23 天秤は決して釣り合わない
ぼたぼた、と周囲に蔓の群れが落ちていく。
助かった、と知覚してからようやく、目の前の背中をロビンの脳が認識した。
「ヒトが礎たりうるのは、その知を歴史に埋没させるからだ――昔、貴様にそう語ったはずだがな、エドワード」
紅のマントが、ばさりと投げ出される。
視えたのは、わずかな光源でも分かるほど、隆々と鍛え上げられた筋肉の山。
それがアルドレッド侯爵のものだと理解するのに、ロビンは呼吸二回分を要した。
「――侯爵、どうして」
アルドレッドは返事の代わりと言わんばかりに、力任せに大剣を振り払う。
ただ一撃で、石造りの壁を粉砕し穴を開く。
包囲を切り開く、逃走のための突破口を。
視線を一度、ロビンへと注ぐ。
「行け」
ロビンは口を無防備に開けた後、一瞬で引き締める。
「――感謝します」
王を背負うと、開けた穴へ駆け出して行った。
唖然とする会場に、エドワードは小さく舌打ちをする。
「この場に愚王の首を掲げてこよう、という勇気ある人間はいないものかな?」
ぞっとするほど、冷たい視線が周囲へ注がれる。
嘲笑も、憐憫も、全て剥がれ落ち。
会場でギャラリーと化していた者たちは大急ぎでロビンたちの後を追っていった。
駆けていく足音が聞こえなくなる。
残ったのはただ二人の貴族。
アルドレッドは口を開く。
「――いいのか、貴様自身が追わなくても。腹に脂の乗った貴族どもしか追手はいなかったようだが」
エドワードは鼻で笑う。
「王が泡くって逃げ出した、って事実はこれで十分出来上がった。貴族どもをまとめ上げるだけなら十分な状況さ。どうとだって調理できる」
エドワードは視線をアルドレッドにもどしながら「それに」と言葉を続ける。
「わが国屈指の武功で名を上げた大貴族アルドレッド侯爵相手に背なんて向けて必勝を誓えるほど愚かじゃあないよ」
「虚さえ突かれなければ負けはない、と確信してる口ぶりだな」
「――勇者の力、君だって知っただろう。今のだってまだ全力じゃあない。だが、君の体はただの一合でぼろぼろだ」
アルドレッドは「そうだな」とはっきり同意する。
「戦地から離れて久しい。さすがに分がいい、とは言えまい」
実力の差は誰にも明らかだった。
余裕綽々のエドワードに対し。
アルドレッドは肩で息をするほど、体力を吐き出しきっている。
取り繕うことすらできず、疲れを顔ににじませている。
けれど、無様と笑うものは、ここにはいない。
「アルドレッド、どうしてそんなざまになってまで、邪魔をする」
たった一人、向き合うエドワードは怪訝な表情を浮かべていた。
「貴様の行いの方が私の邪魔をしているのだ」
鋼の剣の奥に垣間見えるアルドレッドの紅の瞳は、窓からにじむ月光でギラギラと輝く。
宿る意思を、照らすよう。
「――君はそんな顔をする男だったか」
ほんの少しだけ、唇がせりあがっている。
それはひどく、この厳しさを前面にあふれ出したこの男にしては、――慈愛に満ちていた。
「ヒトは常識と言う杖にして枷を身に着けているものだ」
アルドレッドはとつとつと語りだす。
エドワードは飲み込まれるように、聞き入っていた。
「時代であり、法であり、己自身が科した呪いであることもある。――杖を捨て、枷を乗り越えんとするときヒトはようやく一歩を踏み出す」
アルドレッドは言葉とともに、足を一歩、前に出す。
剣を構えた姿は洗練を重ねた、一人の武人のものだった。
「その先は回転にとどまらない、螺旋を辿る進化にして、ヒトとしての真価がある。たとえその道の一歩先が奈落だとしても、背中を誰かくらいは押してやらんと嘘だろう」
エドワードの剣を握る力が、一層強まる。
「それが、私の邪魔をする理由なのか」
みしり、と柄後と握りつぶしてしまいそうなほど、軋む音さえする。
「君個人の思想と、この国が行くべき未来。それが釣り合うとでもいうのか、アルドレッド!」
叫びだった。
怒りだけでもなく、悲しみもありながら、願うような声。
