第六話:風は語る
「真実、というのは犯人が分かった、ということでしょうか」
声が震えていなかったか。そんな自信はない。
「ええ。セリスさんが犯人であるに違いない、と確信しております」
青年の言葉は、彼の瞳を見れば予想はたやすかった。
だが、確信に至る要素などあっただろうか。
「どうして、私が犯人などと?」
「まずは、今回の犯人像を辿りましょう。まずは動機ですが、一切部屋が荒らされていないところから、私怨によるものと推測されます。それも極めて限定的な、人間関係によるものでしょう」
「極めて限定的な、というのはどういう意味でしょうか」
「楽譜が盗まれていなかったでしょう。犯人にとって稀代の音楽家の楽譜に価値はなかったのです。まして、作曲室ですから、その中には未発表の名作、あるいはそのアイデアくらいは眠っていてもおかしくありませんが、この部屋は全くと言っていいほど荒らされていなかった」
「殺人の後に盗みを働く、なんて余裕がなかったかもしれないでしょう?」
「人間関係のもつれ、なんてところならそれでもおかしくありません。しかし、彼の持つうらみつらみで多くを占めているのは、彼自身の音楽の功績、あるいは名誉でしょう」
稀代の音楽家であるアンガスタ=ポライソン。
確かに、今回の犯行はそのうらみつらみを持つ人間は数多くいるだろう、と推測してのことだった。
「ですが、アンガスタさんへの才能の嫉妬で犯行が行われたのなら、その才能の結晶である未発表の楽譜に興味を覚えないはずはない。少なくとも、私であればそのすべてを持っていきます」
「今日は雨も強い。外を走って逃げるのであれば、そう多くは持てませんし、あきらめたのでしょう」
「数枚の紙束を懐に差し込むくらいはたやすい。まして、ピアノの上の手書きの楽譜に少しでも目を通せば、つい持ち出したくなるはずです」
青年の言葉に、どれだけの正当性があるのかは私には理解できない。
なぜなら。
「ですが、それは音楽にある程度以上の知識がある者の話。音楽に未習熟な、例えばピアノの『調律』を『修理』、と言ってしまうような方なら、考えることすらしないかもしれませんが」
探偵は凶器であるハンマーをつまむと、ぷらぷらと揺らし始めた。
「これ、チューニングハンマーといいましてね。ま、ピアノのある部屋にあったハンマーで、ピアノに打ちつけてる物をこれだと思わない人はよほど音楽を知らない人間でしょう」
「ですが、あくまで限定的になった、という程度ではありませんか」
「ええ。もしかすれば、音楽に因らず、人間関係のもつれで殺害に至る動機をもつ人間が外部にもいるかもしれません。ただ、女性関係もなく、そして音楽を介して交友関係を広げていったであろうアンガスタさんに、そんな限定的な人間はそうはいないでしょうけれど」
青年はことり、と凶器のハンマーをおろした。
「そんな余裕はなかったかもしれないでしょう?」
「手帳を胸ポケットにしまいなおし、さらにわざわざ出て行く窓を閉める慎重さはあるのに、ですか。せめて、燃やすなり奪うなりで偽装工作の一つもしそうですがね」
凶器を置いた後、青年は遺体の内ポケットの手帳を取り出した。
「それにもう一つ。セリスさんはどうやって字を書きますか?」
ずいぶん、とぼけた質問だ。
「どうやって? それは手で持って書くんでしょう。まさか口では書きませんよ」
「どちらの手で?」
「右手でしょう」
「右利きの方はみんなそう言うでしょう。しかし、左利きの方は左手に持ちます」
回りくどい言い回しだ、と感じた。そこまで言われて机の上を見れば、ペンは椅子から見て左手に置かれている。
「つまり、旦那様が左利きであった、といいたいわけですね」
「ええ。それは間違いありませんか?」
「それは、まあ。旦那様との付き合いも長かったですから、左手で食事をするところは何度も見ております」
「そうでしょうね。では、なぜ左利きのアンガスタさんの右胸に手帳が入っていたのでしょうか」
「え?」
青年は右手を左の内ポケットへ滑り込ませ、手帳を取り出した。
「左利きの彼は左手にペンを持つのですから、右手に手帳を持つでしょう。なら、その右手で取りやすい左胸に手帳を入れたくなるはずです」
「……つまり、犯人は右利きと推測するわけですね」
「そうです。そして、なぜ手帳の位置が別のところにあったのでしょうか」
「犯人が手帳を抜き取って近日の予定を破いたときに入れ間違えたんじゃないでしょうか」
