ。その言葉は明確に否定します」
耳に届く声は、ひどく、凛として聞こえた。
「疑っているだけなら、私はこんなところに閉じこもらず、貴方に探りをもっと入れていましたよ。結果、貴方を取り逃すことになっても、計画をとめる方を優先したことでしょう。ですが、貴方が犯人だろう、と言うことに私は確信を持っていました。私がこんな手段を取ったのは貴方を確実に捕えるためですよ、アルセト教授」
「――へえ、言ってみてくれよ」
つい、挑発するような言葉が自分の口から洩れた。
たとえ、たとえ、この計画のすべてがつまびらかになったとしても。
こんな無茶な方法でなければその発案者が自分だと特定されない自信はあった。
探偵は少しばかり、目を細めた。
笑みの中に、ほんの少し影を差すような表情だった。
「あなただと確実に特定したのは私の遺品として扱われたペンです」
「指紋でもついていた、とでも?」
「初めに言っておけば、私の遺品が見つかるのは必然でした。正確に言えば、犯人は必ずエドワード卿の遺体を訪れ、そのついでに私の遺体からその遺品を引き抜いてくださる――と思っていました。私の友人であれば、なおさら」
ずいぶん奇妙な信頼だ、とは思ったが、事実、その通りに彼の遺品を一つだけ、炎の中から救い出してしまった。
「燃える業火の中、犯人はエドワード卿から二つ、回収しなければならないものがあった。一つはその血肉。彼の遺した魔法陣を再利用するために、彼の肉体を用いて魔術を乗っ取る算段を立てるつもりではいたことでしょう」
「――」
「もう一つ、エドワード卿の生死が不確かであれば、このがれきの下をくまなく捜索されてしまう。結果軍や警察の介入も招く羽目になる。この地下室が見つかる可能性を減らすためにも、エドワード卿の生死を確かめることより、復興に多くの力を注がせる現状を導いた」
「アンタ、この穴倉に潜んでいたんだろう。見てもいないことをよく堂々と語れるな」
探偵は「ええ」と答えながら、暗がりをすいすい歩き、土くれの壁に手を付ける。
「ある程度は知っていますよ。専用の通信網がありましてね」
ほとんど何も見えないようなところでかがむと、転がっていたモノを拾い上げ、コンコンとたたく。
ランプの灯りを鈍く反射する金具を見て、ピンときた。
「『伝話』か」
「ええ。何者かが私の家を『伝話』によって盗聴しているのは知っていましたから、それを利用して私自身も盗聴していた、と言うわけです」
その仕掛けに覚えはある。
自分がこの街の声を収集するため仕掛けた盗聴器。
おそらくはそれにただ乗りする形で、探偵の事務所をこの場所から盗み聞いていたのだ
逆用された、と逆上するのも筋が違うだろう。
自分の家を盗み聞きしていることの、何が悪いというのか。
「そして、私の遺品がどう見つかったかも知っています。『ロージキィ』の名前が記されたペンだけが、灰の中で傷一つなく見つかったそうですね」
「何もおかしなことはないだろう」
「一つおかしな点がありますよ。私の遺体は着衣のすべてに至るまで間違いなくあの中で燃え尽きるはずだった。それにもかかわらず遺品が出てくるということは、あの現場にいた最後の人間がわざわざ守護の魔術でもかけるほかない。この推論までは認めてくれますね」
「それを否定するのは難しいだろうが、あの場にはエドワード卿がいただろう。彼が最後に気を廻した可能性だってあるんじゃないのか」
その現場を見たものはいない。
誰が守護の魔術をかけたのか、なんてことを判別することは不可能だ。
「その言葉は逆説的に、あの場に、エドワード卿以外に、別の人間がいれば。その人物こそが、エドワード卿から膨大な魔力を奪い、地球全土を覆う魔法陣を成立させようとする、最後の犯人であると言わざるを得ない。違いますか」
「そうだろうな。最後に霧散する魔力を収集した何者か。そいつが居るのなら、真犯人ってやつになるだろう」
「そこまで認めていただいたうえで、この名刺入れを見ていただきたい」
無造作に投げ渡された手のひらに収まるほどの木製の小さな箱。
中身は、探偵の言葉通り数十枚の名刺。
ただし、想像していたものとは少し違った。
