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今の文学に足りないのは何か、と考えてふと、「象徴」「比喩」という言葉が頭に浮かんだ。今回はその事を書こうと思う。
ドラッカーの著作を読んでいると、ドラッカーが神話を巧みに引用する所に出会う。ドラッカーは多面的な人なので、色々な所から色々な情報を引っ張り出してくるが「神話」のレパートリーも持っている。ドラッカーは自分の見たもの、聞いたものに対して神話を当てはめて、巧みに説明する。この場合、ドラッカーは神話を比喩として用いていると考えられる。逆に言えば、神話の方でも、人間の中にある様々な側面を象徴していたり、比喩として機能していなければ、ドラッカーの方でうまく引用できないだろう。ここでは、個別的な生が、象徴としての物語と対応関係にある事がわかる。
物語とか小説、ライトノベルなどと言うと、すぐに、現実を離れた想像力をどうやって獲得するかという問題になりがちだが、実際、優れた物語、優れた文学作品というのは必ず、現実と対応関係になっている。それはむしろ、現実を深くえぐり出す事によって、一般的には現実離れしていると思われる描写になる。シェイクスピアのセリフの不自然さをトルストイは非難していたが、それにも関わらず、シェイクスピアのセリフの真実性は明らかだ。同様に、ドストエフスキーが「俺は写実派だ」と言った事にも相応の意味がある。フローベールとドストエフスキーと、どちらが写実派なのか。この場合、そもそも僕達が見ていると思っているもの、現実と考えているものが果たして本当に現実なのだろうかという認識論的問いが問題となってくる。
優れた作品は必ず、現実とのある関係を持っている。神話が人間というものの象徴として成立していると考えると、現在の文学は現実とはどのような関係を持っているだろうか。
ここらで厄介になってくるのは、ある時期から、小説というジャンルは極めて安易で、簡単なものになったという事だ。つまり、作家が現に見たり聞いたり体験したりした事を、言葉という透明な媒体によって指し示してやりさえすれば「小説」になるという小説観が一般化し、それによって、「小説を書いて一発逆転狙おう!」なんて人が出てきた。しかし、読者の方でもそう読んでいる節があるから、そんな人が現に「一発逆転」したりする事も可能だったりする。ここに面倒な問題が出てくる。
小説というのは「小さな説」と書く。小さな説とは、それぞれの個別的生を描くという事で、個別的な生ならば誰でも体験している。誰でもささやかな社会経験、友情経験、恋愛経験を持っている。持っていないという場合でも、自分の身の回りの事なら少しは知っている。文芸誌に載っている小説なんかをパラパラ見ていると、彼らが知っているのは自分の身の回りと、毎月発行される文芸誌だけではないかという気がする。彼らにとって小説とはそのような、極めて狭い圏内においてうまく機能するものなのかもしれない。
自然主義文学というものが現れて、現実を描く方法論というものが、単純な言語の指示性と同化し、それによって小説というものは極めて簡単なものになった。また、一見するとこれに反するように現れる、「文体」の問題も単に「書き方」の相違でしかないものになった。又吉直樹の文体は、何をも象徴していない。それは「文学っぽいからそうしている」という文体で、現実に接続していない。そして現実に接続するとすれば、僕らはまた単純な言語の指示性に還っていってしまう。
もっと根底的に考えてみよう。そもそも文学とは一体何なのか。
神話は現実を象徴するものだと最初に想定してみた。うろ覚えだが、ヘーゲルが「文学は共同体の運命を象徴するもの」と言っていたと思う。これを神話に当てはめると、神話は古代の共同体の運命を象徴していた、と言う事ができるだろう。
この定義を現代の文学に当てはめると、どんな風に見えてくるだろうか。小説とは「小さな説」だから、それぞれの個別的生を描き出す。しかし、その生が共同体(我々)にとって意味のあるものでなければならない。我々、観衆がカタルシスを感じるようなものでなくてはならない。ここで何が起こっているか、起こらなければならないかと言うと、それぞれの個別的な生、小さな一人の人間の生き方、考え方、行為、人間関係といったものが、社会全体にとって意味あるものとして開示されなければならないという事である。
しかし、これは「小説」が共同体に「受ける」事とは違うもののはずだ。「永遠の〇」がエンタメとしてはよくできていても、あの作品を優れた文学作品とは言えないし、「永遠の〇」のファンでも「優れた文学!」と言うにはためらわれるだろう。だとすると、ここでは何が起こっているのか。再度言うが、優れた物語は我々の運命を象徴していなければならない。それは我々の感覚、時代の方向性に都合の良いものであるだけではなく、それらを含んだ、つまり我々の存在を含んで流動していく物語でなければならない、という事だ。
角度を変えよう。吉本隆明は「優れた文学は、万人に『これは自分にしかわからない』と感じさせる」と言っていた。万人、つまり多くの人々に「これは自分にしかわからない」と感じさせるというのは、一見矛盾のようにも見える。多くの人々が同時に「自分にしかわからない」と感じるとすれば、多くの人々は皆、それぞれ他人とは違う「自分しかわからないもの」を持っているという点において、共通の存在なのだろうか。つまり、我々はそのような、「孤独の共同体」なのだろうか。
混乱してきたので。整理する。まず、文学とは
① 現実の象徴、比喩である
