第二十二話:高所より
その事実を言い当てられれば、いくら自分でも少しくらいは動揺するかな、と思っていた。
しかし、私の心はそう動じていなかった。
彼の推理を聞いているうちに、彼が核心に近づいているのだ、と少しずつ理解してしまったからかもしれない。
「当て推量、ということではないでしょうね」
「確信に至るまで、いくつかの推理材料はありました」
探偵はまだ新品同様の紙束を取り出した。
題は『クリストファー旅行記』。
「クリストファー氏が描かれた偽りの旅行記。これは彼の本来の所在をごまかすために書かれたものでしょうが、それゆえにもう一つの意味を見出せます」
「もう一つの意味?」
「ここに書かれた地名はすべて、私の世界では実在しているものでした。しかし、私の故郷と断絶されたこの世界ではその名すら知る手段は乏しい。では、その限られた手段の一つとは何か」
風によって、探偵の持つ紙束がはためく。
「ロバート=アーキライトの手記かしら」
「その手記はこの倉庫に立ち入れる者であれば、入手は容易でしょう。事実に基づいた手記を元にすれば、偽りの旅行記でも信ぴょう性が増すと考えたのではありませんか」
探偵ははためく紙束を折りたたむと、それを自らの懐にしまい込んだ。
「この旅行記も読み物としては実によくできている。しかし創作としてはともかく、事実を記したものとしてはクリストファー氏の旅行記は歪なものに仕上がってしまった」
紙束と入れ違いに金色の鍵が取り出された。
「結論としては、クリストファー氏はこの倉庫の鍵を持つ人物である、と考えるのが妥当でした。それは奇しくも、今回の事件の犯人と一致する。では、この家に存在する五本の鍵の所持者のうち、誰がクリストファー氏と推察するべきか」
探偵は鍵を人差し指に引っかけると、五本の指を広げて私に見せた。
「ガリバー氏、エドワード氏、そしてロビン君。彼らはアーキライト家に連なる正当な血脈ですから、この倉庫の鍵を持つのは当然でしょう。そして、執事のエイラム氏。彼も長年仕えてきた執事ですし、ガリバー氏の移動の補助のためにも持っていてもおかしくない」
名前を一つ呼ぶたびに探偵の指は一つ折れていく。
「ですが、残る貴女はなぜ持っているのか、という疑問が湧きました」
「ティーナ=アーキライトもアーキライト家の遠戚と話したはずですけど」
「ええ。ですがもう一人、この家にはアーキライト家の遠戚たる方がいました。ディアメさんです」
最後に残った人差し指はおられずに、もう片方の手の指が一本立った。
「親戚だから、というならメイドのディアメさんにも持つ権利があるはず。この鍵を持つことには、アーキライトの家において大きな意味を持つ。性格上に問題でもあるのか、と思いましたが、重ね重ね彼女自身に話を聞いても異常とみられる点は見出せませんでした」
ディアメのことは私の方がよく知っている。彼女が物の取り扱いを損じるような性格とは思えないし、彼女自身に起因する鍵を持たせられない理由などは存在しない。
「であるならば、貴方に持たせておいて、もう一人の縁者である彼女にだけ持たせないのというのは、本来は不公平でしょう。しかし、理由が存在した」
立ったばかりの指は再度おられた。
残ったのは、私を示す最後の一本。
「――その理由は、私もガリバー=アーキライトの直系の子供である、クリストファー=アーキライトの名前で生まれてきた人間だから。そう考えたんでしょう」
私が白状すると同時、私を指す人差し指は折りたたまれた。
ことここにきて、取り繕う意味は薄いだろう。
彼はすでに、疑ってすらいない。
確信をもって、ここに立っている。
「最後にもう一つ」
探偵は一拍置いてから、言葉を紡いだ。
「ロビン君いわく、この家に【変装】の魔術を使っている人間はいない。ですが、クリストファー氏とあなたの外見は似ても似つかない。髪の長さも色も今の貴方とは異なる。であれば、物理的な手段でその二つを使い分けている、というのは妥当な推理でしょう」
探偵は細長い指で写真をつまんでいた。
その中に映るのは赤い髪を短く切り上げた青年。
世間的に、クリストファー、という名前で認識されている人間の顔がそこに映し出されていた。
