第一話:日常
曰く、時に流れなどない。
曰く、過去と未来に違いはない。
曰く、時間と空間は同じモノである。
魔術においてこの三項は、時間を扱う上で基礎となる概念として扱われている。
この理念に則れば時を遡ることも可能である、と言われている。現状では意識のみの移動だけが魔術として成立しており、肉体の移動までは実証されていない。
そして、ボクの父より受け継いだ不老不死にまつわる研究もまた、時の流れに逆らう魔術の系譜を汲む。 その研究の下地として、時にまつわる研究書は幾度も目を通している。重要なところは空でも言えるかもしれない。
今日はその理論を発展させた、と豪語する一つの小さな論文を検分する。著者は学生上がりで、まだ名も売れてなければ実績もない。それ以前の論文も目を通してみたが、革新性はあるものの、地に足がついていない感がある。
この論文が直接不老不死につながる見込みは非常に薄い。しかし、こうした細かいところに、稀に宝石が埋まっていることもある。
紙を一つ、めくる。
ゴーン、と重たい鐘の音が鳴り響いた。
このあたりで鐘がなる、といえば12時の鐘くらいのものだ。しかし、この部屋で本をめくり始めて三時間ほど経ったことになる。集中していたせいか、そんな感覚はみじんも感じていなかった。
論文を閉じた数十枚の紙を机に投げ出す。この論文がまるっきり無駄だから無造作に扱った、と言うわけではない。
目の付け所はいい。だが、得られる結果があまりに無意味なのだ。
十年過去に戻るために、十年の歳月を要する。この理論を突き詰めてもそれしかできまい。
肉体の老化と若返りの帳尻を合わせることで不老に至る、というボクの研究と近しいところはあるが、現状のボクの研究以上に至るものではない。
それに、非現実的である、という面もある。
必要となる道具を集めるにも、またその術式を行うにも、膨大な魔力を必要とする。個人で用意できるようなものではない。金貨で例えるなら城を押しつぶせるほどは必要だろう。自分も金銭を都合する手段が少ない方ではない、とは思っているが、それにしても限度はある。
どうしようもない、と思うとため息が漏れてしまうのを止めようもなかった。
ぎしり、と部屋の奥の椅子が軋んだ。
「クルビエ、調子はどうだ」
椅子の主から、こちらに投げかけられる言葉があった。
男の名前は京二郎。この事務所の主であり、この世界唯一の探偵、を自称する人物でもある。
とある事件で知り合って以来、この事務所にきてなんとなく時間を潰す、というのがボクの日課になっていた。以前は少し滞在する程度だったが、今は生活道具なども事務所の奥の生活スペースにそろえてしまっている。自分の家にいるよりもこの家で寝起きする時間の方が長いかもしれない。
過ごす時間も増えると、気遣いの量も減る。ゆえに、彼に今日の成果を取り繕うようなことはしない。
「いや、まったく駄目だね」
「それは残念だ。しかし、もう昼の時間だ。気分転換もかねてどこかに食べに行かないか」
京二郎の提案で外食、というのは珍しい。
普段であれば出前を取るか、自分で作るか。なんにせよ、あまりこの男が昼食を食べるためだけに外に出る、ということはない。何か、別の用事もあるのだろう。
「もしかして、午後から依頼があるのか」
「その通り。とある商人に周辺の貴族の動向を探ってくれ、なんてことを頼まれた」
「まるで隠密みたいな仕事だね」
「隠された真実を暴くのが仕事だからね。そんな仕事も回ってくるさ。支払いもいいし、特に断る理由もない」
大方、支払いがいい、というのが大きな理由ではないだろうか。
この男が豪勢な生活を送っているところは見たことがない。性に合わない、と言うのもあるのだろうが、それ以上に収入源となる依頼が少ない。
僕に言ってくれれば工面するのだが、彼はそういった情けを受け取る人間でもない。
「それにしても、いつそんな依頼を受けたんだ」
