君との約束
別れはいつだって唐突だ。
いや、その前兆はいくらでもあったのかもしれない。
俺が、それから目をそらし続けて、聞くタイミングを逃して、先延ばしにして。
向こうも、言おうと何度だって思っていただろう。遮られて、伝えられなくて。
いや、気づこうとしなかったんだ。それが怖かったから。彼女は俺に心配をかけまいとしていたんだ。
だから、俺は…………
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「今まで、お世話になりました」
香夜ちゃんではない。その隣に大の大人が俺に頭を下げている。
香夜ちゃんの父親だ。
こんなクソガキに敬語を使って頭を下げているのだ。
本来ならば、娘に手出しをしてないか、俺がどんな人間か、ここでの様子はどうだったか。
聞くことなど色々あるだろう。
だけど、その父親はひとこと、お礼だけを示した。
俺は「はい」とだけ、返事した。
親父も母さんもいない。
だから、ずっと俺が香夜ちゃんの面倒を見て、お世話してきた。だから、俺が代表として、この父親の前にいる。
だから、どうした。
何か俺から言うことがあるだろう。
恵は事前から知っていたために、心の準備はできていたのか、少し涙ぐんでるけど取り乱すようなことはない。でも、ずっと香夜ちゃんに抱きついている。俺の方に顔を向ける香夜ちゃんは、微笑んで、恵の頭を撫でている。
やめてくれ。俺はそんな顔を見たいんじゃない。俺にそんな顔を向けないでくれ。
俺は伏し目がちに、香夜ちゃんからの視線から逃れた。それでどうなるわけでもないのに。
やがて、香夜ちゃんは恵から離れて、俺の前に立った。
「先輩」
香夜ちゃんからいつもと変わらない声色で俺の事を呼んだ。
「黙っていてすいませんでした。もう、だいぶ前に決まっていたことでしたのに。めぐちゃんには私から言うからと、黙っててもらって、普通に振舞っててもらいました」
やめてくれ。そんな謝罪の言葉を聞きたくない。
「……怒ってますよね。でも、私からは謝ることしかできないです。もう決定事項ですので。でも、言っておきたいことはあります。お父さん、めぐちゃん。ちょっと二人にしてもらえるかな」
香夜ちゃんのお父さんも、恵も、香夜ちゃんの俺への気持ちは知っている。
香夜ちゃんのお父さんは気分はあまり良くないものかもしれないが、それでも受諾してくれた。
佐原家の玄関口に二人残される。
「先輩は、とても強い人でした。いつだって、笑って、辛い、もう無理だって諦めないで、泣き言を言わないで。とても優しくて、私を家族みたいに扱ってくれて。始まりは、ちょっとしたことだったかもしれないです。でも、私は先輩のことが好きになってよかったです。先輩は、私をいつも大切にしてくれました。……契約は破っちゃうことになりますね。すいません。でも、めぐちゃんも十分立派な子になりました。私がいなくても……ううん、もう前から一人で出来る子だったんだと思います。私が甘やかしてました。それに甘えちゃってたんだと思います。先輩は、あまり甘やかしてはダメですよ」
「ああ……」
「あと、先輩」
「なんだ?」
「先輩は、誰かに泣いたところを見せたことありましたか?」
「なんで、急に……」
「先輩は強いです。守るべきものがありました。だから、泣けなかったと思うんです。どんなことでも挫けてはいけないから、泣けなかったと思うんです。本当はいくらでもあったと思います。だから、私は……」
香夜ちゃんはちょっと喋りすぎたのか少し息継ぎをした。
「私は、先輩が泣ける場所になりたいって思ってました。……とうとう、先輩は泣くことなんてありませんでしたけど」
「そんなこと……ないさ。今だって泣きそうだ」
「そうですか。先輩には私の顔はどう映ってますか?」
「……笑ってる。寂しそうだけど。今までで一番寂しそうな笑顔だ」