「貴女がクリストファーとティーナの姿を切り替える、というとき一番大きな差異は赤髪短髪と肩にかかるほどの金髪」
目の前の男は、心の中を透くがごとく、じっとこちらを見つめている。
「そして、この家に赤髪短髪で、かつアーキライト家の血筋を引く人間はいません。となれば、この写真に写る人間が鍵を持つには、偽りの髪が必要です」
探偵は自らの髪を軽くつまむ。
「否定するのであれば、どうかその髪が本物であると見せていただけませんか。それだけで私の推理は瓦解しますから」
私の長く愛用してきた髪を、風が揺らした。
ここで観念するのなら、この金色の髪を外して、地毛の赤い髪を晒すべきなのだろう。
けれど、それはしたくない。
「ええ。私がクリストファーであることも、この髪がニセモノであることも認めます。でも、この髪は今ここで外したくはありません。よろしいかしら」
「理由をお聞きしても?」
「私、この姿が気に入ってるの。だから、外したくありません」
犯罪者が口にするには、とんだわがままかもしれない。でも、探偵は微笑みを見せながら、これ以上この件は追及しない、と言わんばかりに手元の写真をしまい込んでしまった。
「では、もう一つ。イラーミ氏は抵抗の際、エドワード氏の偽造された遺書をわずかにですが引きちぎっていました。ですが、それはまだ見つかっていない。持っているとすれば、犯人でしょう」
とんとん、と探偵は自身の胸を指で叩いた。
「あなたの懐にあるであろう、偽りの遺書の本体を見せていただけませんか」
「……一つ聞かせてもらえるかしら」
「どうぞ」
「貴方の今の推察、たとえ私の正体がクリストファーだったとして、犯人を私にだけ限定できる要因はないんじゃないかしら」
いまだに、ロビンへの犯行の疑いは晴れないだろう。なぜなら同じ行動をロビンがやったとしても、彼の言う犯行は成立する。
「重要なのが、クリストファー氏、というもう一人の容疑者の存在がこの屋敷の中に存在したこと。もう一つが、二つの事件は偽りの遺書の存在から同一人物の犯行であること」
「でもそれだけじゃ、あの子の犯行を否定はできない」
「いやあ、実は昨日まで彼が犯人ではないか、と疑っていましたから、ある一つの方策をとっていたんです」
先ほどの居間での推理の段階で、果たして彼はそんな方策とやらを語っていただろうか。
いや、語ってなどいない。ならば、彼は意図的にその情報を伏せていたことになる。
「あなたは何をした、というのかしら」
「大したことではありませんよ。朝日が昇るまで彼を見張っていた、というだけです」
おどけたように言いながら、彼は分厚い手記を片手で見せつけてきた。
「おかげで、この手記も読破に至ってしまいましたよ」
彼が手に持っているのはロバート=アーキライトの手記。
全六編。合わせて千ページほどの、一晩で読むには眠るわけにはいかないほどの文量があるはずだ。
不思議に思っていた。なぜ昨日ここに来たばかりの彼がその中身を把握しているのか、と。
彼は夜通し、見張りを兼ねて読みふけっていた、というわけだ。
「あきれた、ならそれを早く言えばよかったのに」
「それを言ったら、ほら。彼をかばう必要がなくなるのだから、貴女も自白する気がなくなってしまうでしょう」
「それこそ、今言ってもよかったのかしら」
私はまだ、彼に確たる証拠を見せてなどいないのに。
「ここにきて犯行を認めない方なら、この場所には来ないでしょう」
彼の言うとおり、勿体ぶることはあっても隠し通すつもりはない。
懐に手を差し込み、彼によく見えるように引き抜く。
「でも、私がここにこの証拠を持ってくる、なんてわかったわね」
目の前で、偽りの遺書をなびかせる。それを見て、彼はにこりと笑った。
「貴女がこの屋上に来た理由を推測すればわかることです。殺人者がその殺人を証明するには、殺人者しか持ちえぬ物を示すのが最もたやすい」
「それは、この遺書しかないと踏んでいたわけね」
「その偽造された遺書を所持さえしていれば、たとえあなたが物言わぬ死体になったとしても、貴女が犯人であると証明してくれるでしょう」
探偵はみなまで語ってしまった。