この事務所に住むようになってからしばらくだが、そんな貴族の使いのような人間は最近は見た記憶がない。
「五日前の夕方くらいになる」
五日前、といえば僕にとっては二週に一度の教師の仕事がある日だ。その日は帰りがけに友人と出会い、ここに帰ってくるのはずいぶんと遅くなった。その日に依頼人が来ていた、というのならボクはその依頼の現場を見てはいないだろう。
「一応、同居人なんだし、仕事のあるなしくらいは伝えてくれてもいいんじゃないか」
「思ったより早く情報を集められてね。もう十分とみて、ついさっき連絡をとりつけたんだ。『伝話』を使っていたから声くらいは聞こえていたと思うんだが、気づかなかったかい」
魔術師、というのはその多くが耳がいい。魔術の基本である『詠唱』を聞き取るために、自然によくなってしまう、と言うだけなのだが。
言われてみれば、少しそんな声も聞こえたような気もするが、『伝話』はこの事務所の奥の生活スペースにある。いくら魔術師の耳がよくても、ドア越しでは内容までは聞き取れない。
「京二郎、キミはずいぶんと魔術師を過大評価している。ボクらだって普通の人間に過ぎないんだ」
京二郎は申し訳なさそうに眉をひそめた。
「私が評価しているのは魔術師全般、と言うわけではないのだけどね。それに、君に伝えなかったのはずいぶん集中しているようだったから、声をかけるのも悪いかな、と思ったんだ。すまない」
確かに、時間を忘れるほどには本を読むことに集中していたのは事実。
気遣いの産物、と言うなら仕事を伝えなかったくらいで不満を覚えるのも悪いかもしれない。
「いや、ボクの方こそ変なことを言った。申し訳ない」
なんとなく、置いてきぼりにされるような、さみしい感覚があったに過ぎない。他人にその感覚をぶつけようとするのはよろしくない。
「謝罪代わり、というわけではないが、一つ提案がある」
ボクの発言を気にしたのだろうか。京二郎は立ち上がりながら、指を一本立てた。
「と言っても、今思いついたものでもない。以前から、依頼の時間を見てから考えていたことなのだけどね」
「なんだ、もったいつけずにさっさと言ってくれ」
「昼食から依頼の報告まで時間がある。その間、大通りでも物色でもしてみないかい?」
「………………」
それはつまり、二人で買い物、ということか。
「どうかな?」
「………………いいよ、乗った」
「それはよかった。それじゃあ準備ができ次第、外で集合、ということで」
京二郎はそう言い残すと、自室へと歩いていってしまった。
外出する、というのであればボクの方もそれ相応の準備が必要だ。
三時間付き合わせた椅子から腰を上げ、ボクも一度自室へと戻ることにした。
後ろ手に扉を閉め、鍵をかける。これで、この空間には自分一人。
誰の眼もない。だから、安心してこの体を外界に晒すことができる。
包帯に閉じ込めていた、陶器よりも白い肌と、日光を避け続けて同じく白く染まった長い髪が鏡に映る。その姿は自分の姿にもかかわらず、あまりに病的で、あまりにも痛々しい。
といっても、その時間は一瞬だけ。顔を隠す包帯を髪ごと巻きなおし、姿をおぼろげにするフードのついたローブを纏う。外界を覗く目元だけを残して、体は布で覆われる。
ここまで厳重に体を隠すのは日光を浴びることができない、という事情のためだ。自分の体を実験台にした代償として、陽の元に素肌を晒せなくなる、という『呪い』がこの体には存在する。
もっとも、そんな『呪い』がなくともこの体は実験の痕で人に見せられるものではない。それを見せたくないがために、屋内でも、この事務所の中でも、身を隠す装いは変わらない。いや、変えられない。
いつ頃から誰にも見せられなくなったかは覚えていない。物心ついたころには習慣となっていた。そして、誰かに見せる勇気はどこかへと消えていた。鏡で自分の肉体を見ることすら、少し嫌になる。その臆病な心こそが、『呪い』である、ともいえるかもしれない。
