終:さんざめく、ほうき星
いつの間にか、眠っていたようだ。
雨の音はもう聞こえない。
代わりにピアノの音がどこからか聞こえてくる。
半開きになっていたドアを開けて、右に左に、と見回す。
この屋敷ではしばらく聞かなかった美しい音色はすぐ近く、となりの作曲室から聞こえてくる。
導かれるように、私の足はその音源へと歩みを進めていた。
その部屋の扉は開いていた。
中を覗いてみれば、作曲室のピアノで探偵が一人、月明かりの元で曲を弾いていた。
そして、傍らの倒れた遺体には毛布が全体を隠すように敷かれていた。
探偵の奏でる曲は、まるでその遺体に聞かせるようだった。
死者へ送るはずのその曲は、悲壮さは無かった。けれど今生の別れを惜しむように音一つ一つが尾を引いていた。
弾き終わったのか、あるいは入ってきた私に気が付いたのか。その演奏は盛り上がりの部分の手前で一度中断された。
せっかくの演奏に何も無い、というのもどうかと想い、心ばかりの拍手を送っておいた。
「ピアノ、お上手ね」
「エスティアさんのような本業の歌手に言ってもらえるとは光栄です」
探偵の自然な笑みは少し固くなっていた心をほぐしてくれるような気がした。
「本業にも劣らないんじゃないかしら」
「世辞として受け取っておきます」
「本音のつもりよ?」
私がどれだけ言っても、探偵はそれを真に受けるつもりはないらしい。私としては、今の曲を伴奏に一つ歌っても良い、と思えるくらいだったのに。
「それよりも、体調のほうはどうでしょうか」
「十分よ。しばらく寝ていたからかしらね」
「それはよかった」
他人にただただ心配される、というのは新鮮で、少し浮つかない気分になる。これが仕事相手とか、昔からの家のつながりの相手なんて、魂胆が見えているから分かりやすい。あるいは、いつも共にいる心配性の執事であれば大して気にもならないのに。
「そういえば、セリスは? 紅茶でも入れに行ったのかしら」
棚の近くの背もたれの無い椅子に腰掛け、辺りを見回すが執事の姿はない。
そして、目の前の彼からの返事もない。
「私、結構貴方はおしゃべりだと思ってたんだけど、どうしてなにも言ってくれないのかしら」
たっぷり四拍ほど。静寂が辺りを包んでから、彼の口が開いた。
「……セリスさんは今、地下牢にいます」
「地下牢?地下牢って、この屋敷の地下牢で間違いないのね?」
「ええ。警察が来るまで一夜をそこで明かす、と」
一瞬だけ何を言っているのか分からなかった。何を意図しているかを理解したとき、ぐらり、と世界が揺らぐ感覚がした。椅子に腰掛けていて良かった。立ったままそんな話を聞けばまた倒れていてもおかしくない。
深呼吸を一つ。視界が戻ってくる。
深呼吸を二つ。思考を戻す。
最後にもう一度。それで乾ききった喉に声が通る。
「そう。セリスが犯人だったの」
声に出せば、腑に落ちたような感覚もする。どこかで、彼を疑っていたからか。思い返せば、いつも通りの彼ではなかった気がする。
「ええ。自分のようなものがのうのうと出歩くわけには行かない、と自分からお入りに。しかし、否定されるかと思いましたが」
「そう考えると、色々納得がいくというだけよ」
「少々刺激が強いかと思いましたが、意外と落ち着いておられますね」
「ええ。これでも貴族の娘ですから、少しくらい驚いた程度で動揺なんてしませんよ」
ただ、己の声の震えまで閉じ込められたかは自信はない。探偵は気づいていないのか知らないふりをしているのか、私の言葉にはそうですか、と返事をしただけだった。
「セリスさんは貴女が幼少の頃からこの家に仕えていたのでしたね」
「それどころか、私が生まれる前から、お母様の家に仕えていたのよ。それだけになるんだから、様子がおかしいことくらい分かってたけど」
けれど、そこまでだった。
「初めてセリスに会った貴方はこんなにも早く彼の罪を暴いたのに、私は何も分からなかった」
「それはエスティアさんだけには悟られまいとした彼の努力の結果でしょう。あなたが気に病む必要はありません」
「そう。そういう考え方もあるのね」
心の整理がついていないのか。
探偵への返事もおざなりな物になってしまう。
「一つ、気になっていたことがあります」
探偵が一枚の楽譜を手に取りながら語りかけてきた。
