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7・ルーン家とヴィーン家の事情

 ユーリンダの心は千々に乱れ、アトラウスの言葉の意味を理解するには何度もそれを思い返して反芻しなければならなかった。

 自分を唯一の女性として好きだと言ってくれた。ずっとずっと待ち焦がれていた瞬間だった。でもすぐに彼は謝り、自分はティラール・バロックにはかなわない、ただ思い出作りにリュートを聴いて欲しいと言って出て行った……。

 どうして、ティラールなんか好きじゃないとはっきり言ったのに、アトラは何もかも諦めたような顔をしていたんだろう? 大貴族の結びつき? そんなものが障害になるとは思えないのに。王妃候補に挙がった時でさえ、自分はそれを断る事が出来た。王太子殿下さえ断ってくれたお父さまが、同じ大貴族の末息子を断れないなんて事があるだろうか?

 ユーリンダには、『王太子妃は候補が幾人も居て、務まらないからと謙遜して辞退出来ても、もしティラールを婿養子にと宰相が申し入れてきたなら、辞退する理由がない』ということが解らなかった。

(やっと想いが通じたと思ったのに……なぜ? アトラは何か思い違いをしているのよ。お父さまが私をティラール様と無理に結婚させようとなんてなさる訳がないわ)

 確信に近い願い。涙を拭いてユーリンダは立ち上がった。部屋の外に出ても、もうアトラウスの気配はどこにもなかった。


 ホールに出ると、壁の正面に飾られた絵がふと目に入った。もう何度も見ていたが、改めて心を惹かれてユーリンダは絵の前で足を止めた。祖父である先代のルーン公が大枚をはたいて買い求めた、巨匠クリスピアーノが物した『ルルアとダルム』……黄金色の髪をなびかせた美しい乙女のルルアが、黒髪の双子神、ルルアと対極的な存在である、氷と闇と死を司る神ダルムに微笑みかけている絵柄である。黄金色の髪と黒髪の美しい男女神に一瞬ユーリンダは自分とアトラウスをなぞらえてしまったが、アトラウスに死や闇なんてとんでもないこと、とすぐに思い直した。

「どうしたんだね、ユーリィ? 具合はもういいのかい?」

 不意に背後から声をかけられて、ユーリンダはびくりとしてしまう。父アルフォンスは別段気配を隠して近付いた訳でもないのだが、物思いに囚われていたので全く気付かなかったのだ。父の方は、常と違い憂いに沈んだような娘を心配そうに見ている。

「お父さま……」

 話しかけられてやっとユーリンダは振り向いた。その大きく見開いた美しい黄金色の瞳に涙が溜まっているのを見て、アルフォンスの表情も曇る。

「大丈夫だと聞いていたが、また何か怖ろしい夢でも見たのかい?」

 この言葉には、まさか不吉な預言の続きでも降りたのではという心配が含まれていたが、それにはユーリンダは全く気づきもせずに、

「怖ろしい夢……? ううん、そうじゃないわ。いい夢、夢のような夢なんだわ。だけど……」

 ユーリンダが顔を伏せると、溜まった涙がぽたりと床に落ちた

「どうしたんだね? いい夢ならば、どうして泣いているんだ、わたしの可愛い小鳥?」 

 双子の息子と娘が子どもの頃にはよく、愛情を込めて『わたしの小馬、わたしの小鳥』と呼んでいたアルフォンスは、それをふと思い出して、久方ぶりにその呼称を口にした。だが、ユーリンダには懐かしむゆとりはない。ただ俯いて言葉を探していた。そして言った。

「ねぇお父さま。お父さまは、私が誰と結婚したらいいと思ってるの?」

予想していなかった、そして率直な娘の問いに、アルフォンスは戸惑ったようだった。

「なぜそんな事を気にするんだい? ……結婚したい相手がいるのかね?」


  ◆  ◆  ◆


 勿論、アルフォンスはユーリンダがアトラウスを慕っている事には気付いている。ユーリンダは次期聖炎の神子、もしも、王妃にとでもいう事になれば、新たな候補者がヴィーン家から立てられただろうが、その可能性が消えた今、彼女はいずれ母から譲り受けるその位を、次代の神子に引き継ぐまでの数十年をアルマヴィラで暮らす定めである。つまり彼女を他家に嫁がせる訳にはいかないので、本来ならヴィーン家、もしくはルーン分家の者と縁づけるのが妥当ではある。

 そもそも、ユーリンダの母、聖炎の神子となるカレリンダ・ヴィーンが、当時先代ルーン公の後継者であったアルフォンス・ルーンに嫁ぐ時、両家の間では当主や長老を始めとする主だった者全てが大反対だった。