「……泣き顔よりは幾分かマシだと思ったんですけどね」
「俺は、そんな香夜ちゃんは好きになれない」
「そうですか。私も先輩のこと好きですが、嫌いなところがあります」
「そっか」
「そうやって強がって弱いところを見せてくれないことです。なんで、そこまで強がろうとするんですか。別れるんですよ。泣いてくれたっていいじゃないですか……」
笑ってた顔が徐々に崩れていく。鼻をすすって、涙声になっていく。
でも、俺は泣いちゃいけない。弱さを見せてはいけない。
俺は強くあらなきゃいけない。
だけど……
俺の頬に一筋、涙が伝った。それで堰を切ったように溢れ出てくる。
「なんで……なんで言ってくれなかった!ずっと一緒にいたい!離れたくない!俺だって香夜ちゃんのことが好きなんだ!それなのに、なんで……一人だけ離れていくんだよ……俺は……一緒にいたいだけなんだよ……」
「ようやく。言ってくれましたね。……先輩の本気の『好き』って言葉。それが聞きたかったです……別れる前に聞けてよかったです」
「……なあ、香夜ちゃん。今、香夜ちゃんの目には俺の顔はどう映ってる?」
「酷い顔です。でも、一番好きになれそうな顔です」
「酷い趣味だな」
「お互い様です」
俺は香夜ちゃんを抱き寄せた。
すっかり短くなってしまった髪をゆっくり撫でる。
だけど、クセで背中の方まで手が伸びてしまう。そこには長かった艶やかな髪はもうない。代わりに香夜ちゃんの体温が感じられる背中があった。
「やっぱり、髪は長いほうがよかったですか?」
「そうだな……俺は長いほうが好きだよ」
「そうですか。それは失敗してしまいました。そうですね。では、また伸ばし始めます。あと、連絡は取れないと思います。携帯も解約しちゃいましたし、私は手紙を出すような柄でもないので。ですが、絶対会えないわけではないです。死に別れるわけではありません。先輩がふらっと寄ったところが私の引越し先かもしれません。たまたま街中を歩いていたらすれ違うかもしれません。私が、ここに戻ってくるかもしれません。ですから……あの……」
「……ああ、その時は、俺から言おう。『結婚してください』って」
「え……け、結婚ですか?」
「ああ。付き合う段階も必要だと思う。もっと、踏むべき段階もあると思う。だけど、もう一度会えたら香夜ちゃんに絶対に言うから」
「……もう一度会うとき、それがいつか分かりませんよ?私が、他に好きな人ができるかもしれません。今より成長して分からなくなってるかもしれません。今、先輩が好きな私じゃないかもしれません。……変わっていくんですよ?それでもいいんですか?」
「ああ、それでも。俺は香夜ちゃんとずっと一緒にいたいんだ。たとえ、年をとっても香夜ちゃんが変わっていっても、俺が変わっていっても。俺がきっとこんなに好きになるのは、香夜ちゃん以外にいないと思う」
「……その言葉忘れないでくださいよ。言質です」
「ああ」
「……すっかり涙も乾いてしまいましたね。私はこの街から出て行きます。でも、もしいつか。また会うときがあるならば、私もそれを受け入れます。……その間に少しは女の子の扱い方を覚えててもいいんですよ?」
「エロゲで十分だな」
「まったく。先輩はこんな時でも先輩ですね」
「あ、そうそう。俺からも一つだけお願いしたいことがあるんだ」
「どうしたんですか?」
「……俺のこと、名前で呼んでほしい」
「……また会えたら、その時に呼んであげます。今はまだ、先輩、後輩の関係ですから。そんな関係がなくなったら、先輩のこと、名前で呼んであげます」
彼女は空を仰いだ。
涙は乾いたかもしれないが、頬に伝ったのが気になったのか、少し服の裾で拭った。
俺は彼女を手離した。
約束を交わしたその少女は、さっきまでの寂しそうな笑顔でなく、もっと晴れやかになっていた。
いつか、再会できることを信じて。
俺は……東雲香夜という女の子を見送った。




