24 甘い声、立つ意思
ロビンは息を切らせながら、煌々と光る廊下を懸命に駆ける。
息を切らせながら、周囲に気を巡らせる。
「追え、あの小僧を逃がすんじゃあない!」
遠くない距離。
背中に迫る残響が聞こえてきた。
――冷静な心が思考を巡らせる。
たぶん、数分となく追いつかれる。
そもそも、この屋敷には結界が張り巡らせてあるらしい。
並みの魔術ならともかく、ここまで貴族たちが集うような【会合】に生半可な防護ではないはずだ。
門である出入り口であれば縛りも弱かろうが、門番である【竜】はおそらく、いまだ健在だろう。
思考を重ねるほど、現状の窮地を思い知らされる。
万事休す、か、とあきらめが脳裏をよぎる。
だが、まだ。
――望みは薄くとも、意志は止まらない。
この屋敷の構造もある程度把握している。
どうにか、裏口にさえ辿り着ければ、可能性はある。
足が、ぴたりと止まる。
「どうも、ロビン=アーキライト君」
眼前には、一人の騎士。
重苦しい鎧姿と裏腹に、細く、しなやかな印象を受ける。
遊びを排して、ただ人を守り、そして人を斬るための武装。
絢爛を是とする、貴族の集会には似つかわしくない。
ロビンは見上げるように鎧から顔に視線を移し、思い出す。
「アルドレッド卿の護衛騎士の方ですか」
「ええ、私はローゼと申します」
笑顔を浮かべた金髪の騎士、ローゼは恭しく頭を下げる。
「おおよその事態は把握しております。混乱も、国王の危篤も、――わが主の辿るであろう未来も」
下げた頭を上げながら、鎧の小手を後ろに差し向ける。
「この先にお行きください」
フルズが指示したのは、奥にある他と比べる少し小さな、シンプルな木の扉。
「そちらはキッチンと記憶していますが」
「人払いは済ませていますし、勝手口の方から裏門まで行けば最短ですし、結界のカギを持つ協力者もいます。悪い提案ではない、と思いますよ」
ローゼには、表情が読み取れない、薄い笑みが張り付いている。
ロビンの喉から、つばを飲み込む音がした。
果たして、目の前に居るのは敵なのか、それとも味方なのか。
――疑念がよぎる。
なぜ一人でここに居るのか。
なぜ、あの会場に居なかったのか。
「もちろん、疑うのなら――」
しかし、そんな疑念は脳内にとどまらなかった。
今、そんな余裕はない。
疑えば、確実に捕まるだろう。
であれば、罠であれ選択肢は一つ。
「どうあれその通り道お借りします!」
ローゼの声を聴き終わる前に、ロビンは蹴り開くように扉に身を乗り込む。
「――感謝します、ローゼ卿」
ばたん、と勢いよく扉を閉め、駆けだす。
一刻も早く、その場を後にするために。
どたどた、とドアの向こうで駆けていく音は次第に遠ざかる。
「――ああ、まぶしいな」
ローゼは思わずこぼした自分の言葉に、つられて笑みをこぼした。
自分もそれだけ無鉄砲であったのなら、あるいは運命を変えられただろうか、と胸中によぎった。
そんな淡い後悔は、正面から聞こえてくる下品な騒音に揉み消される。
ローゼの視界に入ってきたのは、顔面蒼白な有象無象の貴族たち。
その中に、自らの主の姿は――やはりない。
走りくる集団が、ローゼの前で足を止めた。
「――おい、そこの護衛騎士」
貴族の一人が、息を切らせながら高圧的にローゼに語り掛ける。
「何か」
ローゼはその怒気を受け流すように、淡々と返事をする。
「ここにみすぼらしい平民のガキは来なかったか」
ローゼは逡巡する。
ここを通したところで彼が追いつかれるとは思わないが、妙なトラブルにでも巻き込まれれば足が遅れる可能性はあるかもしれない。
――何より、彼は、ローゼを卿と称した。
目の前の無礼な彼らよりは、よほど礼儀をわきまえた貴族と呼ばれるべきで、みすぼらしくもなければ、『平民』などではないだろう。
「さあ、そんなものは来てませんが」
「ウソをつくな、大の男を背負った子供だ、必ずこちらに来てるはずだ」
ローゼはふむ、と考えるそぶりを見せた後、
「――ああ、確かに。そこの角を左に曲がった子が居ましたね」
小手に包まれた指先をピン、と指す。
足跡一つない、まっさら絨毯の上を。
「まったく、もったいぶらせおって」「早く言えばよいものを」「これだから田舎者は」
貴族たちは口々に毒を吐きながら、ローゼの指示した道へ消えていく。
彼らの姿が見えなくなってから、ぼそりとつぶやく。
「――ああ、それは三日ほど前の話だったような気もしますが、と伝え損ねました」
ローゼは特に悪びれた様子もなく、貴族たちがやってきた廊下の方へ目をやる。
彼らのほかに、慌ただしく追ってくる音はない。
ローゼ自身がココに居る必要はないだろう、とその場を後にしようとした時。
「――少し待ってもらえるかな、ローゼ=アイン=ベルグ卿」
かけられた声に、ローゼは振り返る。
