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第十八話:最後の欠片

 門までの道は実に長く感じた。


 探偵とただの一言も話さなかったからか。


 それとも、兄の死の原因。それを明らかにできるのが間近だからか。


 




 門にたどり着くと、フーリエルが目を伏せながら僕を出迎えた。


「ぼっちゃま、その」


 彼女らしくもない陰鬱とした表情。兄の死後も、明るく振舞ってくれていた彼女が沈んでいるのは、おそらく。


「イラーミのこと、知りましたか」


「……ディアメちゃんに【遠見(クラヴィック)】の魔術を使ってもらって知りました」


 【遠見】。誰かの視界に映った光景を平面に映し出す魔術。


 それを使えば、イラーミの遺体も見ることができただろう。


「フーリエルはずいぶんイラーミと仲が良かったですよね」


「……はい。ずいぶんと彼にはよくしてもらいました。ただ、こう言った別れは何十度となく経験がありますから、気にしないでください」


 彼女は笑う。千年を生きるロウの民の彼女ならば、確かに人間との別れは僕なんかよりもずっと多いだろう。けれど、その記憶をなくしているからこそ、彼女は今があるはず。ならば、苦しみもやはり人並みに違いない。


「そうだ、坊ちゃまも探偵さんもこの小屋に用があってきたのでしょう、そうなんでしょっ」


 いつの間にか、彼女はいつも通りの明るさを取り戻していた。言葉をかけるべきなのかもしれない、とも思ったけれど、強がりを見せているのであればあえてその心の内側に触れるのも無礼だろう。


「ええ。もうイラーミ自身の許可は取れませんが、門番代理であるフーリエルが許可していただけるのであれば、その小屋の探索をさせてもらってもよろしいですか?」


「モチロン。本来の持ち主はいなくなりましたし、止める人もいません。私は外でお掃除でもしていますから、ご自由にお使いくださいっ」


「ありがとう、フーリエル」


 許可を得て、小屋の扉を開く。


 玄関から一歩踏み込めば本の山が視界に入ってきた。


「……ほんと、すごいもんだね」


「彼は収集癖があったようですから、なおさらたまる一方だったようですっ」


 中には屋敷で見たことのない本も多くある。フーリエルの様なメイドに買い出しなどを頼んでいたのだろうか。


「隠してあるならともかく、この山の中から探すのは少々骨が折れそうですね」


 隠すという意図があるならその意思を辿ればいい。鍵のかかった箱に隠されていればそれを開ける方法さえあれば見つけたもどうぜんなのだから。けれど、この無造作な本の山の中に証拠となる紙が紛れてしまっているとすれば、その捜索は難航するだろう。


 しかし、探偵は僕の躊躇を感じてもいないのか、部屋にずかずかと上がり込んでいた。


「ま、なんであれ彼の眼に届かないところにあの書類を置くとも思えない。遺体を探った時に肌身離さず持っている、というわけでもなかったし、この小屋にあると考えるのが自然だ」


