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怪異旋律狂騒曲  作者: シクル
第一章「廊下の怪」

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3/11

「其の二」

「い、嫌……っ」

 それは、女だった。ところどころほつれた長い髪を垂らし、真っ赤なコートに白いマスクという出で立ちは、都市伝説における「口裂け女」の特徴に、これでもかという程合致していた。

「何なんだお前はッ!」

 マスク女の背後から掴みかかり、ナイフを取り上げようとする勤。しかしその華奢な体躯からは想像も出来ない程の腕力で抵抗されてしまい、一度弾かれる。どうにか雫の首筋からナイフを離すことは出来たものの、振り返り様に勤の身体はナイフによって袈裟懸けに切られてしまう。

「なッ……ァ……ッ!?」

 傷口を押さえながらその場にへたり込んだ勤と、マスク女の視線が合う。ぎょろりとした目は血走っており、殺意と狂気を湛えて勤を睨みつけている。脅すようにナイフの刃先を勤に向けたままマスク女は勤の様子を伺いながらジリジリと距離を詰めていく。

「ひッ……あ……ッ……!」

 普段冷静な勤ではあるが、ここまでの異常事態に対しても冷静でいられる程強いわけではない。いつもの姿からは想像も出来ないような怯えた表情で、小動物のように身体を震わせながら後ずさっている。

 見つめていると、呪われてしまいそうな目だった。マスク女自身が怨念そのものと言わんばかりの雰囲気で、その理不尽な矛先を向けられた勤はただ怯えることしか出来ない。

「やめッ……」

「勤! ボケッとしてんな! 逃げるぞ!」

 和弥の声が聞こえて勤が我に返ったのと、マスク女がナイフを突き出したのはほとんど同時だった。振り下ろされた刃先を間一髪で回避した勤は、こちらへ駆け寄って手を伸ばす和弥の手を取り、引っ張られるようにしてマスク女から離れていく。

「降りるぞ!」

 和弥を先頭に、三人は一心不乱に階段を駆け下りる。一階まで戻った所で、三人は肩で息をしながら階段を振り返り、マスク女がいないことを確認して安堵の溜息を吐いた。

「一体……何だったんだ……!」

「……すまない、取り乱した……」

 額の汗を拭いながら申し訳なさそうにそう言った勤へ、和弥は気にすんな、と短く答える。

「私こそごめんね……ありがとう、助けてくれて……」

 それこそ気にするな、そう答えようとした勤だったが、不意に聞こえた足音に絶句し、その表情を驚愕で歪めた。

「嘘……だろ……?」

 とにかく校舎から出ようとしていた和弥達の前に突如現れたのは、先程まで二階にいたハズのマスク女だった。

 あまりにもあり得ない状況に対して、和弥だけでなく勤や雫も思考を完全に放棄し、とにかくそのマスク女から逃げ出した。しかし進んだ先は鍵のかかった非常口――つまり、行き止まりだった。

「し、しまった……!」

 ガチャガチャと何度もドアノブを回す和弥だったが、鍵が壊れているのか開く気配はない。無理矢理こじ開けようと三人でドアに体当たりしたが、それでもドアが開くことはない。そうこうしている内にも、マスク女はゆっくりと和弥達の方へ歩み寄ってくる。窓から差し込む月光がナイフで反射する。それが厭に恐ろしく、和弥達は慌ててドアノブを何度も回すが、手に鉄の臭いがこびりつくばかりで一向に開きはしない。おまけに勤が血のついた手でドアノブに触れたせいで、和弥の手にも血がこびりつき、その不快感が和弥の思考を狭めていた。

「ねえこの教室、入れないかな!」

 雫が指差したのは、非常口のすぐ傍にある図工室だった。すぐさま和弥はとびつくようにして引き戸のドアに手をかけたが、案の定こちらも鍵がかけられているようでびくともしない。

「クソッ!」

 怒りと焦りのままにドアを蹴りつけるが、それで開くなら苦労はしない。そうしている内にもマスク女はもうすぐ傍まで近寄ってきていた。

「こッ……の野郎ォォォォッ!」

 次の瞬間、和弥は勢い良くすぐ傍の窓ガラスを殴りつける。盛大にガラスのひび割れる音がして、勤や雫は肩をびくつかせたが、マスク女の方は平然と和弥達の方へと歩を進めている。あれは、あれは人間ではない。しかしそんなことに構っていられる余裕は和弥達にはなかった。