「そう。あなた、私が何をしようとしていたのかもわかっていたのね」
高みより地上を見下ろす。
ここは五階と同等の高さ。無抵抗に落ちれば、死は免れない。
「今回の殺人者はロビン君を犯人に仕立て上げようと思えば、それは難しくなかった。彼が家督を奪い取るために殺したのかもしれない、という噂を吹聴するだけでいい。だが、あえてそれをしなかった。殺人者にとって、彼は憎しみの対象ではなかったのでしょう」
憎しみ故にこの殺人をしたわけではない。
ただ、ロビンを殺すことも、殺人者に仕立て上げることも、したくはなかった。
彼は、無関係なのだから。
「しかし、彼は無実の罪で囚われてしまった。彼の身代わりになろうとしても、証拠も理由もない人間ではただの虚言にしかなりえない」
アーキライト家の第一の後継者となったロビン。
彼以上に、エドワード=アーキライトの死を利用できる人間は考えられなかった。
「そこで、殺人者はロビン君の無実を手っ取り早く証明するために、彼が牢にいる間に本当の犯人が死ねばいい、という結論にたどり着いた。身動き取れない彼が殺人を犯すことは不可能。彼の無実の証明にはこれ以上ないでしょうし、自らの死をもって贖罪となす、というのは少なくない自殺の動機となる」
不思議なことに、何もかもを見透かされたようなのに、不快感はなぜか薄い。
ただ、この探偵がなぜこの結論に至ったのか、ということに興味がでた。
「私が贖罪なんて考えず、単に自首する可能性もあったでしょう」
時間をかける、という前提であれば、私が死なずとも、ロビンの無実を証明できるかもしれないのに。
「ははは、その時は夜を明かしてから無駄骨だったか、と笑うつもりでしたよ」
探偵はおどけたように笑う。ただ、その目は真剣で、本気で一晩くらいなら見張っているつもりだったのだろう。
「それに、自殺の方法なんていくらでもある。どうして飛び降りだと思ったのかしら」
「手段に関しての推察はたやすいことです。毒を用いれば、ロビン君が事前に仕込んでいた可能性を疑われる。首吊りは現状すでに自殺ではなかった、という話が出ているのだから選びにくい。可能性は絞れるというものです」
「それでも、飛び降りと限定するには、理由が不足しているのではなくて?」
「もう一つ」
彼は視線をはるか下、地上に向けた。
「魔術を扱える人間なら、空から落ちる最中でも抵抗しうるとか」
「たとえ眠っていても、ね」
「なら、無抵抗に地に落ちた魔術師は限りなく自殺であると、誰もが確信する。その発想に至るのに、そう複雑な考えは不要でしょう」
魔術師は、落ちて死ぬことはない。
浮くことも、壁に足をつくことも、あるいは落下の衝撃に耐え得る肉体を作り出すことも叶う。
故に、『魔術師』であることをやめ、魔術を捨て、生きることをあきらめたときだけ、魔術師は落下死する。
「じゃあ、この倉庫の屋上だと限定した理由は?」
「最期の時くらい、一番景色の良いところを選ぶと思いまして」
探偵は遠く、広い地平線を眺めている。
「……それは違うわ。単に、一番高いところからなら死にやすいと思っただけ」
私は近く、これから身を打ち付ける大地をみつめている。
結論は同じでも、その過程には限りなく遠いところがある。
「残念。根拠もない推測はするべきでも、そして話すべきでもありませんでした」
やれやれ、とでも言いたげに探偵は首を横に振った。
「あなたは現実主義者だと思っていたけど。案外ロマンチストだったのね」
「……その評は論理に基づく職につく身としては不服ですね」
拗ねたように言う探偵の姿はまるで少年のよう。
ロビンが言っていた目が離せない人、という言葉が思い出された。
「それで、探偵さん。結局、あなたがあの場で本当の殺人者である私を指名しなかった理由を聞かせてくれるかしら」
こほん、と探偵は一度咳払いをした。
「一つは、確たる証拠がありませんでした。どれもこれも、推測の域を出ない証拠ですから。貴女が自分は犯人ではない、と突っぱねれば捕まえることは難しかった」
「私の部屋をこっそり探れば出てきたかもしれなかったでしょう?」
「確たる証拠もないのに犯人を決め打ちするような真似はできませんよ」