入っている名刺すべてが微妙にデザインの違いや、材質の違いなどもあったりするが、何より。
最も大きく違うものが一つ。
「――名前が違う」
「グラドリアス、ガルセア、シグルド、タスク、ニーベル。他にも数十あるのですが、その名刺入れに入っている名前はすべて違います。この意味が分かりますか」
まさか、と言う声は凍り付いた。
「私はこの街で変装をする際、別の人間に会う場合は別の名前を名乗っていたんですよ。そうでなければ、私程度の変装では警察の捜査をごまかせません――そして」
探偵は懐に手を入れると、黒いペンを取り出し、目の前にかざす。
「『ロージキィ』は貴方にだけ名乗った名前だ。クルビエの部屋の前で出会った時から、貴方だけに名乗った名だ」
つー、と金色の刻印をなぞってみせる。
同時に、懐からいくつもの筆記具や財布などが落ちてくる。
そこに刻まれたのは、すべて、全て。
別の名前。
「この無数の名前から、ロージキィという名前を私と判断できるのは貴方だけなんですよ、アルセト教授」
からん、と足元で音がする。
見れば、手に持っていたはずの木製のケースが床に転がっていた。
手が震えて、拾いなおす気にもならなかった。
「そもそも、エドワード卿に偽名など名乗っていません。彼が『ロージキィ』の名前を知る由はなかった。守護の魔術をかけるくらい余裕があるならペンに記された刻印くらい把握できるでしょうに。――さて、釈明をする気があるならお聞きしたい」
この男は、自分の死すら利用して、オレを捉え、捕える策を講じていた、と言うことだ。
「ここまでのすべての条件を携えてなお、あなたに弁論する気がある、と言うならですが」
一度、息を飲み込む。
肺の中で反論を作りだそうとした。
そう、こんな狙い撃つような、そして偶然に頼り切った推論に、穴なんていくらでもある。
もっと、彼との議論を深めたいと、どうしようもなく思って、言葉を絞り出そうとして。
情けない、あがくような言葉しか上がってこなかった。
そもそもの話。
狙い打たれている時点で、十分だった。
「いや。そこまで確信を持たれたなら、これ以上の反論に意味はないな」
喉を通ったのは、相手を認める言葉だけにした。
敗北を認めて、少し、張り詰めた心がほぐれた。
「初めから仕組んでたのか?」
「疑い、探り、そして確信のための一手ですよ。前々からこの手の工作は得意でして」
ああ、というため息が喉から漏れる。
「認めるよ。オレは探偵と同じ星から来た『転生者』ってやつだ。そして、探偵を敵視して仕掛けをうったのも事実だ。最大の障害になる、とわかりきっていたからな」
「この『夕暮れ』を使って私を指名手配犯に仕立てたのはそういうわけですか」
「紛失事件があったらしく、手っ取り早く事件にできそうだったんでな。エドワードに耳打ちして事を起こす、ってのはそう難しい話でもなかった。言っておくが、その件に関しては探偵の無罪を実証できる準備もちゃんと揃えてた。恨んでくれてもかまわないが、悪意はなかったんだ、とだけ弁明させてもらう」
「気にしませんとも。逃亡生活と言うのも少々新鮮でしたし」
「――前向きな解釈だな」
そうぼやきながら、地上の様子に耳を澄ます。
未だに、目の前の男の仲間とやらは来る気配もない。
「まだ時間はある。オレにも、アンタの謎を解かせてくれよ」
「おや、私に何かおかしなところはありましたか」
「そうさ。最初に言ったじゃないか。死んだはずの探偵が、なぜここに居たのか」
オレが何者でもないならそんな疑問は些細だが。
素性を、目的を知られたからには、目の前の男の正体を知る義務はあるはずだ。
「その口ぶり、お考えがあるようで」
「アンタ、ロージキィの影武者なんじゃあないか」
そういった手の込んだことをしかねない男ではある、とは思っていた。
この暗闇の中、ランプ一つでは濃い影で相貌ははっきりとしない。
『探偵』としてアイツの意思を受け継いだ、何者か。
目の前の男は、意志を受け取った、『探偵』のレコーダーだろう。
この部屋にたどり着いた瞬間から、そうだろうと半ば確信していた。