ただ。いつの日か、自分に勇気が持てたのなら。信頼できる人間くらいには、この姿を明かせるようになりたいと、考えている自分もいる。
でも、それは今日ではない。
今日はいつもの通り、身を隠したまま、外界への扉を開く。
事務所の方には、すでに支度を終えていた京二郎が柱にもたれかかって待っていた。
「待たせたね」
「そんなことはない。行くとしようか」
京二郎は微笑むと、事務所のドアを開けた。
外に出て、鍵をかけたところまで確認して。
ローブがわずかにはためくのを感じながら、彼と並んで街の中心部へと歩き出した。
グランブルトの街は大きく四つの区画に分かれている。
北部の大部分が山脈によって構成されたノースウェスト。
東部の広大な平原へと続くイースタン。
南部の外界への入り口となる漁港のあるアトラント。
そして、それらに囲まれるように存在する、グランブルト王城の所在地にて物流の拠点のセントラル。
ほとんどの人間はセントラルで生活、交流を行い、商売が繁盛するのもまたセントラルだ。
そして、ボクたちが昼食を求めて歩いているのは、そのセントラルを横切るように存在するトリトス通りと呼ばれる大きな道路。ここまで大きな通りはセントラルではこのトリトスしかないから、街の人間は『大通り』とだけ呼ぶことが多い。
このトリトス通りは巨大な水路に面しているのが特徴的で、その水路を利用して数多くの物流が生まれ、そして多くの店となって通りを彩っている。そのおかげで、今日も通りではひしめき合う人々の姿が見える。
「それにしても、人が多いな。めまいがするくらいだよ」
人、人、人。どこを見ても人が目に入る、というのは少し気が滅入る。
「都心に比べれば少ない方さ。なんせ人の通り道がある」
「京二郎、冗談は大概にしてくれよ。ここ以上に栄えた街なんて大陸の巨大都市くらいだろうし、そこだって人口密度は大差ない」
これ以上人間が密集している場所が存在している通りがある、と考えるとそれだけで頭が痛い。
「ははは、クルビエがそう言いたくなる気持ちはわかる。アレばかりは実際に体験しないと」
愉快そうに笑う京二郎は特に嘘をついている風でもない。
異なる世界からやってきた、というこの男はどうも、こちらの世界の常識とは違う視点を持ち合わせている。
「そんなことより。目当ての店が見えてきた」
京二郎に言われて彼が指さす先を見ると、周囲のきらびやかな建物たちに比べるとこじんまりとした、小さな白い看板が目に入ってきた。
事前に特徴を聞いていたから目に入ったものの、ただ昼食の場を探している程度ではおそらく見つからなかっただろう。
「あれがキミの言う隠れた名店、と言うやつか」
「そうとも。特にパスタが絶品でね。何のソースがかかっているかよくわからないんだが、とにかく美味なんだよ、これが」
よくわからないものを平気で食えるな、とも思ったが、彼にとってはこの世界のものはすべて異国の文化になる。つまり、総じてよくわからないものに見えるのだろう。
「キミにとっては日々が謎だらけ、というわけだ」
「存外、楽しいんだ、これが」
真実の追求なんてことを仕事にしている彼だが、日常の不思議を追及する姿もまた楽しそうに見える。
「どうした、ぼーっとして」
「別に。大した理由じゃない」
「そうか? なら早く入るとしよう」
からんころん、と鐘を鳴らして喫茶店のドアが開く。
その鐘の音に反応してか、店の中で掃除をしていた女性がこちらを向いた。
「いらっしゃいませー、ってあれ? 探偵さんじゃありませんか!」
「どうも」
その女性は勢いよくこちらに来ると、京二郎の手をつかんでぶんぶんと振り回し始めた。
「あのときはお世話になりました! また来てくださってうれしいです!」
「この店の味が忘れられなかったもので。もう一度来てしまいました」
「そう言っていただけるとうれしいです!」
興奮してやまないのか、その女性は会話中もぶんぶんと京二郎の腕を振り続けていたが、ボクと目が合うとその動きを止めた。
「あら、そちらのぐるぐるさんは?」