「その可能性は低いでしょう。なんせ同じところから抜いて同じところに入れるだけです。うつぶせの死体でわざわざ逆側に入れる、というのは少々難しい。……おそらく、殺される直前に予定帳を袖から出しながら犯人と会話していたのではないでしょうか」
「……」
「そして、殺された時に落ちてしまった手帳を、そのまま遺体の懐にしまったのなら。右利きの犯人が手癖で自分と同じ位置に手帳をしまってもおかしくありません」
実際にその通りであったので何もいえないが、手帳の位置一つでそこまで分かるものなのか。
「そして、アンガスタさんが手帳を開きながら背を向けられる人物というのはある程度絞られるでしょう。背を向けながらでも話せる相手ですから、例えば気の置けない友人、あるいは親しい家族や親戚、あるいは――」
「あるいは私のような従者」
「その通り」
「……もしかしたら単に背を向けながら手帳をしまっていただけかもしれません。仕事の関係者だって、機嫌を損ねて背を向けることもあるでしょう。親しい人間が犯人である、なんて決め付けるのは早計でしょう」
私の目の前で、青年は少しずつ、私の罪を抉ろうとしてくる。
だが、大事な点を青年は見過ごしている。
「それに、私たちは旦那様の倒れた時間、夕食を囲んでいました。それはあなたも証人になるはずです」
「そうですね。最初はそこが一番気になっていたんです」
青年は立ち上がると楽譜の並んだ棚へと近づきながら、話を続ける。
「正確に言えば私たちが駆けつけたとき、30分ほど前に死んだと推測されるアンガスタさんの遺体が見つかり、そして犯行が推測される時間我々は夕食を食べていた。こうなります」
「何か違いがあるのですか?」
「ええ、少しだけ。私、いえセリスさんも、アンガスタさんの死亡時刻は何によって確認したでしょうか」
「私は魔力の保存量。あなたは……目と肌の腐敗の状態でしたか」
「方法の問題ではないのです。理論、理屈、理由。そちらが問題になります」
「……正直、言いたいことがつかめませんが」
「つまり、私たちの根拠にした死亡時刻の推定は遺体がどれだけ死んでから放置されていたかを理由にしています。いえ、もっと寄せて言ってしまいましょう。遺体の『鮮度』を魔力であれ、科学であれ、計っていたのです。それならば、遺体の『鮮度』を保つ方法があれば何時間前に殺人が行われても、30分前に死んだと推測される遺体が見つけられるわけです」
探偵はとんとん、と花瓶を叩く。花瓶には、正確にはその中の花には私がかけたある魔法がかかっている。
「例えば、【保存】の魔法とか」
見抜かれている。確たる証拠となる魔法陣も魔法の痕も残っていない。
だが、この青年は【保存】の魔術が使われたのだと、状況からの推理のみで確信に至っている。
「……万が一、【保存】の魔法が使われていたなら、魔素の喪失も、身体の腐敗の進行速度も止まるでしょう」
あえて、嘘を言うこともない。そんなあがきは無意味だろう、と分かりきっているからだ。
「加えて、アンガスタさんは朝から私たちが彼を呼ぶまでこの部屋から出なくとも不審がられませんから、この部屋に居るアンガスタさんが生きていても死んでいても誰も中を見ないでしょう」
「推測に過ぎないでしょう。そういうことも可能性としてあっただけです」
「いやに否定的ですね。外部犯説を唱えるときはあんなに考えてくれたのに」
「誰だって自分が疑われればそうもなります。それで、私に犯行が可能だったとして、それで犯人ということにはならないでしょう」
「最後にもう一つ、限りなく貴方が犯人に近い、と考えられる証拠があります」
「もったいぶらずに言ってしまってください」
「その前に確認をしておきましょう」
青年は花瓶に入った花を指差した。
「セリスさんに【保存】してもらった花ですが、一時間や二時間放っておいたしおれ具合ではありません。あのしおれ具合からして、しばらく時間が経過しているでしょう。おそらくは半日、少なくとも四、五時間は経過しているはずです」
「そうでしょうね。それは間違いないかと」
「そして、その時間は大体エスティアさんのレッスン時間とかぶりますね」
「大体、というには大雑把な指定ですが、重なっている時間もあるでしょう。それが何か?」
「いや、私の予想なんですが、この花瓶から水が消えて、しおれ始めた時間と犯行時刻は一致していると思うんですよ」
「それはなぜでしょうか」
「その考えの理由の一つがこちら」
青年はポケットから葉の入った透明な袋を取り出す。