そうでなければ、死人が生き返るわけもない。
「いやあ、まさか」
確信にも近かった予想を、一息に切り裂かれた。
「一片の間違いもなく、私は『ロージキィ』ですよ」
からん、と金具がこすれる音とともに、ランプが天井につるされる。
漆黒の短髪を備えた顔は炎に揺られ、温かな色をしていた。
わずかに頬がこけたか、とは思えるが、その程度。
寸分たがわず、オレの知るロージキィがそこに居た。
「――どういうことだ」
「戻ってきたんですよ」
「そんなはずはない!」
とっさに荒げた声を、自制することはできなかった。
「そこまで怒らなくても。すこしくらい、予想を違えただけでしょう?」
違う。
自分の考え違いに怒りを抱いているのではない。
道理と違うことに、脳が追い付かない。
「アンタはただの人間だ」
「ええ。私自身は魔術を一切使えない、ただの人間です」
探偵はポケットから蒼い石を指先でつまみながら取り出した。
粗削りで、内包する魔力が微弱な輝きを放つ程度の一般的な魔石。
つー、とその表面をなでると、しずくが垂れ、机の上のコップにじわじわとたまっていく。
「水一つさえ魔石を使わないと生み出せないくらいには、魔術と言うモノとは縁遠い、普通の人間ですとも」
「アンタは崩れ落ちる塔の中で、間違いなく死んだはずだ」
「ええ。心臓も脈拍もとまり、火の中で灰になったのは間違いありません」
「なら、肉体を失ったアンタは元の世界に戻るはずだ」
「ええ。だから言ったでしょう。戻ってきたと」
困惑が、己の脳内を支配する。
「どういうことだ」
「召喚のルールは死んだ人間は元の世界に戻る、と言うモノです。この元の世界と言うのは、召還される前の世界。それはよろしいですね?」
語る姿は変わらない。
以前のように、自信に満ちながらも驕らない、自然体。
顔つき以上に、その佇まいが、彼でしかありえない。
偽物ではない。
目の前にいる探偵が本物である、と言うことに疑いはない。
「そして、私、実は二度この世界に召喚されているんです。一度目は十一年前に。そして、二度目は十一年前の世界から一年前に。――まあ、一度目の方はまだおつりが残ってますが、大事なのは二度目です」
探偵は体を少し折って、こんこん、と靴で床を叩く。
わずかに視える目が、試すように、見透かすように、こちらを覗き込んでくる。
「『この世界』から『この世界』に召喚されたんですよ。この意味、アルセト教授なら分かるでしょう?」
「――つまり、一度だけなら死んでも『この世界』に戻ってくる」
「ご名答」
確証はなかっただろうに、それを推論の段階で計画に組み込み、実行に移す胆力は道理から外れている。
しかし、その理屈と現状は地続きで、あり得ないことではない。
その結論が、心を落ち着かせる。
人が恐怖するのは『不明』であるからだ。
嘘偽りなく、目の前にいるものが真実とわかれば恐れる道理もない。
ただ、もう一つの『不明』は残る。
この男が目の前にいる理由としてもう一つ、おかしなことがある。
「戻ってきたのはいい。だが、ここにいる理由の答えにはなってない。ここは魔導学院が崩れて三か月、誰の立ち入りもなかった。どうやって侵入した」
張り巡らされた魔術によるセンサーに反応はなく、物理的な痕跡も一切なかった。
侵入することは、そもそも不可能なはず。
探偵は「逆ですよ」と言いながら視線を奥へ向ける。
「ずっと、私はこの地下に隠れ潜んでいました。幸い、魔石の類も収集していましたから、食料や水に困ることもありませんでした――飽きないよう工夫するのが大変でしたがね」
そういえばこの男は、魔石の類を組み合わせて料理を作ろうとしていた、などと言う話も聞いた覚えがある。
「――つまり、三か月もの間、この小部屋で待ち構えていたとでも」
「ええ。あなたとの決着をつけるためにね」
――生きていたのは、奇特な方法とは思うが、方法を知ったなら納得できる。
だが。
三か月――いや、果てのない年月と知ったうえで、この暗闇の中でただ一人。
この男は待ち構えていた。
ああ、とため息をついたのは、当然の衝動だった。
「おや、そんなにおかしなことを言いましたか」
