第十四話:夜と眠りは遅く
屋敷に戻り次第、探偵に寝室を案内した。彼は用を足したらすぐにでも寝るよ、といって去っていった。……いくら彼の足跡を追うとはいえ、トイレにまでついていく必要もないだろう。
それと寝る前に、探偵にロバート=アーキライトの手記を渡しておきたい。枕元で書物片手に過ごす夜は他の何と比較しがたい時間であるし、早朝であれば一日を知的に過ごすきっかけになる。探偵にとって本にそこまで興味があるかは知らないが、あれだけ熱望した故郷への手掛かりは一刻も早く検証したいことだろう。
そう思っていたけれど、自室から戻って彼の客室に戻るころには、すでにその扉は鍵をかけられていた。もう眠ってしまったのだろう。
寝ているところを起こすのも忍びない。なので手記は彼にあてがわれた客室の前にある棚に置いた。彼なら見逃すこともないだろう。
最後に、寝る前に湯あみでもしたい。僕もグランブルトまでの旅は馬車に乗るだけではあったけれど、少し疲れた。汗をかいたわけでもないけれど、疲れを水に流したい。
明るかった屋敷の廊下も半分ほどの灯りが消されやや薄暗い。足元が見えない、なんていうほどではないが、外から聞こえる虫の鳴き声がいつもより大きく聞こえる。
屋敷の廊下を五分ほど歩き、庭に通じる扉が見えてくる。浴場への扉はその二つほど手前に存在する。
どうやら鍵もかかっていなければ使用中の札もかかっていない。そもそも、こんな夜遅くにお風呂に入ろう、なんて人間はそういまい。
そう思ったから不用意にドアを開けたのに、だ。
「あら、ロビン。あなたもお風呂?」
服を脱ぎ終え、これから入浴である、と言わんばかりの姉の裸体がそこにあった。
とりあえず扉を閉めた。ついでに、扉にかけられた札をくるりと回して使用中にしておく。
「……まったく、鍵をかけるか使用中の札を回すか。どちらかくらいはしてください」
「あら、ごめんなさい。ついわすれてたみたい」
くぐもっていながらも、とぼけた調子の姉の声が扉の向こうから聞こえてきた。
アーキライト家にはもう一つ、離れの方に大きな大浴場がある。そちらのほうは男湯女湯で別れているから、鍵なんて気にすることはないので、姉も忘れていたのだろう。
「どうする? ロビンも一緒に入っていく?」
「遠慮しておきます」
悪い冗談だ。
「……興味ないのかしら?」
「それ以前に五年も暮らせば関心も薄れるというものです」
血のつながりがないとはいえ、もはや家族としてしか思っていない。姉を一人の女性としてみることは多分ないだろう。
ふふふ、と笑う声が聞こえてきた。からかっていたつもりらしい。
「それは冗談として、先に入る? 私、どうしても長風呂になっちゃうし」
服を脱ぐ前ならともかく、再度服を着て僕が出てくるのを待つ、というのも面倒だろう。
「いいえ、ご心配なく。姉さんはごゆっくりお入りください」
「そう? ロビンがそう言うならお言葉に甘えさせてもらおうかしら」
それきり、姉の声は聞こえなくなった。
なんとなく、今日はお風呂に入る気分でもなくなった。それに、姉の入浴時間は長い。今日はおとなしく部屋に戻ろう。
部屋に戻る途中。ディアメの姿を見かけた。
今は日付が変わる少し手前。こんな夜遅くに活発に活動する人間は多くないし、その法則はこの館にも適用される。にも拘わらずうろついている彼女は何の理由があってだろうか。
「ディアメ、こんばんは」
「おや、坊ちゃま。こんな夜分遅くに珍しい」
僕の呼びかけに応じて彼女は振り返った。その手前には、小さなワゴンがあった。
「ディアメこそ。こんな時間に何をしていたんですか?」
「いえ、大したことではありません。旦那様にお茶を入れてほしい、と頼まれましたので、軽いお茶請けなどを持ってきた次第です」
見れば、彼女の手元のワゴンの上にはティーポットと、東方で有名な焼き菓子が置かれていた。菓子の名は確かフェアスだったか。
「こんな時間に夜食とは。不健康な気もしますが」
「むしろ食べてもらった方がよろしいでしょう。今日の夕食も探偵さんに食べさせるばかりでご自身の食はほとんど進んでいませんでしたから」