「先ほどセリスさんは外からこの葉が入ってきたんじゃないか、といいましたが、普通はこう考えます。花瓶の花と同じ葉があるならその葉が落ちてきたんじゃないか、と」
「あまりに遠いでしょう。ピアノの窓際の脚から花瓶のあった棚まで、部屋の端から端まで葉が舞うでしょうか」
「たしかに、空中を舞うのは難しいですが、水中なら難しくないでしょう」
青年は花瓶を傾け、その中身を見せてきた。
「ほら、すでに葉が一枚花瓶の中に落ちています。これは犯行後に茎からもう一枚葉が落ちてしまったのでしょう。犯行前に水が満ちていた、とすれば、後はその葉が窓際に落ちていた理由もわかります。窓を開けずに、窓が開いて雨が入ってきたかのような偽装をするために花瓶の水を窓際に撒いたんです」
青年は花瓶を持ったままピアノのほうへ近づき、その様子を再現するかのように花を手に持ち、花瓶の水を撒くような動作をする。まるで、自分が行っていた動作をトレースされているようだ。
「一応聞きましょう。そのようなまどろっこしいことをした理由はなんでしょうか?」
「万が一にも隣室のエスティアさんに窓の音を聞かれるわけには行かなかったからです。ほかの生活音なら窓もドアも閉まっている状態であれば防音は完璧と言っていましたから、聞こえる事はないのでしょう」
「ですが、お嬢様の部屋の方も防音は完璧です。わざわざそんな気遣いをする理由がありません」
「しかし、窓が開いていれば防音の効果はなくなりますし、こんな悪天候の外の音が聞こえればその時刻に犯行が行われたことは明白です。ここまで慎重な貴方としてはリスクを負いたくなかった。違いますか?」
「それは仮に私が犯人だった場合です。まだ外部犯の可能性のほうが自然でしょう」
「最後に一つ。外部犯ではない、という証拠があります」
青年は花を花瓶に戻すと、また棚へと戻した。
「それは、また私の犯行の可能性を示唆するものですか? そうであれば――」
「違いますよ。貴方以外、正確には貴方とエスティアさん以外に犯行は不可能であったであろう証拠です」
かつかつかつ、と青年の靴が音を鳴らしながら部屋を横切っていく。
「そこまで言うならよほどのものなんでしょうか」
「ええ。こちらがその証拠になります」
青年は窓際に立つと、両手を窓にあてて、思い切り押し開けた。代わりに外から、雨が押し込んできた。
同時に、部屋の中は風が吹き荒れた。
そして、部屋にはいくつもの白い楽譜が舞っていた。
ばたん、と大きな音がして窓を閉められた。
窓が閉められると同時、舞い上がった楽譜はひらひらと地に落ちていった。
そのうちの一枚を青年は手に取り、こちらに見せつけた。
「お分かりですね。その楽譜が置かれていた以上、この風雨がきた朝から今に至るまで、この窓を開ければ、窓際に置かれていたピアノ。その上に無造作に置かれたこの楽譜は風に飛ばされなくてはならない」
返す言葉も無かった。なぜ、気づかなかったのか。雨が入ってくることしか頭に無かったからか。
「しかし、楽譜はピアノで鎮座していました。つまり、窓は開けられてはいなかった。そうなるとこの部屋に出入りするにはドアから入るしかありません」
そうなれば、自然と犯行を行えた人物は絞られる。
「そうなった場合、部屋から出る際にはアンガスタさん、エスティアさん、セリスさんの誰かの鍵が必要です。そして、アンガスタさんの鍵がこの部屋の中にあった以上、容疑者はお二人しか残っていませんでした」
どうしようもなく、正しい。その言葉に反論する余地はないし、自分が犯人ではない証拠はどこにも無い。
「ですが、ほかにも可能性は残っていませんか。例えば――」
お嬢様の名前を出そうとして、踏みとどまった。
最後の最後で、そんなことを言うわけにはいかないと、どこかためらったのかもしれない。
青年は、私の言葉に顔をそむけた。
「共犯ではない、という確信はありました。そうだった場合、私に知らせずにもっと完璧なアリバイを作れるでしょう。例えばパーティの最中に発見時間を遅らせられれば、犯人の候補もずいぶんと広がるでしょう。そもそも、行方不明として山の中にでも捨ててくればいい」
そもそも、この探偵にわざわざ遺体の存在を知らせる理由がない。
「そしてエスティアさんは左利きで、水を扱う魔法が使えて、楽譜の価値を理解している。今回の犯人像とエスティアさんは大きく違いますし、そしてセリスさんには酷似している」
「それは、あくまでも推測でしょう。犯行の時にあえて自分とは違う手癖で犯行を行ったかもしれない」
「エスティアお嬢様が犯人かもしれない、ということでしょうか」