言われて、頬を触る。無意識に少し、口元が吊り上がっていた。
「狂気じみている、と思ったのは確かだ」
「適切な判断だと思っていますよ」
「たった一人の誰かを待つためだけに娯楽の一つもないこの空間に数か月も息を潜めることのどこが合理的なんだ」
「私があなたを確実に捕えるための条件だったんです。余人が混じればあなたがどれだけ粉をかけているか分からない。待ち構える、と言う状況でなければいけない。万が一にもとり逃して、またも国を――いや、地球すべてを巻き込むような事件を起こさせるわけにはいかなかったものですから」
探偵の瞳は、まっすぐにこちらを見つめている。
逃す気はないと輝く、鷹の瞳。
ぞくり、と肩が震える。
恐れから、と言うよりも。
どこから来たかもわからない、己の心の高ぶりが、真に、体に伝わってきた。
「アルセトさん、なぜ、こんな世界を巻き込む大魔術、なんてものを計画したのですか」
その問いは、どこまでも真っすぐで。
「魔術じゃあ終わりがある。停滞を抜け出せない」
こちらも、真摯に答えなければ、と思わされた。
「オレたちの世界もそうだったろう。世界の法則を導き出そうとする『科学』という道しるべを見つけるまで人類はずいぶん長い間、同じ技術レベルから進化できなかった」
「日進月歩と言いますが、確かに科学者と言う存在が出て以降では間違いなく技術のレベルはおおきく飛躍しました」
「技術革新は、多くの人がただ生きることを容易にしてきた。食料の大量生産を可能にし、水を安全に作り出せるようになり、いくつもの病を克服し、暑さと寒さを乗り越えてきた。だが、この世界は魔術がある。そのせいで、人類の発展は望めないだろう」
「理由をお聞きしても?」
「魔術に頼るからだ。人々の理想を魔力と言う媒介で思うがままにかなえる魔術は、人々が今知りえない『未知』を乗り越える手段を失わせた。神に頼ることはなくなったのに、自分たちで未来を切り開かなくなった、その歪なカタチがこの世界だ」
「ですが、あなたは巨大な魔術儀式を執り行おうとしていた、というのは大いなる矛盾ではありませんか」
「違う。魔術を起こすことが目的なんじゃなく、魔力を使うことが目的だったんだよ」
「過程こそが、あなたの真の狙いだった、と」
「そうだ。魔力さえなくなれば魔術そのものが消え去る。魔術さえなければ、人類は必ず科学を生み出し、発展と進歩の螺旋を歩みだす」
「ですが、それは今、魔術に頼って命を救われている命を見捨てることになる」
「そうだな。魔術に頼った浄化水や食料の生産、生活のインフラや医術なんかも今ある者がどれだけ使えるかも分からない世界になる。――だが、必ず未来は発展させられる」
「――発展した未来なら、救えなかった命も救えるようになる、と」
「豊かな生活も多くの人間にいきわたる。なあ、探偵。オマエはその未来を知ってるだろう」
「こちらの世界では多くの感染症に対する有効打もなく、実感としてはあらゆる通信手段ははるかに遅れている。魔術の観念が存在するこの世界よりも、私たちの知る科学の発展した世界の方が人を救う手段ははるかに多いでしょう。あなたの言葉はきっと、私にとっても好ましいものだ」
探偵の言葉は肯定が続く。
けれど、その険しい顔はゆるまない。
「その手段を肯定できないという、ただ一点を除けばですが」
「目的のために手段を選ぶべきじゃあない、とは思わないか」
「悪しき手段を容認すれば、未来にも受け継がれる。――その手段を取ったのだ、と言う事実を遺すことそのものが未来への禍根となる。ゆえに、私は容認しない」
「アンタは、正義のためにここに立ってるのか?」
探偵はわずかに足を広げ、砂利が滑る音を立てる。
「主義です。貴方と同じく、自分で測った天秤の重い方に立っているのです」
その言葉は、ひどく腑に落ちた。
互いに、自分の心の衝動に従って。
互いに、自分の重ねた論理の正しい方に。
ただ、立っているだけだ。
「それなら、互いに退くわけがねぇな」
革を金属が擦る。
アルセトの手中に、黒く光る砲身が握られる。
闇の中で弧を描き、銃口は目の前の男をまっすぐに向く。