「クソ……ダメかッ……!」

 ガラスはひび割れるだけで砕けてはいない。このまま人一人通れるくらいにガラスを砕くには時間があまりにも足りない。痛む拳を何度もガラスに叩きつけるが、丈夫なガラスなのか簡単には割れてくれなかった。

「くる……くるよっ……!」

 怯え切った雫の声が和弥の焦燥感を更に掻き立てる。ダメ元で再び非常口のドアノブに手をかけるが、やはりドアは開かなかった。

「クソッ……クソォォォォッ!」

 そんな絶叫を上げながらも、不意に窓の外に白い影が現れたのを見て、和弥はその一点へ視線を集中させる。見れば、そこにいたのは先程和弥達の目の前に現れて不可解な言葉を残していった白い少女だった。

「アイツ……!」

「和弥、来るぞッ……!」

 既に眼前まで、マスク女はナイフを振り上げて迫ってきていた。必死の形相でドアノブを回しながらドアに体当たりしていると、やっとのことで非常口のドアが開く。

「逃げるぞ!」

 三人が雪崩れ込むように非常口から外へ出ると同時に、マスク女のナイフが振り下ろされたが、その刃は誰にも当たらないまま空を裂くだけだった。

 そのまま三人はドアもまともに閉めないまま一目散に校門の外へと逃げて行ったが、マスク女はそこに立ち止まったまま追いかけようとはしなかった。





 校門の外まで出て、マスク女が追いかけてきていないことを確認してから、和弥達は急いで和弥の住んでいるアパートの一室へと駆け込んだ。和弥は実家を離れてアパートで一人暮らしをしながら蝶上学園へ通っているため、実家で暮らしている二人の家よりも融通が利く。部屋の中央の机を囲って三人で座り、やっとの思いで三人は胸をなでおろした。

 その後すぐに和弥が救急箱を取り出し、勤の治療には雫が取り掛かる。幸い傷はそれ程深いわけではなく、応急処置にはそれ程時間はかからなかった。

「……一体何だったんだ、アレは……」

 先程シャツが切り裂かれてしまったため、和弥に借りたシャツを着ながら勤はそう言ったが、和弥や雫にアレが何だったのかなどわかるハズもない。返ってきた答えは当然「わからない」だった。

「もしかして行方不明になった二人って、あの人に殺されたんじゃ……」

 雫の言葉に、二人はゴクリと生唾を飲み込んだ。あの狂気と殺意、見境なく襲いかかるあのマスク女なら、遊び半分に旧校舎をうろついていた二人組を殺していたっておかしくはない。

「それにあの女……妙な気持ち悪さがある……」

 和弥の用意したコップ一杯の水を飲み干しながらそう言う勤に、和弥は頷いて見せる。

「しかも二階から一階に瞬時に移動するなんてな……あり得ねぇ」

「あの女の顔を見たか? あの血走った目、思い出しただけでも身震いする。あんな顔は普通の人間には出来ない」

 マスク女に睨まれた時のことを思い出して、勤は小さく身を震わせる。あの狂った目に見入られた時、勤は一瞬本当に死を覚悟していた。

「それって……あの人が幽霊か何かってこと……?」

「ただの狂人ということもあるにはあるがな……」

 それはただ勤の希望を述べたに過ぎない。いくら超常現象研究会とは言え、あそこまで殺意と狂気にまみれた怨霊がいただなんて信じたくないというのが本音だった。

「どっちにしたってありゃ普通じゃねえ……」

「そう、あれは怪異」

 不意に聞こえた幼い少女の声に、全員の視線が一気に声のした方向へ集中する。見れば、和弥の隣には幼稚園児くらいの少女が座っており、ジッと和弥の方を見つめていた。

「お、お前は……ッ!?」

 紛れもなく、三人の前に何度も姿を現したあの少女だった。今度は全員同時に見えているらしく、二人も目を丸くしたまま少女の方へ視線を向けている。

「お前も! あのマスク女も! 一体何なんだッ!」

 和弥達の前に何度か姿を現しては消える白い少女に、突如襲い掛かってきたマスク女。不可思議なことばかりが立て続けに起こっているせいで既に三人共混乱気味だった。特に勤はマスク女に直接襲われているため、白い少女に対しても警戒心を剥き出しにしてしまっている。