ぐるぐる、というのは僕の顔にまいた包帯のことか。少々特徴的かもしれないが、そんな言われ方をしたのは初めてだ。悪口にも聞こえかねない、とも思うのだが、不思議と不快感はなかった。
「こちらは私の友人のクルビエ君。諸事情で体を隠してはいますが、別に怪しい者じゃありませんよ」
「クルビエです。よろしく」
京二郎の紹介に合わせて、軽く礼をする。
「で、こちらが以前事件を解決した時に知り合ったイレストリアさん。この喫茶店『イレストリア』の店長でもある」
「イレストリアでーす! よろし……、って、握手はダメだったかしら」
イレストリアは僕に差し出そうとした手をあわてて引っ込めた。おそらく、この巻き付けた包帯がケガによるものだと考えたんだろう。
「いや、別に問題ない。むしろ、こちらこそ包帯の上からでも構わないかな」
僕の差しだした包帯だらけの手は、イレストリアにしっかりと握られた。
「全然かまいませんとも! よろしくおねがいしますね!」
「うん、こちらこそよろしく」
軽く握り返すと、それで満足したのかイレストリアは手を放し、懐のメニュー表をこちらに見せてきた。
「注文はどうなさいます?」
見た感じではあるが、特に食べられない、というものもなさそうだ。
「ボクは何でも構わないよ。キミのおすすめ、というやつを見てみたいかな」
「了解。前に食べたやつを二つ頼みます」
京二郎の言葉に、イレストリアはにこり、と笑った。
「かしこまりました。お料理の方はちょっと時間がかかりますから、空いてる席に好きに座ってくださいね!」
それだけ言って、イレストリアはぱたた、と店の奥の方へと引っ込んでいった。
店内は観賞用の植物や、木を基調とした家具などを用いて、自然との調和でもテーマにしているのか、緑豊かなものだった。
今座っている椅子も木製で、敷かれているクッションのやわらかさと木の香りが心のとげを取り払ってくれるような気分になる。
「雰囲気もいいだろう、ここ」
自分のことでもないのに自慢げな京二郎だが、こんな隠れ家のようなところを見つけたのであれば、その気持ちも察するところはある。
「そうだね。昼食時でなくても、コーヒー一つ飲むために来るのも悪くないかもしれない」
「そうだろう、そうだろう」
ただ、この稼ぎ時である時間帯に他の客が誰もいない、というのは喫茶店として大丈夫なのだろうか。
気にしたところで何の意味もないが。利益の追求よりもインテリアに金を使っていそうなあたり、オーナーの趣味で経営されているんだろう。
「なあ、京二郎。少し聞いてもいいかな」
「好きに聞くといい」
【操水】の魔法で生み出した水をコップに注ぎつつ、気になっていたことを聞いてみる。
「大したことじゃあないんだが、キミ、イレストリアさんとはどこで知り合ったんだい」
「どこ、ってこの店だけど」
「ふうん、この店で、ね」
包帯を少しほどいて、指を打ち鳴らす。その少し後に、【氷結】の魔法で生み出された氷がポトポト、とコップの中に落ちる。
以前は『接触』、『詠唱』『魔法陣』の三法則にとらわれない魔術だ、と言って驚いてくれたものだが、今では慣れてしまったのか、京二郎は反応するそぶりも見せない。
「なんだ、そんなに怪しいところでもあったか」
「ただ店で出会ったにしてはちょっと仲が、いや彼女の距離感が近いと思ってね。何かあったんじゃないのか」
京二郎はふうむ、と顎に手を当てながら考えるしぐさをする。
「別に大したことは。ちょっとした事件があってね、それを解決しただけさ」
「ふうん。どんな事件を?」
「大したものじゃあない。彼女の夫が不思議な事件に困っていたのでね。少し手を貸しただけだよ」
「……彼女、旦那がいたのか」
「いるとも。裏の時計屋の主人がイレストリアさんの夫のコルークさんだ。それが何か」
冷静に考えれば、イレストリアの距離感の近さはボクに対しても変わらないものだった。好意を持った人に態度を変える、というよりは単に彼女が他人に壁を作らないタイプなのだろう。