「拳銃。よくそんなものを作られましたね」
探偵は驚いた声をだしてみせる。
けれど、それが偽りだというのはアルセトにも明らかだった。
「わざとらしいぞ、探偵。想定通り、と言う声が透けて見えるぜ」
探偵はわずかに目を見開くと、くく、と笑いをこぼす。
「実際に目にして驚いたのは事実です。ただ、銃の一つくらい作っているだろう、とは思っていました」
両の手を拳銃に添える。
「こいつは正真正銘、火薬だけで発射する科学の銃だ。これから来る、魔術を捨て去った世界の象徴で葬る。アンタの結末にはちょうどいいだろう?」
銃口が探偵へと突きつけられる。
距離は十五メートル。
外す距離ではない。
理解して、それでもなお探偵は恐怖を見せない。
双眼は揺らぐことなく、対峙する敵の呼吸一つに至るまで凝視する。
「――何か、皮肉でもいい遺したらどうだ」
「ちゃんと弾丸は入っていますか?」
「当然」
「しけた火薬ではありませんか?」
「まさか」
「なら、撃てれば私の敗北です。その場合は、運がなかったというほかない」
死を目前にして。
落ち着き払って、そして笑うだけ。
探偵の眼に。恐怖の感情は宿っていない。
「この距離でオレがはずす、とでも思っているのか」
「いいえ。私だって外しません」
「情けをかけてもらえるとでも」
「まさか。世界すべてを巻き込むあなたが、目の前の人間一人見逃しはしないでしょう」
「ではなぜ、そうまで落ち着き払っている」
探偵は淡々と、わかりきったと言わんばかりに言葉を吐く。
「矜持のない弾丸では真に私を打ち抜くことはかなわない」
その眼をなんと評しようか。
狂気ではない。
だが、正気であるはずもない。
どちらでもない、何者か。
「――――」
その瞳の中に、何かの答えを見たような気がして、アルセトは息をのむ。
「――いや、狂言だ」
「ならば引き金をお引ききください」
それで終わりにしよう、と探偵は告げた。
「そうか」
「ええ」
静寂。
わずかに足を広げるだけで、砂利を踏みしめた音が耳に残る。
狙いは頭部。
ただ一撃ですべてを決める。
引き金にかかった指に、力が入る。
「恨むなら恨め、探偵」
ガキン、と金属がぶつかる音が響いた。
だが、それだけ。
炸裂音も、鉛が風を切る音も、倒れ伏す肉の音もない。
「何故」が脳内を巡る。
銃弾は砲身にとどまったまま。
肉をえぐる鉛の弾丸は不発。
なぜ。
――そんな要因に、気を取られる余裕は存在しなかった。
ダン、と地が響く。
意識を正面に戻す。すでに視界には探偵の顔は見えず。
黒い影が突撃してくる様だけがそこに。
「――!」
不発の銃を放り捨て、迎撃の構えを取ろうとする。
ザ、と地面がこすれる音は想定よりずっと近く。
入り込んでくる拳。視線が合う。
反応する前に、鋭い痛みが腹を貫いていた。
体中の息が外に流れ出るような感覚の後、意識が消えた。
鈍い腹痛で、眼が覚める。
立ち上がろうとして、全身の自由がないことに気づく。
「むやみに動かない方がよろしいかと。捕縛術に心得があるわけでもないので、動くと妙な締まり方をするかもしれませんよ」
眼前には、椅子に座る探偵の姿。
脚を組んで、書く物もないくせにむやみに手に持ったペンをくるくると回してもてあそんでいる。
その姿は悠々として、自由そのもの。
対峙するオレは椅子に縛り付けられている。
「オレの負けか」
そうはいってみたが、どこか心は晴れ晴れとして。
凛とした視線を受けるこの場所は特等席のようにも感じられた。
「ええ。あなたの野望の敗北です」
凛と告げられた声は、どこか、悲しい響きもあった。
もう、自分のたくらみはすべて終わったというのに。
まだ、終わっていない、と言う感覚が口を動かした。
「どうして銃が不発だった」
「この部屋は魔術を封じる『夕暮れ』が存在していました」
「だが、銃に魔力なんて不確かなものは必要ない」
「そこが大きな間違いです」
「……なに?」
「今のこの世界に魔術の介在しない現象はありません。簡単な仕組みのジッポライターの火さえ、魔力がなければ点火しない」
探偵は足元に転がったライターを拾い上げる。