「……そうでしたね。少しでも栄養をつけてもらう方が優先ですか」
思えば、父は語るばかりであまり料理には手を付けていなかった。それ自体はいつものことだけど、あまりに元気そうであったから記憶から抜け落ちていた。
「それに、このフェアスにはキャベツとニンジンを混ぜ込んでいます。下手な料理よりもうんと体に良い物ですから、ご心配なく」
彼女の語りで思い出す。彼女の作った焼き菓子は栄養豊富なくせに、その野菜の味は生地に調和し、それでいて美味である。
「父の容態はどうでしたか? 具合が悪そうでなければ僕もご一緒したいのですが」
「もう。自分で夜食はよくない、と口にしたばかりでしょう。いけませんよ」
どうやら僕がお菓子に目を付けたことはお見通しらしい。
「まあ、ほら。一人よりは二人の方が父の気も紛れるというものです。それに、容態の悪い父が許されて、健康的な僕が体に悪いことをしてはいけないのもおかしいでしょう?」
はあ、と僕の隣でこれ見よがしにディアメはため息をついた。
「ずいぶんと理屈っぽくなって。誰に影響を受けたのでしょう。少なくとも一年前は私の忠告を素直に聞いてくれたのに」
まるで母親の様な言い分だけど、この家で言えば一番年の近いメイドはディアメだ。ティーナ姉さんとはまた違う意味で、彼女も姉の様なものであるかもしれない。
「夜更かしも夜食もほどほどにしますよ。30分もすれば寝ます」
「……分かりました。旦那様はバルコニーにおられますから、そちらまでご案内します」
ワゴンをゆっくりと押し始めた彼女の肩のすくみをみるに、根負けしてくれたらしい。
「しかし、ディアメが夜遅くに起きているなんて珍しいですよね」
その横を歩きながら疑問に思ったことを口にしてみる。
「……そうでしたか?」
「夜分にディアメが父の頼みごとを引き受ける姿は初めて見ました。普段はあなたも眠っているでしょう」
睡眠時間をあまり求めないフーリエルや、いつたたき起こされても嫌な顔をしないであろうエイラムが夜食を運んでいるのを見たことはあったけれど、その役がディアメだったのは今日が初めてだろう。
「夜更かし自体はそう珍しくもありません。夜分遅くに本を読む、というのはたまにはしますよ。……しかし、そうですね。部屋の外に出ませんから、必然的に夜食を運んでくれ、なんて頼まれごとを引き受けることもなかったかもしれません」
「じゃあ、今日は外に出る理由があったんですか」
「ええ。探偵さんに少しお願いをされまして」
意外な名前が出てきた。ディアメと探偵が話していたのは厨房の前で探偵が口説きの様な事をしていたくらいしか見ていない。
「まさか、また無茶なお願いをされたんですか」
「いいえ、『伝話』を貸してくれ、とだけ。なんでも、エルジェ=イークルス氏にお話するとかで」
確か、イークルス夫人にはついさきほども話していたような。
「ずいぶんとマメに連絡しているようですけど、その連絡の内容、というのは聞き取れました?」
「向こうの声までは聞こえませんでしたが、成果なし、調子は良好。ぐらいのことしか話していませんでした」
おそらく捜査のことだと思うのだけど、何の成果も出なかったのになぜそんなに細かく連絡を取るのだろう。
「……あの二人がお付き合いをしている、とか」
「一分にも満たない事務的な会話に蜜月な関係があるとは思えませんけどね」
「冗談です。夫人がそんな不倫のようなこともしないでしょうし」
これ以上は下衆の勘繰りにしかならないか。なら、こんな会話をするべきでもないだろう。
「それよりもディアメ。そちらの焼き菓子の作り方でも教えてもらえませんか」
「ええ、かまいませんよ。まずはですね――」
夜の星を眺める父が、独りバルコニーに居た。
「旦那さま。フェアスをお持ちしました」
「おお、ありがとう。なんだ、ロビンも来たのか。フェアスの甘い匂いにつられてやってきたのか?」
にやにやと笑う父は、突然僕が来たのにそう驚いていない。そんなに甘いものが好きな自覚はないのだけど、父の中では僕と甘いものは結び付けられるものらしい。
「すぐにお茶の方も淹れますのでしばしお待ちを」
ディアメはそう言うと、てきぱきとした動作でお茶の準備を始めた。