「いや、別に何も。今すぐにはその事件の話を聞かなくてもいいか、と思っただけ」
「そうか? まあ、機会があればロビン君の筆を借りて語ることもあるだろうさ」
その場には京二郎の専属助手を名乗る、ロビン=アーキライトの姿もあったらしい。彼にとって大であれ小であれ、京二郎がかかわった事件は語り継ぐべきものであるらしいから、いずれは事務所の片隅にその記録が残されているのかもしれない。
「ボクとしてもキミの活躍を見るのは好きだからね。彼が書いてくれるのを楽しみに待つことにしよう」
「活躍、と言うには言葉が過ぎると思うけど。ああ、すまない、もう一杯水をくれないか」
パチン、と手を打ち鳴らすと、京二郎の示したコップに水が注がれていく。
「ありがとう」
「気にしなくていい」
礼を言われてみて、そういえばこの手の雑用はロビン少年が好んでやっていた、と思い出す。
「そのロビン少年はボクが起きてから見かけなかったけど、今日は何かあったかな」
「ちょうど朝の六時くらいかな、あわただしく出かけて行ったところを見た。彼は彼で貴族だからね。親族だの古くからの付き合いの相手だの、細やかな気配りなんかは欠かせないらしい」
貴族を名乗る面倒くささ、というのはボクもある程度は理解しているつもりだ。特例で貴族を名乗るボクと違い、ロビン少年には古くからの家名を守る責務もある。十五の少年の手が回らなくなっても不思議ではない。
「まあ、そういうものかもね。そういえば、ロビン君に何も告げずに事務所を空けてしまったけど、大丈夫なのかい?」
おなじく同居人であるし、あまり心配はかけたくないが。
「ああ、書き置きを残してある。彼なら大丈夫だろう」
「……そうか」
大丈夫だろう、なんて言うが、正直分からない。この男は伝わればいいだろう、と思って簡単なことしか書かないことが多い。大方、『依頼人のところに行ってくる』くらいしか書いてないのではないか。あるいは、『外出中』とだけ書いてあっても驚きはしない。
とはいえ、わずかな書き置きである程度の事情を察するのもロビン少年ではある。この依頼について把握しているなら、京二郎の行き先、というのもすぐに理解できるだろう。
「ん、来たようだ」
何が、と聞き返すまでもなく、香る匂いで見当はついた。
「はーい、ご注文のグ・トシパ・タマタ・タエムですよー」
その香る方向からは、二つの皿を携えたイレストリアが現れた。
テーブルに二つの皿を置くと、その上から最後の仕上げ、と言うように調味料を一度振りかけた。そのひと手間で一層香りを増して、食欲を誘う。
「おいしそうだな」
ボクのつぶやきを聞いてか、イレストリアはにこりと笑った。
「ふふふ、食べてみると、なお、ですよ。ではでは、ごゆっくりー」
そう言い残すと、イレストリアは厨房へと去っていった。
「いただきます」
京二郎が食事前の挨拶を済ますのを見て、ボクも料理に手を付ける。
「ふうん、これはなかなか」
事前に聞いていた評判に比べても劣らない、と思わせる味だった。
「どうだい、キミはこのソースから何が使われているのかわかるか」
「タマタ、だろう。イレストリアさんも言っていたし、この辛みは間違いないと思うよ」
タマタの辛みをパスタに絡める技術が見事であるし、タマタを使った料理になじみがなければ気づかないかもしれない。
「……タマタって何だ」
「あの赤くて丸くて水分豊富な野菜。あれだよ」
「トマト、みたいなものだろうか」
「キミがそう考えるならそれで間違いないんじゃないか。辛みを出すためによく用いられているよ」
京二郎の世界との文化の違いがどれほどか、というのはボクには理解できない。なので適当に流したのだが、彼にはそれなりの重要事項であったらしい。
「辛いトマトってなんだ……?」
パスタはおいしく食しているようだが、どうも彼にとってこの赤いソースの原料がタマタであることは受け入れがたいらしい。