アルドレッドは、それをまなざしのみで受け止める。
「たかだか人間一人の野望と、ヒトそのものへ捧げる祈り。どちらが大きいかなんて比べるべくもないだろう」
「――それなら、仕方がない。その首、落とさせてもらう」
蔓がうなる。
三百六十度を埋め尽くす、雪崩のごとき怒涛。
アルドレッドはぐるりと体を一周させながら、小さく息を吸い、大きく口を開く。
「【雷業】!」
叩きつけるような声が周囲を震わせ。
目を焼くような光がアルドレッドの剣から溢れ出る。
部屋の隅々から鞭のように襲い来る蔓を、雷の一閃が薙ぎ払う。
苛烈極まりない、剣と自然がぶつかり合う。
――しかし、所詮、ただ剣一本で、自然そのものは、越えられない。
十にも満たない、衝撃の後。
カラン、と鉄が転がる音が部屋に響く。
アルドレッドの足元には、刃先がボロボロになった剣が一つ。
エドワードはその様子を見て、剣の切っ先を下ろす。
「――もう、終わりだろう、アルドレッド」
感情の入り混じった、諭すような声だった。
「――いや。まだだ」
アルドレッドは震える手を抑えながら、落とした剣をもう一度拾い上げ、構えなおす。
「やめろ、やめるんだ、アルドレッド」
エドワードは、目の前の男の弱り切った姿に、願うような言葉を投げかけていた。
「生命力すら魔力に注ぎ込んだ君は永くない。君の為すべき仕事も終わったはずだ。君にどれほどの矜持があるかは知らないが、命の終わりくらい、安らかに眠ればいい」
アルドレッドは目つきだけで、「否」と意志を見せつける。
「立ち上がるなら、立ちふさがるなら、私は君を殺すぞ」
「だが、ここを通せばお前は王を背負う小童を追うだろう?」
「ああ」
「――なら、やはりな。立たねばならんよ」
ぐあり、と上半身を持ち直す。
意志は強く、目は鋭く、つま先に至るまで不動の精神がそこにある。
けれど、どうしようもないほど、その剣先に力はない。
――すでに。決着はついている。
「アルドレッド。最後に聞かせてくれ。君ならもっとうまく立ち回れたろう。どうして命がけで私に立ち向かったんだ」
エドワードの問いに。
アルドレッドはわずかに顔をほころばせると、空いた手を宙に浮かべた。
「天秤の両方に手を伸ばしたから――だろうな」
前を見たまま、空を掴み。
「――友の夢と、若い未来。私には、どちらも見捨てられん位眩しかったんだ」
目の前を見据えるように、顔を持ち上げる。
眼が合って。
エドワードは、息をのんだ。
鬼気迫る物だったからでも、恐れをなしたのでもなく。
ただ、あまりにも、死地に居るにしては。
穏やかで、優しい顔だったから。
一瞬の静寂を超えて。
アルドレッドの体がぐらり、と支えを失ったように体が崩れた。
柱にもたれかかるように座り込む。
――。
剣を手から離すことはなく。
眼はいまだ見開かれ。
気力だけは今もなお満ちているようにも見える。
されど、肉体の隅まで果てている。
「――」
月光の下。
エドワードはいくつもの言葉を掛けようとして、
「――アルドレッド」
ただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
代わりに、片膝をついて、見開かれた眼に手をかざす。
そっと、その瞼を閉ざす。
穏やかに、眠るような表情を確認して、小さく祈りをささげる。
近くの花瓶から一輪の花を抜き取ると、骸の上にそっと重ねた。
立ち上がって、ようやく口を開く。
「すべてが食い違った。それでも、最期くらいは友情で見送らせてもらうよ」
骸に背を向け、扉に手をかける。
「――私を殺すほどの男が、情けない姿を見せるなよ、エドワード」
その背中に、声がかかる。
しかし、この場に生者は一人。
幻聴だ、とエドワードにはわかりきっていた。
「当然だ。君の死に報いるほどの理想があることを知らしめてやるよ、アルドレッド」
それでも、エドワードは返答をすると、迷いなくその場を後にした。
月が照らすその顔は、ひどく、決意に満ちていた。