 マスク女とは違い、白い少女からは狂気や殺意と言ったものはあまり感じられず、その見た目もあいまって比較的無害そうには見える。

「心配しないで。あなた達に危害を加えるつもりはない」

「信用出来ないな。俺達はついさっき襲い掛かられたばかりだ」

 少女をギロリと睨みつけてそう言ったのは勤だ。痛むのか、右手でシャツ越しに傷のある場所を押さえている。

 少女はしばらく黙って勤を見ていたが、やがってゆっくりと立ち上がって両手を上げた。

「武器はない」

「……ふざけているのか……!」

 身を乗り出して怒りを露わにする勤だったが、そんな勤を隣で雫が抑える。

「ま、待ってよ! この子が私達に襲いかかるつもりなら、多分とっくにやってるよ!」

「……すまない」

 言われてみれば雫の言う通りだとも言えたが、勤はまだどこか納得がいかない様子で少女を見ている。つい先程マスク女に襲い掛かられているため、勤が少女を信用出来ないのは当たり前の反応とも言える。

 和弥の方は判断しかねる、と言った様子でジッと少女の方を見つめていた。

「……それで、一体何者なんだ、あのマスク女は」

 和弥がそう問うと、少女は再びその場に座り込む。

「怪異。あの女性は、この世の者じゃない」

「この世の者じゃないって、死んでるってことかよ……?」

 恐る恐るそう問うた和弥に、少女は小さく頷いて見せた。

「その認識で構わない」

「幽霊だなんて……そんな……」

「強い未練、強い怨念、この辺りは負の感情が溜まりやすい」

 雫の言葉には取り合わず、少女は更に言葉をそう続ける。

「じゃああの旧校舎には、ずっとあんなのがうろついてたってのか!?」

「そう。でも一度、封じられていた」

 そこで勤が、何かに気づいたように顔を上げ、少女へ視線を向けた。

「封じられていた……あの祠のことか」

 勤の言葉に頷いた後、少女はそのまま言葉を続ける。

「だけど先日、解かれてしまった」

 その封印を解いてしまったのが、先日行方不明になった二人組であると三人が気がつくのに、それ程時間はかからなかった。行方不明になった二人、開けられていた祠、旧校舎を徘徊する怨霊じみたマスク女、後少しで繋がりそうだった別々の事実が、三人の中で綺麗に繋がった瞬間である。

「あんな危険なものの封印が、そう簡単に解かれたんじゃたまったものじゃないな」

 嫌味っぽく勤はそう言ったが、少女は静かにかぶりを振る。

「封じられたのはもう随分と前。封印もかなり緩くなっていた」

 そこで三人は、あの祠がかなり老朽化していたことを思い出す。元々強固だった封印も、年月を経て緩んでしまったのだろう。そこを例の二人組が開いてしまった、というのなら封印が解かれてしまったのもある程度納得が行く。

「ねえ、行方不明になった二人って……」

「そう、引きずり込まれた」

「引きずり込まれたって、どこに……」

「黄泉。残念だけど、もう助からない」

 黄泉、それはあの世のことを指しているのだろうか。もしあの時逃げ切れずにあのマスク女に捕まっていたら……そう考えると恐ろしくて、三人はほぼ同時に生唾を飲み込んだ。

「……で、君はどうしたい。何故俺達の前に姿を現す? そもそも君は何者だ?」

「私は、土地神のようなもの……。それよりも、あなた達に頼みたいことがある」

 土地神のようなもの。ひどく曖昧な言い回しだったが、今までの神出鬼没さを考えれば土地神かどうかは別としても超常的な何かであることだけは間違いがないだろう。少女の曖昧な説明に、勤はまだ何か言いたそうな表情だったが、少女が何かを取り出したのを見てそちらへ意識を向け直した。