それで、私をおびき出して、証拠を引きずり出すために芝居など打ったらしい。
「もうひとつは、あなたにお聞きしたいことがありまして」
「構いませんけど、私が答えられることにしてくださいね」
「あなたはなぜ、この殺人に至ったのか。その理由です」
そんなことをいまさら、と思った。
「あなたが話していた通り、この事件の犯人はこの家に巣食う悪を討とうとした人間。これ以上の動機は必要だったかしら」
ロビンが犯人、というときも正義が存在すると聞いた時、その動機を疑う人間はいなかった。
人間は正義に酔いしれる。
それを疑る人間はそう多くないし、追及する人間はもっと少ない。
「正義に至るのであれ、理由は在るでしょう」
けれど、探偵はその少ない人間の内の一人だったらしい。
「そんなもの、誰にでもあるのかしら」
「動機、というやつですよ」
少なくとも、私にはそんなものはなかった。単に、己の損得利益によるものだ。そう言い切れる。
「正義であれ、怨恨であれ、その決意に至った動機を私は知りたい」
「大胆な好奇心ですこと。でも、ダメです」
しかし、それを口にする気にはならなかった。
「それはまた、どうして」
「だって、私の秘密を最後まで暴いてしまったあなたに仕返しがしたいもの」
自分で言っておきながら、ずいぶんなわがままだ。
でも、最期のときくらい許されるだろう。
「では、その秘密を抱えたまま死ぬ、と」
「ええ。止めるかしら」
私は死を選ぶ。
その代償として、最後くらい。
私の愚かな反抗を暴いたこの男に、ささやかな抵抗をしてやりたい。
「もちろん。罪の償いには、死を選ぶよりも、罪を背負って生きるべきですから」
「見解の相違、というやつね。この世界では死刑が最も重い刑罰なの。だから、死をもって贖うことこそが最も罪に真摯であることなのよ」
私の言葉を最後まで聞くと、探偵はくるり、と背を向けた。
「あら、反論はしてくださらないの?」
「――あえて、その言葉に異を挟むのはやめましょう。しかし、貴女が死を選ぶというのなら助言を一つ」
「何かしら」
「私の持論なのですが、人間は視点が高く、見える世界が広いほど、景色は綺麗に見えるものです。それが世界の真実であれ、あるいは目に映る世界であれ」
ぐるり、と探偵は景色を見回しながら、言葉を紡ぐ。
「ですので、少しでも高いところからの景色を見渡してみてください。その景色を見れば、少しくらいは心変わりするかもしれません」
少しでも高いところ、というのはこの倉庫の屋上へ上る階段、それの屋根のことだろう。
今立っている大地よりも高いところは、見渡す限りそれしかない。
取り付けられた梯子が、風に吹かれてかたかたと音を鳴らしていた。
「ほんの数エルに過ぎないのに?」
「ええ。人間二人分くらい高い程度ですが、それでも少しばかり世界が違って見えるでしょう」
彼の言を信じるつもりもない。
でも、落下死には少しでも高いところから落ちるのが良いだろう。
「そうね。最後くらいはあなたの助言を聞いてみましょう」
踵を返し、彼の言う『少しばかり世界が違って見える場所』へと足を踏み出した。
「貴女の意見が変わることを願っていますよ」
その直前に見えた彼の視線は、はるか遠くへと向けられていた。
不安定に立てかけられた梯子を一歩ずつ上がる。
梯子の上下は縄で固定されているから、風に吹かれて倒れるということもないだろう。
しかし、これで落ちて死ぬ、というのであればあまりに滑稽だ。それはそれで、私の様な殺人者にはふさわしいかもしれないけど。
数段上がったところで、ふと気づく。
この梯子は誰が用意したものだったのだろうか。少なくとも、以前この屋上を訪れた時にはこんなものはなかった。
あの探偵は違うだろう。この家の道具の場所など知らないだろうし、そもそもこの梯子は大きすぎて、階段を通すのは難しい。
この場所で魔術を用いて新たに作り出した、という方がしっくりくる。
しかし、魔術の心得がない、という彼ではそんな器用な真似はできない。
なら、一体誰が。
梯子のてっぺんに手をかけて顔を出すと、その答えは見つかった。
「こんばんは、姉さん」
この場にいないはずの、弟ロビン=アーキライトの姿がそこにあったのだから。