 確かに、探偵の言う通りその書類があるのならここだろう。


「ただ、イラーミが握りしめていたあの紙片。あれがそもそも先生の探している証拠だったとしたら、もう破り捨てられているのではありませんか」


「そうだね。この部屋にはもうのこっていないかもしれない。この捜査は無駄足かもしれない」


 そう言いながらも、探偵は手袋をはめ、一歩踏み込んだ。


「それでも、証拠があるかもしれないなら、片端から探していくべきだ。なければないで、なかったという結果もわかるし」


 彼は散らばった本の中身を検分しつつ、それを順々に整理していく。


「君は手伝う必要はない。外でゆっくりしながら気持ちでも落ち着けるといい」


 気遣ってくれているつもりらしい。確かに、兄の死といい、イラーミの死といい、最近に起きたことはずいぶんと急で、心を整理する時間もなかった。


「いいえ、手伝いますよ」


 探偵の隣に座り込んで、本を一つ手に取る。


「いいのかい」


「一人でやっていたら日が暮れますよ。それに、手を動かしている方がいくらか落ち着きます」


 ふと彼に視線を向けると、その手が止まっていた。


「――――ありがとう。助かるよ」


 その時間も一瞬で、礼一つで彼はまた作業に戻った。


 僕も手を動かしながら、証拠の物品を探すことにした。






 延々と紙と紙をめくる作業。


 中を改めるでもなく、ひたすらに証拠となりうる書類を探っていく。


 ほぼこの小屋にある本は探し終えたとも思うけれど、未だにその書類らしきものは見つからない。そして、ひたすらに座り込んだまま同じ体勢でいると肩が凝る。


 そういえば、探偵の方は順調だろうか。


 体をよじりその凝りを少しでもほぐしつつ、探偵の方にも目を向けてみる。


「……何を見てるんですか」


 見れば、彼は一冊の本を手にしていた。


「いや、本という本は調べ終わったところでちょっと気になる物を見つけてしまってね」


 題はクリストファー旅行記第三編。昨日話していたクリス兄さんが時折送ってくる旅行記のうちの一編だ。


 クリス兄さんの旅行記は人気があるようで、僕らアーキライト家のきょうだいだけでなく、使用人にもその写本が渡っている。


「今すぐにでも読みたそうですね」


 その中に記されているのは、この世界とは異なる世界。探偵にとっての故郷かもしれない世界。


「いや、さすがに仕事の方を優先するさ。……うん?」


 探偵が何かに気づいたように顔をあげる。そちらに僕も視線を向けると、フーリエルが扉の隙間からこちらを覗いていた。


「どうしました、フーリエル」


「いえ、もうお昼ですので、よければお二人にお食事をお運びしようかと思いましてっ」


 時計を見る。もう昼を二時間ほど過ぎていた。なんだか、それを知ったせいでお腹が減ってきたような気もする。


「あまり根を詰めすぎるのもよくないと思いますよっ」


「いや、ちょうど休憩を挟もうと思っていたんだ。そうだろう、ロビン君」


 探偵の言葉に首を縦に振っておく。空腹に気がつかないほど、というのは少し気を張りすぎていたかもしれない。


「よかった、では今から持ってまいりますっ」


 彼女の言葉が終わると同時、扉がバタンと閉じる音がした。


「……彼女、門番の役はどうするんだろうね」


「僕たちがいるから大丈夫と思ったんでしょう。こちらはこちらで少し準備をしておきましょう」


 体を伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がる。


「準備?」


「この小屋にもティーセットはありますし、紅茶くらいは入れられますよ」


 奥にある食器棚を見れば、カップやソーサーも三人分はありそうだ。


「へぇ、君紅茶淹れられるんだな。使用人に任せきりだと思ってたよ」


「ディーナルス列島に住む人間のたしなみですよ」


 古くからこの島々では紅茶がよく飲まれてきた。貴族、庶民問わず、その生活と共に存在し、誰しもが毎日のように口にする飲料である。


「いや、素晴らしいこととは思うが、たしなみまで言われると驚くね」


「一日に七度飲む機会がありますから、使用人を呼ぶのが面倒な時は自分で入れたりもします。この年にもなるともはや慣れてしまいますよ」


「……七回は多くないか」


 多少誇張はしたかもしれない。さすがに毎日のように七度のティータイムを用意するのは難しい。とはいえ、七杯くらいはいつも飲んでいるのは間違いないけれど。


「しかし、ここの小屋でお茶を入れることはあまりありませんでしたし、ちょっと勝手はつかめませんが」


「そうなのかい? 時折遊びに来るくらいはしていると思っていたけど」


「大概イラーミがいましたし、別の者に代わっているときはキッチンを使っている姿をあまり見ませんでしたね」


「……ということは、そのキッチンは彼の聖域になっていた、と」


「まあ、そう言えなくもないでしょうか。食料の保存室はフーリエルも使っていた気はしますが」


 他の使用人はおそらくイラーミに遠慮をして触ることすらしないかもしれない。彼はこの屋敷では一番の古株であるし、この小屋は彼の私室に等しい。それにキッチンまで立ち入らずとも門番の仕事に支障はない。


