第四話:死者に音は残らず
音楽室を開く。鍵はかかっていた。中の様子は変わりなく、男の死体が一つ。
私は予定通りラウンジの二人へ届く声を上げる。
「旦那様、旦那様! しっかりしてください!」
遠くから、ドアを叩きつけるような音がした後、誰かの足音が駆けて来る。お嬢様にしては足が早い。そう考えると、この足音はあの青年のものだろう。
「どうされました!」
ほどなくして、青年が血相を変えて駆け込んできた。
「旦那様が、息を……」
「落ち着いてください。まずは現状を教え……」
青年が倒れた男を見た途端、言葉が途切れた。彼は倒れた男のそばに駆け寄ると、その身体を触り始めた。
「失礼します。……瞳孔が開ききっていますし、脈も取れません。すでに死んでいます。それもつい先ほど」
「そんな……。どうしてこんなことに……?」
「あと、30分だけでも早く気がついていれば……!」
青年は無表情ながらも、右手を強く握り締めていた。
「セリス、一体何事!」
その背後から、息を切らせたお嬢様の声と、足音が聞こえてくる。
「返事をしなさい! セリス、お父様に一体何……が……」
近くまで来たお嬢様の声もまた、部屋に入ってきたところで途切れてしまった。
どさり、とひざをつく音がする。
お嬢様にこの死体を発見させるにしてもやり方はあったかもしれないが、あのような話題で無理に止めるのも不自然だった。仕方が無い。
お嬢様の方を見れば、ひざをつき、ただただ涙をあふれさせている。そして、お嬢様の今にも倒れそうな身体を青年が支えている。
「……セリスさん、まずはエスティアさんを休めるところまで運びましょう」
「そうですね、まずは寝室まで……いえ、隣の部屋にソファがあります。そちらを使いましょう」
私がお嬢様の元まで近づいて提案するも、お嬢様は首を振った。
「先に、やらないといけないことがあるわ」
お嬢様の声は震えている。けれど、これだけは言わなければ、という決意を感じる。
「なんにせよ、少し休まれてからでもかまわないでしょう」
お嬢様は青年の気遣いにも首を振る。
「これは、殺人事件よ。犯人が逃げる前に一刻も早く、警察に連絡なさい!」
耐え切れない感情が、少しだけ涙として流れても、それでもお嬢様は気丈に振舞う。無用の気遣いはいらないだろう。
「わかりました。では探偵さん、お嬢様をお任せしてもよろしいですか?」
「いや、少し待ってください。セリスさん、こちらへ」
青年がお嬢様を廊下の壁にもたれかけさせた後、部屋の中を指差す。こちらへ来い、ということだろう。
中に入ると、青年は少しかがんで、外のお嬢様に聞こえない程度の小さな声で話しかけてきた。
「セリスさん、エスティアさんをお願いします。警察には以前一度協力した恩がありますから、伝話は私のほうが適任だと思いますよ」
「しかし、それなら私のほうにも一名、知り合いがいますよ」
「なに、現場を見慣れた人間の方が説明はしやすいものです。……それに、エスティアさんのそばに居るのは長年お世話してきたセリスさんのほうがいい」
青年がそれでいい、というのであれば特に反対する理由も無い。
「それなら、お願いします。『伝話』はラウンジにありますから、そちらからかけてください」
青年はうなずくと、駆け足でラウンジの方へと向かっていった。
お嬢様の方は、顔は青く、息も荒く、涙は止まらない。顔つきからしてももう限界だろう。
「お嬢様、失礼します」
普段であれば了解の一つも取るが、今はその一言を言うのも辛いだろう。有無を言わせず、抱き上げ、隣の部屋へとお連れすることにした。
「どうして、悪い事は続くのでしょう」
ソファに寝かせてから、お嬢様がポツリとつぶやいた。
「良いものも、悪いものも、偶然とは重なるものです」
「……セリスは、あの探偵さんが犯人だとおもう? こんな雨の日に、こんな偶然やってくるなんて。ありえるのかしら」
「彼は旦那様を手にかけた犯人ではないでしょう」
「……そう。根拠はあるのかしら」
「お嬢様も分かっておられるでしょう。旦那様はつい先ほどお亡くなりになり、そしてその間我々と共に食事をしていたのです。これ以上の証拠はあるでしょうか」
「……そう? それ以上にあの探偵さんを信用しているようにも見えるわ」
犯人などここにいる。それが安心感につながって、お嬢様には彼への信用に見えてしまっているのだろうか。
「彼の人柄を信用してのことです」
決して、この言葉は真実ではなかった。けれど、お嬢様は安心したように微笑んでくれた。
「そうね、私も、あの探偵を疑っていたわけではないけど。どうしても口に出てしまったみたい。ごめんなさい」
「いいえ。お気になさらないでください」
お嬢様は一度涙をぬぐった。
「ねぇ、セリス」