「何かしら」
「この楽譜をなぜアンガスタさんは最後まで演奏していたのでしょうか」
「お父様は、とてもゆがんではいたけれど。それでもお母様を愛していたのよ」
「どういうことでしょうか」
「あなたもこの楽譜を見たのなら、分かっているんじゃないかしら」
ピアノのそばまで歩み寄って、彼が演奏していた楽譜を手に取る。楽譜の最後に書き直したであろう三日前の日付とお父様、お母様の名前。
探偵の返事は無い。肯定も、否定も、彼の言葉と相反するところがあるからだろうか。
「この楽譜は、お母様が死ぬ間際に残した詩をお父様が作曲して、歌にしたものよ」
「二人の感情がこめられた合作なのに寂しい曲だとは思いましたが、そういう事情がありましたか」
「お母様は自分の詩が後世まで残ればいい、と言って。それを真に受けてしまうほど、お父様は不器用だっただけなの」
お母様が死んだ一年も後に、ようやくその曲が完成した。最後に娘に完璧に歌わせることで完成するなんて、妙にロマンチストなことを言っていた。
「それで伴奏はピアノだけなんですね。アンガスタさん一人で演奏できるように。彼一人で後世に弾き継げるように」
そんな感傷に浸っていると。目の前の探偵が的外れなことを言ってきた。
「そんなわけ無いじゃない。お父様の片腕はもう現役を離れて久しいし、そもそも戦争時代の後遺症で麻痺は残って演奏者としてはダメダメよ」
たとえ他の誰が許しても、音楽家アンガスタ=ポライソンにそんな妥協はない。
血を受け継ぎ、熱意を見て、遺された楽譜を知っているからこそ、そんなことはないのだと、断言できる。
「そして、お父様がそんな楽器一つの曲を作るところなんて見たことないし」
「でもほら、実際にその曲はピアノだけの曲でしょう」
探偵に言われて、綴じてすらいない楽譜の束を上からめくる。
「……違う。私が練習用に使ったオーケストラのピアノとはまるで違う」
私が使っていたのは、オーケストラで演奏されたものを録音したものだったけれど、少なくともピアノがこんな主旋律を演奏なんてしていなかった。ピアノだけであの曲を演奏するように、上から下まで改変されている。
「勝手な予想になりますが。おそらく、アンガスタさんはこの曲を後世まで残すためにオーケストラ用の楽団なんかでよく使われるものを一つ。家族だけで演奏できるようにピアノだけで構成したものを一つ。用意したのではないでしょうか」
「いいえ」
その探偵の予想はどうも、ズレているように思う。
あくまで探偵の予想。
アンガスタ=ポライソンの意思を汲んだものとは違う。
「いいえ。お父様はそのような妥協はしないわ」
「妥協? 演奏してみても良い曲だと思いましたが」
「だって、お父様が演奏するなら右腕が動かない前提なんだから、その分作曲に制限が出る。そんなの、作曲家のアンガスタ=ポライソンも許さなかったわ」
以前、気に入らない作曲の条件を持ちかけられたときに、企画書どころか契約書まで担当の人間の前で破り捨てていたのを見たことがある。
それに、この曲がそんな制限のかかった曲には見えない。静かなのに躍動感のある曲なんだから、手先は最大限に滑らかに動かないといけない。
「なら、作曲は思う存分やって、演奏は多少悪くてもあきらめる、とか」
「まさか。作曲家としてプライドのかたまりみたいな人間がそんな音楽を認めるとは思えないわ」
「それはそうでしょうね」
……どうして、分からないんだろう。当事者である私にも、今回の事件を解決したこの探偵にも。
そういえば、一つ気になっていたことがある。
大した疑問でも、気にする必要も、そして今まで気にする余裕も無かったけど。
その疑問は、解けたかもしれない。
「ねぇ、探偵さん」
「……なんでしょうか」
「いくつか質問よろしいかしら?」
「もちろん、構いませんとも」
探偵は、なぜかうれしそうに笑っている。私も、謎が紐解けるような感覚をなぜか喜ばしく感じる。
一度に解答を導こうとするのではなく、少しずつ答えを探すことで、真相へとたどり着けるような気がする。
「気になったことその一。どうしてお父様の右腕がしびれていることを知っていたのに、貴方はこの楽譜がお父様が演奏するために作られたと思ったのかしら」