「もしもの話ではあるけど」
「うん?」
「ボクがキミの世界に遊びに行くことがあれば、そんな感じになるのかな」
何の気なしに言ったことだが、京二郎は笑みをこぼした。けれど、笑っているのに、悲しんでいるような。そんな、複雑な表情に見えた。
「そうだな、そんな姿も見てみたいものだが。帰り方もわからないのではその未来は遠い話になりそうだ」
その口調はずいぶんと重苦しく、京二郎の陽気さとはややかけ離れている陰を感じた。
食事の席で重い雰囲気は実に面白くない。
「よければでいいんだけど、キミの世界の話を聞かせてほしい」
「私の?」
「そう。行けないのだとしても、話を聞けばその世界を知ることはできる。未知の世界を知る、というのは興味深いことだとは思わないかい」
ふむ、と悩む京二郎の表情に影は見えない。
真実を探求する京二郎にとって、悪い誘い文句ではなかったらしい。
「……君の興味を引く話し方ができるか、というと自信はないが。それでもいいなら」
ボクが一度うなずくと、京二郎は、何から話そうか、と切り出した。
大した話はしなかった。どこにでもある日常の延長線上の話ばかり。
ただ、いつもよりも。過ごす時間が短く感じた。
食事を終えた後も少しだけ話し込んで、それから支払いを済ませた。
「ありがとうございましたー」
ボク達を見送るイレストリアはとてもいい笑顔で、その笑顔目当てに来る人間もいてもおかしくないな、と思わせるものだった。
「おいしかったです」
「また来るよ」
手を振るイレストリアに見送られながら、喫茶店を後にした。
「キミの勧めなんで行ってみたが、十分に美味だった。また行っても……京二郎、君が持っているのは何だい?」
京二郎の手元を見ると、手の内に収まるほどの包みがあった。店に入る前には持っていなかったのだから、多分店で受け取ったものなのだろうが、その現場を見た記憶がない。
「風の魔石さ。魔術を使えない身としてはこういう誰にでも使える道具、というのは実に興味深くてね。イレストリアさんに融通してもらったんだ」
魔石、というのは内部に魔術をため込んだ魔石で、魔力を込めるイメージができる人間、つまり【伝達】魔法さえ使えれば誰にでも使うことのできる道具だ。そのほとんどが風の魔石、といったように内部にため込める魔術の名前を冠している。
魔術鉱石と違い、魔石と言うのは属性を有しているがゆえに、魔術として転用できる用途は少ない。風の魔石であれば風の魔術しか扱えない、といった風に。
そのうえ、保有できる魔力量も少ない。ゆえに、魔術を扱う者からの需要が低く、その上で鉱山からいくらでも取れるようなものでもなく、人工的な精製も難しい。そのせいで市場での流通量もほとんどない。
「その魔石、見せてもらう、と言うわけにはいかないかな」
「なんだ、魔術師の血が騒ぐのか? 別に隠すものでもないし、存分に見るといい」
京二郎が包みのヒモをほどくと、中からは指の先ほどの大きさで、きれいな緑色をした丸い鉱物が現れた。
「……なるほど、こいつは」
見たところ、不純物のほとんどない、風の魔術のみで構成された魔石に見える。自然の中で構成された魔石は多くが不純物を多く含むはずで、きれいな風の魔石、というのはあまり見ない。
「どうだい、魔術師様から見ても立派な代物かな」
「個人が所有できる魔石、としては十分すぎるぐらいだな」
大きさはそれほどでもないが、その純度はトップクラスだ。金貨で例えるなら、数千枚は必要でもおかしくない。グランブルトで言えば安酒一杯で金貨一枚、が相場。庶民に手が出せないほどではないが、趣味にしては少々大金である。
「結構貴重な代物なはずだけど、キミは何を対価にしたんだい」
「さっき言っただろう、事件を解決したって。そのお礼さ」
タダでゆずるような代物でもない。本当にどんな事件を解決したのか。少し興味も沸いてきた。
「いつか、その事件について聞かせてくれよ」
「そのうち、ね。そんなことより、昼食も食べたところだし、腹ごなしにそのあたりでも見て回ろうか」
