第八話:晩餐
晩餐の席には、僕、姉、探偵の三人。
「おお。お待たせしてしまったかな」
それに遅れて、病床に臥しているはずの父の声が聞こえてきた。
車いすに座りながらの入場ではあったが、普段よりも少しだけ調子が良さそうにも見える。
「ガリバーさん、起き上がって大丈夫なのですか」
探偵の心配げな声に、父は笑って手を横に振る。
「このくらいなら問題ありませんよ。それに、食事の楽しみまで奪われては生きる理由も半減、というものです」
「なるほど。いやまったくその通りですな。生きるために食すのではなく、食すために生きる。人間、そうあるべきと思っております」
「おお、探偵さんもそう思いますか。いやあ、気が合いますなあ」
ははは、と笑いあう男二人。
以前の『会合』でも探偵は食に目がないようであったし、出歩くのも難しい父にとって、食事は数少ない娯楽だろう。
意気投合するのは当然の結末かもしれない。
それを眺める隣の姉からは、漏れ出したような笑い声が聞こえてきた。
「ふふ。ご歓談もよろしいですけれど。お父様がそこにいては、料理を運んできてくれるエイラムも困ってしまいますよ」
「おっと、すまない」
姉の言葉に押されるようにして、父が陣取っていた入り口から移動する。
その背後から、銀色のワゴンを押しながら執事のエイラムが現れた。
「いい香りですね。香りだけでも美味だとわかる」
「そうだろう。ウチのシェフは優秀だからな」
父はいつのまにか探偵の隣に陣取っていた。
話が盛り上がる、と判断したのかもしれない。
実際、二人は今日初めて会ったにしては妙に仲良く見える。
「こちらの黒いのは何です?」
「デルクから取り寄せたレペップという香辛料の一種だよ。レペップの果実を乾燥させて作られるものなんだが、我が家で取り寄せているのはあえて完熟させずにだね――」
楽しそうに語る父と、それを興味深そうに聞く探偵。
それを見ていると、以前のエド兄さんと父の会話が思い出される。
隣に座る姉が、こそりと近づいて耳打ちしてきた。
「なつかしいと思わない、ロビン?」
「……そうですね」
エド兄さんが死んでから、四日。父が楽しそうにしているのは、それ以来。
たった四日だけど、なぜだかとても長く感じた四日だった。
姉と、グランブルトでの出来事を話し。
父が、探偵に向けてこの世界の歴史を語り。
探偵が、日常で起きた些細な事件を話す。
楽しい晩餐の時間はあっという間に過ぎ去っていた。
食卓にはデザートを残すのみ。
これもやはり、我が家のシェフの渾身の一品である。
一口食べるだけで、至福の時を顕現させる。
甘さの中に溶け込んだ程よい酸味が二口目を誘ってくる。
もう一口だけ、が止まらない。
もう一度だけ、もう一度だけ――。
半分ほど容器の底が見えた辺りでこの手と衝動はようやく落ち着いた。
甘味に飽きた、というわけでもない。
探偵が食に目がない、などと話していたことを思い出し、どんな感想を顔に浮かべているか見てみたくなったからだ。
さぞ喜んでいるだろう、と顔を伺ってみるが、なぜかその顔は暗い。
「――やはり、この世界にもその手の魔術はありませんか」
どうも、一瞬目を離した隙に父との会話で何かあったらしい。
デザートに気を取られすぎてしまっていたか、何を話していたのか聞いていなかった。
ただ、先ほどまでの二人の様子と比べて、あまりに重苦しいものがある。
「……ずいぶん悩んだことだろう。一人で抱え込むにはあまりにつらいことだ」
父も深刻な様子で、探偵を慰めるように、優しげな声で語り掛けていた。
いつの間にか、二人の話し方も砕けたものになっているような気がする。
「前の世界でも、この世界でも。ずいぶんと探し求めたものですが、ガリバーさんほどの方でも不可能と言わざるを得ないと」
「ううむ、私が知りえない手段はあるやもしれないが、魔術は可能性がない物までは実現できぬ。君がその危機に直面した時には、おそらく君の可能性はなくなっているだろう。魔術で対抗することは難しい、と言わざるを得ない」
あまりにも深刻な様子。
確か、探偵は何かの目的のためにこの世界に来た、と以前言っていたような気がする。
ならば、父に聞いているのもその目的、とやらにかかわるのだろうか。
何も知らずに相槌だけをしていればこの場は乗り切れるが、それではあまりに情がない。
……と思うのだけど、姉はなぜか困ったような顔で二人の会話を聞いているだけだった。