「なら、何かを隠すにも絶好の場所でもあるか」


「……確かにそうかもしれませんが」


「よし、昼食の前に少しだけ調べさせてもらおうか」


 探偵は手に持っていた本を近くに置くと、手をついて立ち上がった。


「ロビン君、お湯でも沸かしながら待っていてくれ」


「お湯なら一瞬で用意できますよ」


 容器に【操水】をして水を入れた後、【加熱(タエフ)】で沸かす。ふつふつと気泡が沸き上がってきたので、もう十分な温度になっただろう。


「……そういえばここは魔術があるんだったね」


 何をいまさら、と思う。


「まあ、紅茶を淹れるにも少し時間がかかります。それに、フーリエルが戻るのも少し時間がかかることでしょうから、探す時間くらいはありますよ」


「それはよかった」


 僕がティーポットとカップをそろえる間には、彼はもうキッチンの戸棚を物色し始めていた。


「……うん、どうやら探し回る必要もなかったらしい」


 彼は戸棚の奥をコンコン、と叩いた。


「もう見つかったんですか」


「不自然な空洞がある。開く口はないが、多少破壊してしまうか」


 べきぃ、と木が折れるような音共に、探偵によって戸棚の奥が破壊された。直すのは僕なんだろうな、とティーポットにお湯を注ぎながら思った。


 ポットのふたをしめて、数分蒸す。


「やはり、見つけたよ」


 その間に何か見つけたらしく、探偵はその奥から白い紙の束を取り出した。


 探偵はぺらり、ぺらり、とめくる。一枚一枚を手早く検分していく。


「……内容は」


 最後の一枚を見終わると、彼はその書類を机の上に投げ出した。


「書いてあるのはエドワード氏のものと同じ、『雲隠れ』によって消え去った人々の行動を記したものだった。中身もまるで同じだ」


「……そうですか」


 期待はあった。探偵の仮定が間違っているのだろう、という期待だ。けれど、そんなものは淡くも崩れ去った。


 『雲隠れ』によって消えた人間たちの詳細なデータ。それをわざわざ戸棚の裏なんかに隠しているあたり、やましい理由に違いなく。


 イラーミもまた共犯者の一員であった、と結論付けるのは、そう時間はかからなかった。


「少し休もうか。フーリエルさんが戻るにも時間がかかるだろう」


 探偵も僕の気持ちを察してくれたのか、それ以上の声をかけてはこなかった。






 ポットの中の茶葉を蒸す時間はとうに過ぎたころ。


 無言が空間を支配していたところで、がちゃ、という音がして、入り口の扉が大きく開かれた。


「ただいまもどりましたっ」


 料理をかごに入れているフーリエルが扉の向こうに立っていた。


「むむ、もしや坊ちゃまが紅茶を淹れてくださったのですかっ」


 彼女の視線は机の上の三つのティーカップに注がれていた。


「ええ。フーリエルには及ばないかもしれませんが」


「いえいえ、そのお心遣いだけで十二分です。すぐに料理も用意しちゃいますねっ」


 フーリエルは手に持っていたカゴを机に置くと、その中身を広げて机に並べていく。


「へぇ、サンドイッチ。昼食にはピッタリだ」


「ディアメちゃんが作ったんですよ。今日はみなさんあまり食が進むというわけでもなさそうでしたから、簡単なものにしたようですっ」


 長年勤めてきた使用人の一人が死んだのだ。それも兄に引き続き。それを良しと


「……あ、すみません。坊ちゃまも同じ気持ちですよね」


その中でも明るく振舞ってくれるフーリエルを見ていると、暗い気分でいるわけにはいかないな、と思わされる。


「いいえ、あなたがいてくれて助かってますよ、フーリエル。それよりも、せっかく用意してくれたのなら早く昼食にしましょう」


 椅子を引くと、フーリエルが目をぱちくりとした。


「……私も同席してもよろしいのですかっ」


「ええ。エイラム辺りが見れば咎めるかもしれませんが、彼もこちらまでは来ませんよ」


「ではではっ」


 遠慮の欠片もなく、彼女は席についた。彼女も僕らと同様にこの時間まで食事を控えていたらしい。……悪いことをしたかな。


「どうぞ、フーリエルさんから食べるといい。私たちは後からで構わないから」


 探偵も悪いと思ったのか、そんな提案をしてきた。これはフーリエルが持ってきた物なんだからそんな気遣いは正直意味がないんだけど、何かしなければならないとでも思ったのかもしれない。