「なんでしょうか、お嬢様」
「あなたはいつでも落ち着いているけど」
「そのようなつもりはございませんが」
「いいえ、どんなときでも落ち着いているわ。でも、どうしてさっきはあんなに動揺していたのかしら。いつもなら、真っ先に私のことを一番に助けてくれるのに」
普段のお嬢様であれば、そんなことは言わなかっただろう。
怒っている、わけではないのだろう。けれど、行き場の無い感情があふれているように見える。
「……ごめんなさい、気が立ってたみたい。忘れてちょうだい」
「いえ。あなたにそのような思いをさせた私がいけなかったのです」
「……あなたは、いつもどおりだったわ。ほら、探偵さんが来たみたい。私も、貴方の主としてしっかりしないと」
その姿はすでに、今までどおりのお嬢様の姿だった。
「グランブルトの警察曰く、今は土砂崩れがひどく、こちらの方にこれないようです。明日の朝になればなんとか、というところだとか」
青年の言葉を聞いて、お嬢様がこちらに目線を向ける。その言葉が真実かどうか、私の意見も聞きたい、ということだろう。
「今日の昼ごろ、警察の友人から電話がありました。そのときから土砂崩れの傾向はあったようです。この天気が昼から続いていたのですから、道がふさがるような事態でもおかしくないでしょう」
私が青年の言葉に補足をすると、彼は不思議そうな顔をした。
「少し、お聞きしたいことがあります」
「それは……」
さすがに酷である。そう言おうとして、白い絹の手袋が私の前を横切った。
「いいわよ、別に。話してるほうが気がまぎれそうだし」
私が答えるまでも無く、お嬢様が青年の質問を許可した。
「まず一つ目。土砂崩れが分かっていたのにこの屋敷にとどまっておられたのですか?」
「ええ。そろそろ私は公演が近いし、お父様は納期が近い。だからこの屋敷にこもる事にしたのよ。このお屋敷、周りに人もいないし、静かでいろいろ集中しやすいのよ」
「お父様のお仕事は作曲家というのは先ほどお聞きしましたが、公演というのは初耳です。エスティアさんは劇団員か何かで?」
「いいえ、歌手よ。これでもエスティア・ポライソンって有名だと自負していたのだけれど、ご存じないかしら」
青年は首を横に振った。
「この街に来てから日が浅いもので。次はいつコンサートのご予定でしょうか? 都合が空き次第伺ってみます」
「さあ、ね。本来は三日後だけど……お父様が主催だったからどうなるのかわからないわ。ごめんなさいね」
お嬢様の表情がさらに沈んだのを見て、青年は頭を下げた。
「……いえ、こちらこそ失礼しました。では、普段から公演前、あるいはお父様の仕事の都合でこちらにこもる事はあったのですね?」
「そうなるわ。何日かスケジュールを開けて調整する必要があるから、あまり頻繁には来れなかったけど」
「なるほど。お父様は有名人ということですし、他人でも確認できそうですね」
「大まかな日取りくらいなら確認できると思うわ。だから、誰がお父様がこの家にいる事を知っていてもおかしくない」
青年の疑問にはきはきと答えるお嬢様は、すでに先ほどのような弱さは無い。いつもよりも表情は暗いし、声も小さいが、それでも気丈に振舞っている。
「もう一つ、お聞きします。屋敷の構造についてです」
「どうぞ」
「こちらの音楽室の防音というのはしっかりしていますか?」
「それはもう。お父様の作曲室も私の練習室も窓を閉め切っていれば音一つ漏れないでしょうね」
「なら、犯行時の音は聞こえませんか。では、窓を開ける音は?」
「……どうかしら。この雨だし、ラウンジにいたら聞こえないかもしれないわ。玄関の方がこの部屋よりもラウンジには近いけど、それでも貴方の声は聞こえるかどうか、というくらいだったから」
「どのあたりまでなら聞こえる、と思われますか」
「さあ、ラウンジからあなたのノックの音が聞こえたから……セリスの部屋あたりか、居間にでもいれば聞こえたかしら」
「ちなみに、セリスさんの部屋というのは?」
「この部屋のすぐ上よ。この雨と風だし、窓を開ければその音が聞こえてくると思うわ。まあ、セリスがその部屋に居たのは私が練習してる間だから四時間以上前だけど」
「ちなみに、セリスさんが部屋に居たころそのような音は聞こえましたか? もしかしたら早い時間から入って犯行時刻まで待ち伏せしていたかもしれません」
外部犯というのなら、その可能性も考慮すべきだろう。外部犯であれば、だが。こちらとしては無用な情報を与えるべきでもないか。
「申し訳ありません。休憩中でしたので、聞いていない、と確信をもってお答えすることはできません」
「いえ、大丈夫ですよ。エスティアさんの練習中はずっとそちらに?」
「ええ。途中お手洗いには立ったりしましたが基本的にはずっとその部屋に居ました」