それは、言えない。
そんなことを言ってしまえば。
「――――本当に、何もかも見透かしたようですね」
「何もかも、というわけには参りません」
青年は大きく首を振った。
「例えば、あなたがなぜ今回の犯行に至ったのか。そんなことすら分かっていませんから」
「犯行の動機、ですか」
「ええ。もし差し支えなければ教えていただきたい」
どこからどこまで話したものだろうか。
「簡単に言えば、復讐でしょうか」
「というと?」
「旦那様は元から音楽に生きる人でしたが、それでも他人を省みない人ではなかったのです。しかし奥様が亡くなる少し前でしょうか。旦那様は変わられました。家族への愛はなくなり、仕事一辺倒に。それは奥様が死んでも変わらず、奥様への墓参りなどついぞ一度も行っておられません」
「ちなみに、奥様の死因は」
「はやり病とのことでしたが、医者曰く過労による身体の抵抗力の低下も大きな要因だろう、とのことでした」
「過労、ですか」
「何らかの形で奥様を作曲に一日中つき合わせるようになったのです。奥様は以前から身体が弱く、その過労で病にかかり、倒れてしまいそのまま亡くなったのです。そして来週で死後一年になりますが何の式を開くつもりも無かったようです」
「……」
「私は奥様に長く仕えた身です。その死が無残なものであることに耐えられなかった。この部屋を見てももう奥様のものはただの一つもありません。愛情の果てに死ぬのではなく、路傍の石のように打ち捨てられ、愛したはずの男の中ではすでに風化していく。そんなことに私は耐えられなかったのです」
自分でも、間違った感情だとは理解しているが、くすぶり続けたこの想いは最後にこのような形で爆発してしまった。
「それに、お嬢様のこともありました」
「エスティアさんですか」
「彼女が手や足を覆うような服装をしているのはお気づきでしょう?」
「まあ、これでも探偵の端くれです。食事中に絹の手袋をはずさないような方の事情は想像できます」
絹の手袋はよく滑る。食器を持つのにはふさわしくないが、お嬢様にとってはそれ以上に素肌を見せる方が問題だった。
「今回で言えばアンガスタさんから受けた傷を隠していた、とか」
「本当に、よく見ておられる。彼女がこれ以上傷つけられて奥様の後追いをされないように、という願いもあったのかもしれません」
私が言いたいことを言い終わり、青年のほうを見ると彼はこちらを強く見つめていた。
「それは、エスティアお嬢様のためにこの殺人を行った。そう解釈してもよろしいですか」
「まあ、そういう側面もあった、というだけです」
「……本当に?」
青年の瞳は悲しげに、こちらを見つめている。
「どうして、そんなことをお聞きになるのですか?」
「重要なことです。殺人者にとって殺人にいたる動機のみが、殺人を肯定します。そして、裁判において、あなたの罪を裁くときに、あなたを守る盾になる。そして、あなたは今の言葉を果たして裁判で言うおつもりでしょうか」
「……」
もしも、そんなことを言われなかったのなら。青年の言ったとおり裁判でも今の言葉をそのまま動機として言っていただろう。
「あなたはお嬢様を盾として扱うおつもりでしょうか。例えば、この事件のアリバイ作りのように。例えば、あなたが最後にお嬢様が犯人かもしれないと言い逃れしそうになったように」
あるいは、今の動機でお嬢様を理由にしてしまったように。
そんなつもりはなかった。
けれど、いつの間にか自己の保身のために、お嬢様の未来を憂う気持ちと自身の都合が反転していた。
「……まさか。こんなことは口が裂けても言うべきではなかった」
本当にお嬢様のことを想うのなら。
せめて、この罪は全て私が背負わなくてはならなかった。
「礼を言いましょう。あなたは最後に、私の矜持を守ることを許してくれた」
「私はただ、父の死を悲しむ女性に要らぬ罪悪感を背負わせなくなかっただけです」
微笑む青年の姿を見て、最後の一線だけは留まれたような気がした。
「……この後はどうしますか。最後にお嬢様との別れの言葉を交わしますか?」
「いいえ。殺人者がこれ以上のうのうとしているわけにも行きませんし、お嬢様にあわせる顔もありません」
「では、どうなされるおつもりで?」
「地下にちょうど最近使われていなかった懲罰房がありますから、そちらまで来ていただけますか。私は警察が来るまで、そちらで一夜を明かそうと思います」
青年がうなずいたのを見て、私は居間の奥にある地下へと歩き出した。