 なのだけど、フーリエルは喜びを顔いっぱいで表現していた。


「いいんですか? 実はタマタのサンドが食べたくてお先に――もぐ」


 言うが早いか、食うが早いか。有言実行と言わんばかりにタマタを中心にしたサンドイッチは彼女の口に消えていた。そして、彼女の手は次のサンドイッチに手が伸びていた。


「よく食べる人は見ていて楽しいね」


 探偵もフーリエルを眺めながら、サンドイッチを口に運んでいた。


 僕もお腹が減っているのを思い出して、一つぱくり。


「――うん、おいしいですね。さすがはディアメです」


 彼女はこういったときでも手を抜かない。彼女の料理は暗くなり続ける気分に歯止めをかけてくれるし、食が細い時でも食べることができてしまう。


 しばし、食事に集中する時間が続いた。






「それで」


 フーリエルが、その手を止めて口を開いた。もうテーブルのカゴにはサンドイッチが残っておらず、彼女の取り皿に残るのみである。


「この小屋の探索は終わったんですかっ」


 彼女も僕らの成果は気になるところだったらしい。少なくとも昼食を二時間以上も引き延ばしてしまったのは確かだし、昨日から門番の仕事を務めていた彼女に何の説明もなし、というのは少々不義理だろう。


「概ねは探し終えた、と言ってもいい。目的の物も探し出せたし、あとは最後の一つが見つかれば文句なしかな」


「……最後の一つですか。先生が持っている書類ではなく?」


 いいや、と探偵は首を横に振った。


「イラーミ氏が最期に握っていた紙片の手掛かりさ。犯人が持ち去ったのだからそれ自身はないだろうけど、写しとか、あるいはインクがにじんだものでも見つかれば、と思ったんだけどね」