「これは……?」

 机の上に置かれたのは、三つに分かれた一枚のお札だった。

「あの二人組が破いてしまったお札。あなた達には、これを使って怪異を封じてほしい」

 破れたお札を並べておきながら、平然とそんなことをのたまう少女に、勤はただでさえしかめていた表情を更にしかめて見せる。

「冗談はよせ。そんな破れた切れ端で何が出来る」

「問題ない。切れ端だけでも効果はある」

「切れ端だけで……?」

 切れ端の内一枚を手に取り、まじまじと眺めながらそう問うた雫に、少女はコクリと頷いた。

「これは応急処置のようなもの。この切れ端で一度怪異を封じ、その後に私がもう一度まとめて祠に封印する」

「なら最初から君が全てやれば良い」

「その札は人間の作ったものだから、私には扱えない。祠の封印を補強することは出来ても、私自身には怪異だけを直接封じるような力はない」

 少女のその言葉に、勤はどこかわざとらしい様子で深く溜息を吐いた。

「随分と頼りない神様だな」

「面目ない」

 そう言って少女は少しだけ表情を陰らせたものの、すぐに言葉を続ける。

「まずは、廊下の怪異を」

 少女のその一言で、その場にいる全員の脳裏に、先程のマスク女の姿が過る。今でこそ安全な場所にいるが、あのマスク女と遭遇したのはつい数十分前のことだ。嫌でも明確に思い出される恐怖が、全員の表情を強張らせる。

「……本当に君は、俺達にこの頼りない切れ端を使って除霊の真似事をしろとでも言うのかな……?」

 やや威圧的にそう言った勤に対して、少女は静かににそう、とだけ答える。

「……冗談じゃない。そんな危険なことに、俺達が付き合う理由はない!」

 少女を睨みながら声を荒らげる勤だったが、それとは対照的に和弥は札の切れ端を見つめながら何かしら決意したかのような表情を見せていた。

「でもこのまま放っておいたら、あの二人組みたいな犠牲者が増えるんだろ……!」

 和弥の方はもう少女に協力するつもりになっているようで、札の切れ端を握りしめて怪異に対する怒りを見せていた。

「そもそも、こんな紙切れでどうすれば良い? かざせばマスク女の方が勝手に吸い込まれでもするのか?」

「概ね合ってる。ただ、そのためにはある程度弱らせる必要がある」

「弱らせるって……あんなの一体どうやって弱らせれば……」

「何でも構わない。物理的にでも、精神的にでも」

 そう言った少女を、勤はギロリと睨みつける。

「あんなのをどうやって弱らせると言うんだ! まともにやりあってどうにかなる相手じゃない、精神的なダメージなんてもってのほかだ!」

 怒声を上げる勤だったが、少女は何も答えない。それが余計に癇に障ったのか、勤は声を荒らげて机に拳を叩き付ける。

「勝手に押し付けておいてだんまりか! そんなのでどうしろと言うんだ!」

「落ち着け勤。人ン家の机ぶっ叩いてんじゃねえよ」

「……すまない」

 憤懣やるかたない、とでも言わんばかりの勤を制しつつ、和弥は少女へ視線を向ける。

「せめてあのマスク女がどういう奴なのか、それだけでも教えてくれないか?」

「……わかった」

 そう言った後少しだけ間を置いて、少女は説明を始めた。


 それは、肌寒い十二月半ばのことだった。当時蝶上町ではインフルエンザが流行っており、教師も生徒もマスクを付けて登校することが多く、むしろマスクを着用していない生徒は注意されるくらいだった。

 当時小学校だった旧校舎では、インフルエンザと同時にある噂が流行っていた。それが――口裂け女である。世間一般では夏を過ぎた辺りで下火になっていた噂だったが、蝶上町では急に思い出したように流行りつつあったのだ。恐らくインフルエンザ対策でマスクをつけて外出する女性が多かったのだろう、それを口裂け女と誤認した生徒が噂をまき散らし、そのままあることないこと尾ひれがついて出回ってしまったようで、生徒達はインフルエンザと口裂け女の両方に怯えながら学校に通っていた。そんな中、町内で通り魔事件が相次ぎ、子供達の間では瞬く間に「口裂け女の仕業」として噂が広まっていく。そうして子供達の口裂け女に対する恐怖がピークに達した頃に、その事件は起こった。