そのあたり、と言ってもこの大通りに構える店は千を超える。適当に見て回っても飽きないほどだが、逆に言えば一日で見て回れる量ではないし、行きたいところまで回れない可能性も高い。
「それで構わないが、ちょっと魔術結晶がいくつか不足しそうでね。ついででいいからそちらに寄ってもらえると助かるよ」
「魔術結晶、と言うとアトラント側の通りだったかな」
「よく覚えてるもんだね。キミは特に魔術の素養もないのだし、あまり興味がないものだとばかり」
「適性がないだけでね、興味自体はあるのさ。善は急げと言うし、早く行こうじゃないか」
言葉の通り興味津々なのか、京二郎は先行して歩き出した。
時計を見れば13時を少し過ぎたくらい。そう焦らなくても店は逃げないというのに。
「まあ、待――――」
その背中を追おうとして、体全体に違和感を覚える。
背中が軋み、腕が凍る。
肉体を動かす、という命令は体に行き届いているはずなのに、動かない。
まるで、世界が拒否しているかのように。
世界が眩む。
視界は闇が明滅する。
耳からは無音の声が聞こえる。
肌には感触がない、という感触がする。
世界が、消えながら、存在を確かにする。
無限の時間が続いたのは一瞬。
人々が行き交うにぎやかな通りはすでに消えていた。
ぐるり、ぐるり、と、別の世界へ落ちる。
歪んだ世界で目を開くと、今までの世界とはまるで違う世界が広がっていた。
残暑が残る季節だというのに、雪が降っていた。
着こんでいるはずの布を越えて、温い風が肌を撫でる。
休日の街並みだというのに、人は誰もいない。
隆盛を誇っていたはずの大通りは、廃墟のように崩れ落ちていた。
代わりに、深く、大きな、丸い穴が開いていた。
一度踏み入れれば脱出は叶わないほどの闇で。
数百人は一度に飲み込めそうな大きさで。
自然でも、人工でも、ありえないと思わせるくらいに『完全な円』だった。
「――――」
それを前に、言葉もなく佇む探偵の姿が見えた。
悔やむ顔が印象的で。
何か声をかけようとして。
再度、目がくらむ。
「――――おい、しっかりしろ、クルビエ!」
目を開くと、見知った顔が見えた。
「京二郎、か」
見渡す風景は、喫茶店の内装だった。白い大地も、丸い大きな穴も、そして京二郎の顔が悔恨に染まっている、ということもない。
であるならば、先ほどのは現実では無かったのだろう。夢である、と片づけるには肌をなでる感触が現実そのものだったが。
「気が付いたか。意識はあるか?」
手で宙を握り、もう一度開きなおす。その動作に違和感もない。
「ああ、問題ない」
返事をしたボクを見て、安心したのか京二郎は息をついた。
「魔術で熱だって操れる君が熱中症、と言うこともないだろう。持病でもあったのか」
熱中症でも、持病でもないのは他でもないボクが確信を持っている。
しかし、大きな違和感が一つ。
「一つ、確認させてほしい。僕はついさっき倒れたんだな?」
「ああ、ここで倒れてすぐに目が覚めた。間違いない」
それは、おかしなことだ。
ボクが倒れたのは大通りのど真ん中のはず。
昼食を食べた喫茶店で倒れているはずはない。
どうしてだろう、と考えをまとめるために宙を見上げようとして、一つの疑念が浮かんだ。
「……今日の日付は」
「八月の二十四日だ」
その日付は、ボクからしても『今日』で間違いない。
記憶が飛んだ、なんてことはない。
なら、『疑念』は『確信』へと変貌する。
「倒れたのも病気なんかじゃない。ちょっと特殊な事象が起きてね」
「特殊な事象?」
理屈も、理論も、理由もない。ただ、結果だけがその『過程』を針の音とともに証明していた。
「時間遡行、という現象に巻き込まれた」
視界に入る、壁にかけられた時計の針は12時50分を示していた。
ボクが倒れる直前の時計が示していた時間は13時を過ぎていた。
本当に、わずかな時間だけ。
世界が過去へと逆行していた。