「さきほど、失礼ながら予定帳を拝見しまして。医者に見てもらうことが最近増えていたようですから、演奏のために腕の回復を努力しているのだろう、と思いまして」
「それなら演奏者としての回復は難しい、ということもわかっていたんでしょう?」
「それでも、妥協して演奏するかもしれないでしょう?」
そんなあいまいな予想で、この探偵はあんな具体的で、かつ的外れな絵を描くだろうか。おそらく、私とは違うお父様の情報を持っていて、それで誤解していたのではないだろうか。
あるいは、それ自体は誤解ではなかったのか。
「もしかして、あなたは以前にお父様とすでにこの楽譜の話をしたことがあったんじゃないかしら」
探偵は微笑むだけで何も答えなかった。
否定しない以上、肯定と受け取っても構わないだろう。
「気になったことその二。あなたがさっき演奏していた曲は、この楽譜の曲で間違いないわね?」
「改めて聞かずとも、聞いていた貴方なら確信があるでしょう?」
「ええ。私が散々練習した曲をピアノの独奏にアレンジしたもの。でもこれは完成したのが三日前なのに、どうしてあなたはそんなにもきれいに弾けるのかしら。まるで、以前から弾く機会があったみたい」
「もしかしたら、そうだったかもしれません」
ごまかすのが下手なのか、それともそんな気さらさらないのか。どちらにせよ、この返事は肯定と受け取っていいだろう。
そして、次の質問こそがずっと気になっていた疑問である。
「最後に三つ目。どうしてあなたはこんな風雨の日に、この家に迷い込んできたのでしょう?」
「迷子ですよ、迷子」
「もし、晴れた日に同じことを言って迷った人が居ても、セリスはきっと近くの街の道を教えるだけで、家の中で暖をとらせよう、なんて考えないでしょう」
「まあ、確かに。そういう意味では悪天候にも助けられましたか」
「そんな風雨の日を狙って迷子、というよりは元々用があってこの屋敷に近づいた、と考えた方が今までの疑問とあわせて、色々つじつまが合いそうね」
ぱちぱちぱち、と探偵から小さな拍手が送られてきた。
「素晴らしい推理です。では最後に私からも質問をしましょう。そんな貴方の推理する、私は一体何者でしょうか?」
お父様とお母様の楽曲のピアノのみを伴奏にしたものを知っており、その曲の演奏技術が達者である。
そしてお父様が腕を故障しているにもかかわらず、その曲を演奏しようとしていたのだと思っていた。
最後に、雨を利用しないとこの屋敷に入れないような部外者。
「貴方の正体はお父様が演奏家としての助言を求めていた無名の演奏家。そんなところかしら」
「その通りです。無論、探偵という肩書も偽りではありませんが、この家に来た私は一介の無名の演奏家と言うべきでしょう」
「でもどうして今日来なければならなかったのかは分からないわ」
「どうも、音楽界の人間に私とのつながりがあると思われたくなかったらしく、連絡手段が限られていたんです。しかし本番が来週というのに三日ほど前から急にその限られた連絡すら取れなかったので直接会うためにこんな方法をとったわけです」
三日ほど前から急に連絡が取れなくなった、というのはちょうどこちらの家に来てからだ。
お父様は自分が誰かに教えを請っている、なんて噂が広まることは避けたかったが、自分には演奏できないこの曲を正確に演奏できる技術を求めていた。
そこで無名の、あるいは音楽界にかかわりの無い、この探偵のような演奏者に自分の理想の演奏を教授し、理想の曲を演奏させようとしていたのではないだろうか。
そして、探偵の言う本番という来週は母がなくなって一年。
なら、この曲は、アンガスタ=ポライソンが演奏するために作られたのではなく。
この探偵によって演奏されるべき曲だったのだ。
「ねぇ、探偵さん」
「なんでしょうか、エスティアさん」
「せっかく練習したのなら、今ここで父に捧げる曲として一曲引いてくださらないかしら」
「元々その予定でした。どうか、ご清聴ください」
流れる音は水のように清らかで。
清聴なんてするつもりは無く、伴奏にして歌としてお父様に捧げようと思っていたのに。
喉からは言葉にならないモノしか出なかった。
代わりに、私の嗚咽を洗い流すように、淀みの無い演奏が心へと染み入ってきた。
その演奏は、私の涙が止まるまで、ずっと。