 写しならともかく、インクがにじんだもの、なんて探すのは不可能だ。この部屋は本の山だらけ。そのうえ、下敷きになる様な紙なんてゴミのように扱われるものだろう。


「……そちらの方は難しそうですね」


 僕と探偵の悩む姿に、フーリエルが首をかしげた。


「探偵さんの探していたのはそっちの『クリストファー旅行記』じゃないんですかっ」


「私自身が探していたものではあるけれど、今回の事件とはまた違う用件だよ」


 あくまで探偵が元の世界に戻る手掛かり。今の事件には何らかかわりのない物である。


「うーん、その旅行記の世界と探偵さんの世界は同じらしい、と聞いたので訪ねてみたいことがあったのですが」


 残念です、といわんばかりにフーリエルの顔がうつむいた。露骨に落ち込んでいるのが見て取れる。


「……ロビン君、少しくらいは答えても構わないだろう」


 探偵はこそり、と僕に耳打ちしてきた。別に僕にそんな強制力はないし、悲しげな彼女を見る理由もないのでうなずいた。


「それで、フーリエルさんが訪ねたいこと、というのは何かな」


「おお、答えてくださるとっ」


「もちろん」


 フーリエルが体を跳ね起こした。その表情はすぐに生気が戻っていた。本当にわかりやすい人である。


「では、一つ目。探偵さんの世界でもピリシはいるんですか?」


「――――いいや、彼らのような生物はいなかった」


 探偵の返答は、ついさきほどの温和な返答と比べるとどこか冷ややかだった。なぜか、寒気を感じるような。


「どうしてそんな質問を?」


 どうしてだろう、という疑問が湧く前に、フーリエルが旅行記を手に取った。


「確か、クリス様の旅行記の中盤の方で……」


 ペララ、とページがめくられる。一瞬で該当するページがめくれるくらいには彼女も読み込んでいるのだろうか。


「ほら、ピリシ料理についての記載があるでしょう」


「――いや、そんなはずは」


 探偵はそのページを食い入るように見つめる。


 僕もそのページを見ると、確かにフーリエルの言うように、現地でのピリシ料理の解説が存在する。


 ――それを見て、背に伝う寒気の正体もわかった。


「では、こちらのブラジルとプロシアという国がある大陸、というのは?」


 フーリエルは気づいてもいないのか、無邪気に質問を続ける。


「……プロシアというのはプロイセンか。ヨーロッパと南米大陸が地続きということはない。つまり、そんな大陸もなかった」


「なら、こちらも?」


 探偵は首を横に振った。見ただけで、違うものだとわかったのだろう。


 質問は続く。けれど、そのどれもを探偵は否定した。


 フーリエルも、質問の過程で気づいてしまったようで、口元を手で押さえていた。


「じゃあ、探偵さんの知る世界と、この旅行記の世界は」


「異なる世界だ。似た単語を使っているだけの、まったく別物だ」


 彼は唇をかみしめるように言い放った。


 そして、その事実はもう一つ彼に影を落とす。


「――つまり、この旅行記は偽りであり、私の帰る手段の手掛かりになどはならないということだ」


 希望を手渡されてから、それを叩き落される。


 いかに残酷なことか。想像することも難しい。


 しかし、それとは別に不思議なこともある。


「……フーリエルはよくそんなことに気が付きましたね」


 彼女の語った疑問点は、まるで探偵の居た世界を知っているからこそ出てきた疑問に聞こえた。少なくとも、ロバート=アーキライトの手記のみの知識ではたどり着けない疑問だと思う。僕が冷や汗をかいたのも、探偵から聞いた話と矛盾があったゆえだ。


「ロバートさまと会話したこともありますから、ちょっと違うな、と思ったことを覚えておりましてっ」


「……なるほど」


 彼女は永い時を生きているとは言っていたが、まさか僕らのご先祖、アーキライト家発祥の男とも話したことがあったとは。彼女が昔を語りたがらないので知る機会もなかったけれど、驚きは隠せなかった。


「そのころはまだアーキライトの家に勤めてはいなかったのですけどねっ」


 なんであれ、直接話した記憶があったから、遺された手記だけでは気づけない違和感を抱けたというわけだ。


「……フーリエルさん」


 僕の隣の探偵が、うつむきながら声を発していた。その視線は旅行記へと注がれていた。


「なんでしょうかっ」


「ロバートさんは私と同じ世界から来たのだろう、と貴女は思ったんだね」


「ええ、探偵さんがたった今否定してくれた要素。それを補強してくれたのがロバートさまの話してくれた昔話ですからっ」


 クリス兄さんの旅行記の方は偽りでも、ロバート=アーキライトが遺した手記に映る世界は探偵の世界と同じものだったという事実は変わらないということか。


「なら、覚えている限りで構わない。ロバートさんが何か元の世界に帰る手段について何か言っていなかっただろうか」


 フーリエルは黙って首を横に振った。


「そうか」


 椅子が大きくきしむ音がした。探偵が力なく椅子の背にもたれたからだろう。


「クリストファー氏の旅行記はロビン君の知る限り、いや、ロバート氏の手記でしか向こうの世界を知らない人間には嘘には思えなかったんだね」


「ええ。少なくとも、今の今までクリス兄さんは祖先ロバートと同じ世界に行ったと思っていました」


 探偵の視線だけがフーリエルへ向けられる。


「そして、ロバート氏の話を直接聞いたフーリエルさんや、私自身の記憶とは食い違う点がある」


 こくこく、と彼女はうなずいた。


 はぁ、とため息をつく声が一度。


「つまり、この旅行記は手記のみを参考にして描かれた創作の可能性が高い。そう考えるべきか」


 帰還の手掛かり。彼にとって、この旅行記に書かれていることが真実であれば、家に帰ることができたかもしれないのに。


 落ち込んでいるはずだ。だが、なんと声をかければいいのかわからない。それでも、何か慰める声をかけないと。


「…………どうして」


 そのはずなのに、僕の口から漏れたのは疑問だった。


「なんだ、ロビン君」


 顔を見た。声を聞いた。


 ――その二つから、同じ疑問が湧いた。


「どうして、先生は笑っているんですか」


 絶望を手にしたはずなのに、彼は笑っていたからだ。


「そんなつもりはなかったが。強いて言うなら、朗報だったからだろう」


 彼がこちらを振り向くころには、彼の表情から笑みは引いていた。


 それでも、やはり彼が悲しんでいるようには見えなかった。


「貴方の帰る手段が手に入らないことが、朗報だったと言うんですか」


「いいや。それは実に残念なことだ。しかし、この旅行記が偽りだったことは、事件の解決にもつながる重要な事実だ」


 彼は椅子を引き、書類と旅行記を手に立ち上がった。


「フーリエルさん。しばしこの二つは借りていきます」


「ええ、かまいませんけどっ。これからどこへ?」


 フーリエルの疑問は僕の疑問でもある。彼はどこへ行くつもりだろう。


「最後に、整理をつけたい。ロビン君、この家で一番景色の良いところを案内してくれないか」


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