「あの、途中から聞いていなかったのですが。お二人は一体何の話を?」
あの重苦しい空間に踏み込むのもはばかられるし、事情を知っていそうな姉に耳打ちをする。
姉は笑いをこらえるように口元を抑えながらも、口を開いてくれた。
「髪、よ」
「……すいません。もう一度お願いします」
「だから、髪の毛。探偵さんの祖父は髪が少なかったらしいんだけど、それを見て自分も髪がなくなるかもしれないから、その対策はないか、ってお父様に聞いてたの」
すごくどうでもいいことだった。
どうしてそんな話題になったのか、とか気にならないでもないけど、その議題は本当にどうでもいい。
髪の毛ごときでどうしてあんなに深刻そうなんだろう。僕の心配を返してほしい。
「いや、しかし探偵さん。心を強く持ってほしい。可能性がなくなってからでは遅いが、今の貴方はお若い。今から予防をすれば、持ちこたえることは適うかもしれない」
「――――ええ。ですが、運命の歯車は止まらない。地に落ちる水滴のごとく、やがては消えるのです」
ほんと、深刻そうに話しているが、髪の話である。
実にしょうもない。
「そういわずに。探偵さんは魔術が不得手と聞いたが、私が教えれば――」
父の言葉はそこで途絶えた。
代わりに、父の喉からは多量の咳と、少量の血が噴き出す。
その体はうずくまる様に丸くなり、テーブルについた左手は細かく震えていた。
「――ガリバーさん!」
歩み寄ろうとする探偵を、父は空いていた右手で制した。
「いや、問題ない。いつものことだよ」
言葉だけは気丈にふるまう。
けれど、テーブルから手を放し、車いすの背にもたれるだけでも一苦労にさえ見える。
「しかし、これ以上は歓談というわけにもいかないな。……エイラムはいるか」
「おりますとも、旦那様」
呼びつけられた執事のエイラムは、手馴れた様子で父を再度車椅子に座りなおさせた。
父の容態が歩けないほどになってからは、何度も行われた光景だ。
あるいは、僕にとっても見慣れた様子、と言ってもいい。
「部屋へ戻ってよろしいのですね」
エイラムの問いに父は黙ってうなずき、そして探偵の方を振り向いた。
「探偵さんもすまないな」
父の弱弱しい謝罪に、探偵はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、私のことなど気になさらずに、ご自愛ください」
「……ありがとう。エイラム、あとは頼んだ」
父の言葉に従って、エイラムが車いすの背を押す。
「では、探偵さん。主は先にお休みになられますが、どうぞごゆるりとおくつろぎください」
エイラムはそう言い残すと、父の車いすを押しながら食堂を後にした。
父を見送った探偵は少し浮かない表情をしていた。
「ううむ、話が盛り上がったとはいえ、病人に無理をさせすぎたかな」
知らない人間が見れば、そんな感想にもなるだろう。
けれど、日ごろの病に苦しんでいる父を知る人間にとっては、そうは思えない。
「いいえ。あれほど楽しそうにしているお父様は久しぶり」
隣に座っていた姉が口を開いた。
「今日の食事の量だっていつもの二倍くらいだったし、食事の際にせき込んだ様子を見せなかったのも珍しいくらい。だから、探偵さん。あなたは誇りに思うことはあっても、落ち込むことはあってはいけませんよ」
姉の言葉は、まさしく僕の心の内を代弁するものであった。
それを聞いた探偵は照れ臭そうに頭をかく。
「……いやはや。面と向かって言われると、少々こそばゆい」
「恥じることもありませんのに。それに、私も探偵さんに興味がわいてきました。どうですか、この後ラウンジの方でもう少しお話していただけませんか」
父の体調の良さも珍しかったが、この姉の積極性も珍しい。
僕ほどではないにせよ、姉も活発な方ではない。
少なくとも、男に対して歓談の誘いをしているところなど、初めて見た。
まさか、とは思うが。いや、まさか。
「お誘いはありがたいのですが、後にしておきましょう」
僕が口を挟む前に、探偵が否定の言葉を口にしていた。
理由は分からないが、なぜかほっとした。
「あら、理由を聞いても?」
「私もお聞きしたいことがありますが、食事の後すぐにする話題でもありません。それに」
言葉を一度止めた探偵と目が合う。
「弟君の眼が怖い。イエスと言えば刺されていたかもしれません。少しばかり、彼の怒りをしのぐ時間が欲しいのです」