柔らかい絨毯の上を、静かな足音がゆっくりと近づいてくる。
優雅な足取りで近づいてくる男が一人。
明るく照らされる廊下の中、きらびやかな宝石は光に埋もれ。黒いコートが浮いたように際立つ。
「――これは、エドワード=イシュテム卿」
エドワードが笑みを携える。
「少しばかり、君に聞きたいことがあるのだがいいかね」
「また子供の話ですか、それでしたら――」
「いや、いい。どちらにせよ、この屋敷から抜け出せるならもう追う意味はない。結界を解除するための協力者がいる、と言うことだからね」
ローゼは目の前の男の様子に、違和感を覚えた。
ずいぶん、落ち着いている。
さきほど【会合】で出会った時と比べて、格段と言えるほどに。
「一つ、君に報告がある」
エドワードはおよそ五歩の距離で、足を止めた。
「アルドレッド卿を殺した」
ローゼの耳にその言葉が届いた直後。
知っているはずの事象なのに。
無意識に腰に差していた剣を抜き去っていた。
呼吸が荒く、心臓が騒ぐ。
エドワードはその様子をビクリともせず眺める。
「ローゼ卿。もしも君がその剣を私に突き付けるつもりなら、私もまた剣を抜くよ」
ローゼはもう一度大きく息をつくと、剣を鞘に戻した。
アルドレッドとエドワードの剣戟の行く末を知った今。
理解もしている。
剣を交える、などと言う事態になれば、ローゼの体は残らないだろう、と。
「――失敬。つい、感情が収まらず。謝罪します」
「それも不要だ。当然の反応だし、剣を突きつける権利までは私も許容する」
だが、その先に居たれば容赦はない、と鋭い眼が語る。
――ローゼはまたも違和感を抱く。
この男はこんなにも覚悟を決めた瞳をしていただろうか。
こんなにも深い声で、聞いているだけで魅力を感じさせるような色気はあっただろうか。
手に持った力だけではない、意志の強さと、惹きつける魔性がそこにある。
「分かっていますとも。死んだ者への忠義などより、この先の身の振りようを考える。それが社会で生き抜く最低限の術でしょう」
「――賢い、わきまえた男だ。その振る舞いを見込んで尋ねたい」
エドワードは微笑む。
誰もが目を惹かれてしまいそうな、整った顔で。
こらえきれない野心のあふれそうな口元と。
万事を成してしまいそうなほど力に溢れる瞳は。
彼の前に対峙してきた人間を残らず魅了して来たのだろう、と思わせ。
ローゼもまた例外でなく、その心を囚われていた。
「私と共に来るつもりはないか。貴族社会亡き後でも、優秀な右腕はいくらでも欲しい。後ろ盾を失った君に十分な支援もできる、と約束するのだが、どうかね」
耳から、心臓に入り込むような声だった。
――ローゼの疑問が一つ解消した。
なぜ、エドワードがここまで勢力を拡大していたのか。
その大きな一つに、この声と目があった。
覗き込むような揺らめく瞳と、心惹かれるように耳を震わせる深い声。
心揺らぐような提案の後にこれを差し向けられれば、天秤は傾くに違いない。
もしも、昨日この様を目前にしていたら、うなずいていたかもしれない。
「――いえ、お断りします」
それでも、ローゼは首を横に振った。
「理由を聞いてもいいかな」
「――最低限の忠義です」
「なるほど。では、もう一つ」
エドワードは腕をゆっくりと持ち上げると、ピン、と目の前をさした。
ローゼの奥にある、ロビンが通過していった扉を。
「そこを通ってもいいかな。それは別に、君が尽くすべき忠義じゃあないはずだ」
「――理由をお聞きしても?」
「王がこの先に逃げたんだろう。ならば追える限りは追わないとね」
「――――」
「さて、肯定か、否定か。それ以外は勝手に押し通るよ」
ずん、とエドワードの足が一歩前に進む。
曖昧なごまかしは聞き入れもしない、と言わんばかり。
――ローゼにとって、この先を通すことは忠義に反することにはならない。
おそらくはもう逃げおおせただろうし、万が一ここでエドワードが追いかけて、ロビンに追いついたとすれば、それはもうローゼの不手際ではないと、ローゼ自身も納得できるだろう。
そして、否定すれば――エドワードの剣が抜かれてもおかしくない。
あまりにも釣り合わない二択。
ローゼはそこまで思考して。
「通せません」
ローゼは、心の鞘から、もう一度、剣を抜いた。
「――どうして?」
「矜持です」
鉄の鎧を、冷たい汗が伝う。
ぼたり、と大粒のしずくが絨毯に零れ落ちた。
「主従は似るものだな」
エドワードはくる、と体をひるがえした。
「君に免じて追うのはやめだ。そろそろ、主題を優先することにするよ」
数歩歩いてから、立ち止まる。
「さらばだ、忠義と誇りに満ちた騎士」
そう言い残して、エドワードは立ち去って行った。
影も音もつかめなくなったころ。
ローゼはへたり、と座り込んだ。