かちかち、と火打石がぶつかり合う音がするのに、火花すら散る様子がない。
確かに、この部屋に入ってから、まるで故障でもしたかのように動かなくなった。
「我々の世界では化学現象として知られる発火現象さえ、この世界では魔力が媒介となって発生しています」
そうか、とひどく納得したような声。
「ゆえに、我々の世界の常識と、魔術がある前提で作られたあの銃は、『魔術が存在しないこの世界』での使用を想定されていなかったために、不発になった、と」
「その通りです」
たとえ魔術がなかったとしても、世界そのものの成り立ちが異なれば、同じ理屈が通じると断言できるわけがない。
重力と時空間の関係性さえ同じと導いたのに。
火の成り立ちになんて、見向きもしていなかった。
「――ずいぶんと初歩的なことじゃないか」
「そんなことに気が回っていなかった時点で、あなたの思想は破綻していた」
探偵のその言葉は、決着をつけられなかった銃に対する言葉だけではない。
魔術がなくなった後の世界にどれだけの思考が巡っていたのか。
この世界は魔術に囚われている、と思っていたが。
自分の方こそ、『前の世界の法則』に囚われ。
何もかも決めつけ、前進できなくなっていた。
「いつの間にか違えていたか」
「人間だれしもそうです。必ず、間違える。ただ、反省をもって取り戻すこと。それもまた、人に共通する権利です」
探偵の言葉は、先ほどの瞬間まで敵対していたような冷たさを感じさせない。
彼にとって今の言葉は、真理にも近しい、情熱を捧ぐにふさわしい信念と言うことなんだろう。
その言葉はひどく、自分とは遠いところから発せられたように聞こえた。
「オレがすべて計算づくだったらどうした?」
銃の構造でも、探偵がここに待ち構えていることでも、あるいはその前から一つでも対策を打たれていれば、こんな一騎打ちはそもそも成立すらしていなかった。
「その時は――あなたの矜持が私の執念を上回ったということでしょう」
「運命に身をゆだねたってわけか」
「いいえ。あなたに託したんですよ」
「オレに?」
「矛盾に矛盾を重ねた、期待と切望がねじれた願いでしたが」
探偵は宙を見上げる。
地の底しか目に入らない中、星を見上げるように。
「思想も、論理に基づく発想も、行動に至る決断力も素晴らしい、と思っていました。だから、もしも私の存在に感づくような冷静さがあればあなたを止めるものはいない。もしくは、銃を下ろすことのできる心の持ち主であれば――別の未来もあったでしょうね」
感情が幾重にも重なって、こみ上げたが、抑えた。
喜怒哀楽のいずれも、お門違いだと思ったからだ。
「なあ、探偵。これからどうするつもりだ」
「どう、とは?」
「この地下へ入る入り口は魔術でふさいでいる。オマエじゃあ脱出もできない」
「言ったじゃあありませんか。頼れる仲間がいるって」
がちゃがちゃ、と上から物音が響く。
探偵は笑みを浮かべ。
それを見て、思わず、喉の奥から漏れるようなため息をついた。
あんまりにも、信頼に満ちた、温かい笑みだったから。
それでも。彼が立ち上がり、背を向ける直前。思わず口が開いた。
「なあ。ひとつだけ、いいか」
「聞くだけなら」
軽く息を吸って、吐き出す。
「この先」
黒き双眼を見つめる。
「オレを」
どうか、この想いをくみ取ってほしい、と。
「忘れないでくれるか」
探偵は小さく、笑った。
「あなたが生きている限りは憶えていますよ、わが友人」
男は、別れの言葉を告げて、陽光の差す地上へと立ち去っていった。
がちゃん、と扉の開く音。
しばらく、時が止まったように息遣いだけが残って。
「――言いたいことは万じゃきかないぞ、京二郎」
「心配かけたね、クルビエ」
「まったく、キミと言う奴は――」
そんな会話を最後に、世界は静寂に包まれた。
どれほどかの時間がたって、ようやく。
「そうか」
自分の口元から納得と諦観の中間のため息がこぼれた。
男の最後の言葉は、処刑であり、呪いであった。
ぎし、と全身を締め付ける縄の感触がいまさらになってとても窮屈に感じ。
同時に、階段を駆け下りてくる大勢の靴音が聞こえてきた。