「先生、冗談でもそういうことを言うのはやめてください」
「おや、怒らせてしまった。すまないね」
おどけたように言う探偵に、文句の一つでもぶつけてやろうか。
そう思ったのだけど、横から聞こえてくる小さな笑い声に怒りは沈静化した。
「本当に愉快な人ね」
声を潜めるような、本当にかすかなものではあったけれど、確かに姉の笑い声はこの耳に聞こえてきた。
思えば、姉が声を出して笑うのも四日ぶり。
この家の時間は、それだけの間止まっていたらしい。
「少し話すだけでも、話のタネには困らないでしょうに。ペンが止まっていたから、新しい風が欲しかったのですけど。残念ね」
「その口ぶり、ティーナさんは作家か何かですか?」
「伝記を少々。『白き英雄』の一編を書いたのも私なんですよ」
ほう、と感心したように探偵が相槌を打つ。
「白き英雄と言えばあの白い門の。先ほどロビン君と話したばかりですよ」
「あら、ちょうどいい。その詳しい由来だとか、ご興味ないかしら」
困ったように探偵は唸り声を上げた。
「ない、と言えばうそになりますが。しかしこれ以上嘘をつき続けるわけにもいかないでしょう」
探偵は静かに立ち上がる。
嘘、というのは誘いを断ったにもかかわらず話続けていることだろうか。
「それじゃあ、探偵さん」
「なんでしょう?」
立ち去ろうとしていた探偵が、姉の言葉に振り向いた。
「時間をおいてからでもいいの、ラウンジでお会いしましょう。お腹が軽くなってからでも、お話にきてくださるかしら」
「もちろん。貴女の書いた伝記についても、話を聞いてみたいとも思っていました。私としてはありがたい提案です」
「約束よ」
姉は探偵を見つめながら、微笑みかける。
「ええ。約束しましょう」
探偵も微笑みを返す。
その時間は一瞬で、探偵は体を翻すと、この食堂を後にした。
「本当に愉快な人ね」
「……そうですかね」
「あら、ロビン。ご機嫌斜めかしら」
「そんなことありませんよ」
姉を取られそうになって悔しい、と思う年ごろでもない。
まして、探偵の態度が気に食わない、などということもない。
本当に、何とも思っちゃいない。
「ねぇ、ロビン」
「なんですか、姉さん」
「あなたは、あの探偵さんのこと、どう思ってるのかしら」
どう、と言われても返事は難しい。
「初めは、不思議な人という印象を受けました」
その印象は、今でも変わっていない。
生まれ育った環境に由来しているのか、あるいは彼本人の気質によるものか。
その辺りを判別する方法はないけれど、とにかく不思議というのが彼の第一印象だった。
「けれど、それは分からないから、というものに過ぎなかった。あの人を見ているうちに、その心の内は多様性に満ち溢れている、と感じました」
謎に惹かれる好奇心。死を悼む気遣い。そのくせ、自らの死を厭わずに彼は真実をあぶりだそうとする。
「――そう、しいて言うのなら。目が離せない人だな、というのが正しいのかもしれません」
それがしっくりくる。
確かに良識をわきまえてはいるはずなのだけど、何をしでかすのか分からない。
だから、目を離せない。
「……私も、少し不思議だったの」
「あの人のことが、ですか」
「ええ。ロビンが先生、だなんて呼ぶような人で、ロビンの笑顔を見たことがあるような人がどんな人か、ってこと」
その言葉に、夕方のことを思い出す。
探偵が、姉と僕の笑顔が似ている、と言ったときのこと。
姉が言葉を失っていたのは、僕と似ている、ということではなく、僕の笑顔を彼が知っている、ということに驚いたらしい。
「……多少人より笑わないかもしれませんが、そんな希少なものでもありませんよ」
「自分のことなんて気づかないものよ。でもまあ、探偵さんは心配するような悪い人ではなさそうで安心した」
姉は思い返すように微笑む。
「ほら、目が離せないんでしょう? 彼を追った方がいいんじゃないかしら」
言われてみて、探偵を一人で放り出したのが少し気になってきた。
まさか変なことはしていないだろうけれど、この事件を解決するための一挙手一投足。それは、きっととても興味深いものに違いない。
「そうですね、姉さん。行ってきます」
探偵はそう遠くに入っていないはずだ。
今から追えば、すぐにでも追いつけるだろう。
「行ってらっしゃい、ロビン」
姉に見送られながら、僕も食堂を飛び出した。