 ある女性教員が、インフルエンザ対策としてコートを着こみ、マスクをつけて登校した。彼女は元々風邪気味で体調も良くなく、顔色もあまり良くはなかった。

 そんな彼女が夕方帰宅しようとして職員室を出た時、三階のある教室に忘れ物をしたことに気がついて、コートを着たまま三階まで上がると、丁度階段を上り切った所で偶然居残っていた男子生徒達に遭遇する。長い黒髪にマスク、コートを着込んだその女性教員の姿は偶然にも噂の中の「口裂け女」の特徴と完全に一致してしまっており、それを見た生徒達は怯えた様子でポマードポマードと繰り返し、まるで妖怪か何かでも見るかのような表情を女性教員へ向けていた。

 当然女性教員の方も自身が口裂け女などではない、と説明しようとしたが、怯えきってしまった生徒達には伝わらない。ついに生徒達は口裂け女退治だなどと言いながら女性教員を階段から突き落とさんとして体当たりをしかけてくるのだ。

 いくら女性とは言え相手は子供だ。振り払おうと思えば簡単なことだったが、彼女は生徒に怪我させまいとしてそれをしなかった。結果として生徒の手によって階段から突き落とされてしまった彼女は――――


「打ちどころが悪くてそのまま死んでしまった、と……」

 少女の言葉を継ぐようにして勤がそう言うと、少女は静かに頷いて見せた。

「あの場所は、負のエネルギーが溜まりやすい。その負のエネルギーが、今の彼女を作ってしまった」

 あまり感情を見せない少女だったが、その言葉はどこか寂しそうだった。

「悪いが俺達には一切関係ない話だ。超常現象研究会は坊さんや霊能力者の集まりじゃない」

「そういう言い方はねえだろ」

 ピシャリと言い放った勤に、和弥が鋭い視線を向けると、勤は強く和弥を睨みつける。

「……だったら君だけで行けば良いんじゃないかな。君の正義感で、俺や雫を振り回さないでくれ」

 勤のその言葉に、和弥は何か言い返したそうにしていたが、少しだけ間を置いた後小さく嘆息し、落ち着いた様子でわかった、と答えた。

「そうだな、俺だけで良い。勤は雫を頼む」

「……良いの?」

 少女の問いにああ、とだけ答えた後、和弥は静かに部屋を後にする。その後を追うように少女もその場から姿を消した。

 二人がいなくなった後の部屋で、どこかきまずい沈黙が訪れる。勤はどこか不機嫌そうな様子だったし、雫の方はまだ迷っている、という様子で落ち着きなく視線をキョロキョロさせている。

「……どうしよう、私……」

「君が危険な目に遭う必要はない。ここにいてくれ、雫」

「でも、和弥君は……」

 まっすぐに、ただ雫だけを見つめる勤の視線から、雫は目をそらす。まるで逃げるかのような態度だったが、勤はそれでも雫だけを見つめていた。

「和弥のことは後で連れ戻そう。そんなことよりも、君は俺のことを見ていてくれ」

 静かに雫の傍へ寄り、勤はその細い肩に右手を乗せた。その行為によって彼女の肩が震え始めたことに気づいても尚、勤はその手を放そうとしなかった。

「俺が、君のことだけを見ているように」

 左手が、雫の肩に触れる。出来るだけ優しく、そっと抱き寄せようとする勤だったが、雫はそれを拒むように顔をそむけて両手を突き出した。

 軽く突き飛ばされるような形になり、勤は呆気に取られたような表情を見せていたが、やがてその行為の意味を理解し、どこか辛そうな表情で雫を見つめる。

 まるで、親に見放された子供だ。

「ダメ、私は……!」

 言葉を言い切らないまま、逃げ出すようにして雫は部屋を出て行った。そんな彼女の背中を、今にも泣き出しそうな表情で見つめた後、勤はわなわなと震えながら床を殴りつけた。

「何故だ雫……何故なんだ……ッ!」

 やり場のない感情がただ渦巻いて、吐き出せないまま勤の中でわだかまった。


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