「総合すれば、事前に侵入していると言う事はなく、かつラウンジからでは窓が開いた程度の音は聞き取れない可能性が高い。であれば、ついさきほど侵入され、殺されたのだと考えるのが自然です」
青年はお嬢様の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
「では最後にもう一つ。お父様を殺害した犯人に心当たりはありますか?」
お嬢様はうーん、と頭に手をあてて考え出した。
「……気難しい人だったし、そんな恨みを買うような人間関係を作るような人ではなかったけど、仕事の方はどうかしら。多くの曲を作って、それがたくさんの人に評価されたわ。もしかしたら、その影で蹴落とされた人の中に、そんな恨みを持つ人間はいたかもね」
「その辺りは客商売の常ですか」
「ええ。私だっていくらでも恨み言は聴いたわ」
「なるほど。エスティアさん、ありがとうございました」
青年は一礼して終わりを告げると、さらさらと書いていた手帳をパタンと閉じた。
ふぅ、とお嬢様が息をついた。
「お嬢様、お疲れ様でした」
「全くね。喉が渇いたわ。【操水】」
お嬢様が左手をコップに当てて、魔術を詠唱する。お嬢様が身体をほぐしている間にソファ近くのコップに水を注がれていく。
その様子を青年が眺めている。魔法に感心している、という風でもない。
「そのコップ、どこから取り出しました?」
「どこって、そこの棚からよ」
お嬢様は青年の後ろの棚を指す。そこにはいくつかのグラスやコップが並べられている。青年は棚を見た後、部屋をぐるりと見渡す。ソファと机、そしてその棚以外に部屋に置かれた家具は無い。
「私室、というにはあまりに殺風景なので不思議だったのですが、もしかしてここがエスティアさん用の音楽室だったりしますか? 」
「正解。この屋敷の私の仕事場、みたいなものよ」
「そうなると、最近はこの部屋でずっと練習を?」
「朝から納得いくまでずっと、ね。お父様から追加の課題もあったし、それも含めて大変だったわ」
その練習量は並ではなかった。この屋敷に戻ってからお嬢様がこの音楽室にいる時間は一日の半分ほど。何をしている時間よりも、この部屋での練習を優先していた。
「追加の課題、というのは?」
「……いいのよ、そんなの、もう。口が滑っただけ」
お嬢様から、急に元気がなくなっていく。
青年はそれを見て、居心地が悪くなったのか、気まずい顔をしている。彼はわずかな逡巡の後、口を開いた。
「そういえば、一つ。エスティアさんにお願いしたいことがあります」
「……何かしら」
「事件のあった部屋を調べさせていただきたいのです」
「……理由を聞いてもいいかしら」
「できるだけ早く現場の情報を整理すれば、それだけ犯人の指名手配も早くできるからです」
「……お父様の身体を丁重に扱うなら構わないわ。私は同行しないけど、それでもいいなら」
「大丈夫です。ありがとうございます」
青年は頭を下げて礼をした後、こちらに向き直る。
「ではセリスさん、私と共に隣の音楽室の中へ来ていただけませんか? 私一人ではあの部屋について分からないことも多いので、是非お手伝いをお願いしたいのです」
「お嬢様を一人にするわけには……」
私が見ても、お嬢様は急に力がなくなっている。一人で放っておくわけにも行かないだろう。
「いいわ。行ってきなさい」
「そう言っていますから、お早く」
ぶっきらぼうなお嬢様の言葉と、物理的に押してくる青年の行動に後押しされて部屋の外へと出る。
「二時間ほどかかりますから、ゆっくりとお休みください」
青年はそれだけ言い残すと、お嬢様の返事も聞かずに扉を閉め切ってしまった。
「探偵さん、妙に強引でしたが、なぜこのような」
「私のせいですが、アンガスタさんとの思い出を引き出してしまって、整理がつかなくなっているようでしたから。一人にして一旦落ち着いてもらおうと思ったわけです」
どうやら、私も相当に動揺しているらしい。そんなことにも思い至らないとは。
「……気に病む事はありませんよ。セリスさんも当事者の一人ですから」
青年の慰めも、どこか遠くの出来事に聞こえる。自分は当事者を通り越して犯人なのだから、慰めが自分のことのようには感じられないのかもしれない。
「いえ、お気遣い無く。自分の未熟さゆえです」
「エスティアさんの前では一緒に調べて欲しい、と言いましたが、セリスさんも休むべきでしょう。事件のあった部屋は私ひとりで調べますから」
「そうも行きません。お嬢様も犯人を早く捕まえたがっているでしょうから、その手助けをさせてください」
「わかりました。ではよろしくお願いします」
事件のあった部屋が軋む音をたてながら開かれた。