② 現実は共同体である つまり、我々の事である
③ 文学は共同体の運命を象徴する 運命の変遷が物語である (時間軸の導入)
④ 文学は個別的な生を描くものであるから、それぞれの人間が共感できるものでなければならない。また、それは単に僕達に心地良いものであるだけでなく、僕達の存在そのものの運命を示していなければならない
⑤ 誰にも、他人と分かち合えない自分だけの感覚・思考があり、文学はそれを刺激する
…とざっくりまとめてみたが、異論もあるだろうと思う。しかしそのまま考えてみよう。
文学作品は小さな説であり、個別的な生を描くが、全体にとって意味のあるものでなければならない…。例えば、ここにおいて、「源氏物語」とは当時の宮廷生活の華美と退廃の行く末を描いたという意味で、十分優れた文学と言えると思う。吉本隆明は「源氏物語」は母系制の崩壊を示唆していると言っていたが、そういう意味でも十分「象徴」たり得ている。光源氏の生涯は単なる一個人の生涯ではなく、当時の共同体の運命を象徴するからこそ優れた文学だったと言える。
また、夏目漱石の「それから」はよく言われるように、明治の知識人の運命を描いている。自分自身の運命を決定して生きる事が可能になったが、それは同時に旧社会の秩序からの追放を意味した、という点で悲劇として成立している。現在において、不倫小説を書いても、それは単なる不倫としてしか扱われない。その不倫が意味のあるものだと作者が考えるなら、作者はそれだけの(漱石並みの)視点を用意しなければならない。これは当然、極めて難しい事だ。
二作品だけ挙げたが、これを現代の作品に持ってくるとどうだろう。例えば、村上春樹の「海辺のカフカ」は作品の幻想性が幻想性としてしか機能しておらず、それ故、想像力は根を失って、空中をさまよっている。つまり、「海辺のカフカ」は何の象徴でもない。最近の村上春樹はますますその傾向が出てきたが、それでも「作家は~」「文学は~」と川上未映子なんかと語っていられる限り、いい身分だとは言えるだろう。
ちなみに、川上未映子の「乳と卵」はパラパラ読んだが、あれこそ正に「芥川賞専用芥川賞小説」(シャア専用みたいなもの)の名にふさわしい。芥川賞選考委員がいかにも好みそうな題材、文体、構成で書かれた作品で、ああいう作品に「女性特有の感性」があるなんていうのは間違いだと思う。芥川賞選考委員のオジサマ・オバサマがいかにも好みそうな構成で書かれており、非常によくできた「芥川賞小説」であり、それ以外のなにものでもないという意味において、逆に大したものだと思う。
ちなみに、「乳と卵」のラストは女同士が卵をぶつけて喧嘩するシーンがクライマックスなのだが、これは「卵」ーー「卵子」ーー「初潮」ーー「豊胸」ーーと言った、女性特有のテーマを「象徴」する場面となっている。もちろん、ここでの「象徴」は自分の言う「象徴」とは何の関わりもない。
さて、ここまで長々と書いてきたが、そもそも文学とは何かという問いに対して、簡単に概要を書いておこうと思う。
つまりーーー
・自然主義文学の導入によって、個別のリアルな生を描く事が純文学となった。これを逆側に舵を切って幻想性に救いを求めても、幻想は現実から根を失ったものとして遊離し、一方の、「純文学」はただ現実の細部を描くだけで、現実そのものが何かと問う力を持っていない。文学は現実に固着するか、現実から遊離するか、そのいずれかで、現実そのものを対象化し、乗り越えようとする力を失った。
・これらの状況を外側から補強するのが、「売れる」「売れない」の問題であって、作品の価値を昨品外で支えようとする努力である。作品そのものは凡庸だとしても、それには様々なイメージ、宣伝、徒党などがまとわりついて、それによって出版社は生存しようとしている。現今の政治家がそうであるように、大衆に自分の思考・哲学を訴えかけ、問うのではなく、むしろ大衆の漠然たる興味・嗜好に自分を合わせようとするのが最近の傾向に思える。民主主義と言えば聞こえはいいが、大衆の追従者である所の政治家と並ぶように、文学なるものも同様の傾向性を持っている。
・優れた文学作品は共同体の運命を象徴するのであって、共同体に受け入れられる為に頭を下げる存在ではない。優れた作品は人々が認めざるをえないものであって、認めてもらう為に、皆の前で卑屈になるものではない。しかし、今ではもっとも卑屈なものこそがもっとも高い価値があるかのようにみなされたりする。(最近、よく言われるタレントの「塩対応」「神対応」なんていう言葉も、そうした傾向性の一つかもしれない)
・文学作品は個人の人生を描く。その際、全体に対する部分としての人生を描くだけではない。単なる「誰々の話」では済まない、全体的なものが個人の命運に託されていなければならない。その場合、全体的なものを個的なものに照応させる作家的手腕が必要となってくる。一人の人生の意味が社会全体に意味のあるものでなければならないが、それは社会そのものを作品の中に、象徴として取り込むものではなければならない。
・象徴される運命は、物語という時間軸を取って現れる。物語というのは、我々観衆が愉しむためにある形式ではなく、むしろ、我々自身の未来であり、過去である。傍観者に未来も過去もないとすれば、我々に物語はない。しかし、我々もいずれ、どこかに出ていかなくてはならないだろう。
ーーー以上のようにまとめてみた。今のところ、文学というのは自分にとって上記のようなものとしてある。もちろん、自分の言った事にも間違いはあるだろうし、反論もあるだろう。ただ、とりあえず自分はそのように総合的に考えている。この文章はここで終わる事にしよう。