「ロビンも座りなさい。今日は夜空がきれいだぞ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
父に言われるがまま、椅子に座りながら空を見上げる。月がないせいか、本当に星がよく見える。
ぼう、と座っていれば、それだけで夜も更けていきそうな感覚がする。
雲もない夜空には、どこまでも手を伸ばせるような錯覚さえしそうになる。
かたん、と陶器が重なる音がした。ディアメがソーサーにカップを置いた音だろう。
「ロビン」
父は置かれたカップに手を付けず、空を見上げてながら僕の名を呼んだ。
「どうしたんですか、父さん」
「少し気になってな。何か悩みがある顔をしていた。あの探偵と捜査を進めるうちに何かあったんだろう」
入り込んできた夜風が寒かったのか、ようやく父はカップのお茶に口をつけた。
ただ、僕が考えているのは父の言うような悩みとは言い難い。
「父さんもわかっているとは思いますが。先生はこの家の誰かが犯人と考えています」
「だろうな。私にさえ疑いの目を向けている、と公言したくらいだ」
愉快気に父は笑う。その表情の理由が、どうしてもわからない。
「いいんですか、父さんは」
「何がだ」
「この家の誰かが犯人と名指しされても」
「……偽りの指摘で犯人扱いされた、というのであれば怒りを覚えるだろう。それは間違いない」
カップに入れられた紅茶を少し飲む。肌寒いくらいのこの夜に対して、身に染みるような暖かさだった。
「しかし、公正であるのなら。事実に基づいた真実であるのなら。彼の言葉を否定するのではなく、受け入れるべきだろう」
「例え、父さん自身が犯人と言われても、ですか」
「そうだな。私にしか殺せない、という事実をつきつけられたのならそれを否定はすまい。それが正しい行いというものだ」
父はどことなく、老人のようだった。すべてを受け入れて、あるいは未来に生きる力をなくした抜け殻の様な。
「不満か、ロビン」
「いいえ、不思議なだけです。疑いの目を向けられたのに、それをよしとすることが」
「疑いの目を向けられたのではない。もっと単純に、彼自身が公正であろうとしただけだろう。その精神を私は肯定こそすれ否定することはないよ」
「……ずいぶんと先生を買っているんですね」
父が話したのは晩餐のときと事情聴取と銘打って父の部屋を訪ねた時くらい。
「どうかな。しかし、あれだけ人間らしい迷いを見せられては、嫌悪を抱く前に興味がわくというものだ」
分からない。探偵との会話は数少ないと言うのに、そこまで理解を示せるのだろう。そもそも、彼の迷いというものを、どこで見たのだろう。
「どうして父さんは、先生のことをそこまでわかっているんですか」
「古い友人に似ているんだ。自身の仮説を必死に否定しようとする姿は、どこかあの男に似ている」
父は思い出すように、その在りし日の風景を夜空に重ねているようだった。
「元の世界に戻る方法の話をしていたとき、ですか」
「まあな。それより、我らが祖先ロバートの手記の写本は渡したんだろう?」
「ええ」
「戻れると良いな、彼は。私の友人は結局、目的を果たせたかどうかわからぬままに音信不通になってしまった」
父はあまり過去を語らない。曰く、過去よりも未来の方が重要なのだとか。その意思を僕も受け継いではいるつもりだ。けれど、たまに饒舌になると少しくらいは昔のことを語ってくれる。
きれいな夜空にでも、酔っているのかもしれない。
「ねぇ、父さん」
「なんだ」
「その古い友人の話、聞かせてくださいよ」
父はカップを空にすると、少し笑いながら口を開いた。
「その男は不思議な男だった。特に、その真っ赤な瞳が特徴的でな――」
父の語りで夜もずいぶんと過ぎた。
ディアメにせかされて、一時間ほどで夜の茶会はお開きになった。
話を聞いているときは疲れなんて感じなかったけれど、ベッドに入るころには意識が飛んでいた。
時刻は深夜零時。
父も、ディアメも眠りにつき。
誰もかれもが、眠りについたであろう。
だから。そのときに聞こえたはずの悲鳴は闇に消えてしまったに違いない。