 伝説の双子の聖女アルマとエルマ……姉アルマの血を受け継ぐルーン家と妹エルマの血を継ぐヴィーン家とは、聖都アルマヴィラにあって、分かちがたく結びつき、ルーン家が統治を、ヴィーン家が宗教的統括を担ってきた。その役割は歴史の流れ上、アルマ・ルーンが妹の補佐を得てルーン公国を建国して以来絶えずに、確固としてそれぞれの責任であり権利であった。同じ黄金色の髪と瞳を持つ一族であり、分家同士の婚姻は頻繁に行われてきたものの、ヴィーン家の象徴であるルルア大神官と聖炎の神子は、必ずヴィーン家の者でなければならなかった。聖炎の神子はヴィーン本家か筆頭分家の男子と結婚して次代の神子を産むのがこれまでのしきたりであり、いくら次代のルーン公であろうと、他家に嫁ぐ事は絶対に許されない事なのであった。カレリンダには子どもの頃から、ヴィーン本家の後継者であるノイリオン・ヴィーンとの縁組みがととのえられており、聖炎の神子としての資質も歴代の中で群を抜いている彼女をヴィーン家側は絶対に手放す訳にいかぬと突っぱね、また、ルーン家側もそれが当然の反応であると取り、身勝手に、定められた許嫁シルヴィア・ルーンとの婚約を破棄したアルフォンスを激しく非難した。無論アルフォンスにとっては、苦悩を重ねた末に、シルヴィアが身を引いた事で採った選択であったが、幼少時からずば抜けた才覚を発揮し、また穏やかで誰からも好かれ、常に年長者を立てて謙虚な振る舞いに徹していた、まさに理想的な公子であったかれが、自分勝手な感情を優先してそのような暴挙に出るとは余りに意外、と当時、近しい誰もが驚きを覚えずにはいられなかった程の前例のない行いだったのである。

 ファルシスが妹に言い聞かせた通り、王族や大貴族の婚姻は全て、家の都合で整えられるものであるというのが常識である。家同士の都合さえ良ければ、そこに恋愛の要素が絡む事は無論あり得る事で、『○○家の公子が△△家の姫を見初めて熱烈な求婚の末に……』という話も散見されるものの、殆どそれは中小貴族以下の家柄の場合であった。いくら当人同士が想い合ったとしても、既に幼少時から他の許婚が定められていた場合、それを破棄する事は、破棄された側の家の名誉を傷つける事であり、多大な賠償金を請求されても仕方がなかったから、殆どの場合、それを親が許すというのはあり得ない事だった。

 アルフォンスとシルヴィアの場合は、ルーン本家と筆頭分家、という家同士であったから、賠償金が求められるという事はなかったものの、親同士はかなり揉めた。シルヴィアの親にしてみれば、娘が次期ルーン公妃の座を約束されていたのに、何の落ち度もないのにそれを奪われたのであるから、激怒するのも当然である。もしもアルフォンスが凡庸な質で、他に代わりになる優れた次期ルーン公候補がいたならば、廃嫡されてもおかしくはなかった。だが、先代ルーン公エルランスには、アルフォンスとカルシス、二人の息子しかおらず、優れた兄と劣悪な弟の資質の差があまりにも開いていたので、周囲はアルフォンスの廃嫡は考えず、何とかこの優れた若者の無謀な企てを阻止しようという方向に全力を注いだ。説得、折檻、脅し、軟禁……父ルーン公はあらゆる手段で、これまで弟と違って反抗的な態度など一切とった事のなかった出来の良すぎる長男の気を変えさせようとしたが、全ては徒労に終わった。

 そしてある日遂に、アルフォンスは単身館を忍び出て王都へ向かい、国王に拝謁を願い、結婚の許可を得ようという行動に出た。生真面目な少年だと思っていたアルフォンス・ルーンがこのような型破りな事をしでかしたのを面白がった先王は、『三年に一度の御前試合で優勝したならば、何でも望みを叶えよう』と約束した。その美少年ぶりから多くの人に線の細い貴公子と思われていたアルフォンスが、国一番の勇者、金獅子騎士を束ねるウルミス・ヴァルディンを破った事、そしてその願いが領地でも地位でも金銀でもなく、ただ想い人を得たいという純粋なものであった事は、当時国中で持ちきりとなった話題だった。晴れて国王の許可を得たアルフォンスは、遂に両家の反対を押し切って、カレリンダを妻に迎える事に成功したのだった。

 但し、ヴィーン家側はひとつだけ条件を出した。即ち、二人の間に産まれる、次期聖炎の神子となる女子は、必ずヴィーン家の男子と縁づけさせ、聖炎の神子をヴィーン家に返す事。アルフォンスとカレリンダは戸惑ったが、これだけはどうしても譲れぬと長老らが強硬に言い張るので、受け入れざるを得なかった。いくら優れた者同士と言っても、二人ともまだ十代で、新しい家庭を築く事に対して夢と希望に溢れていた。たくさんの子宝に恵まれれば、女の子のうちの一人くらいは、ヴィーン家の若者と相性が良いだろう……そんな風に自分たちを納得させて、きっと不都合は起こらないと思う事にした。

 それだから、ユーリンダとファルシスの後、カレリンダが何度か身籠もっても結局出産に至らず、他に女子を授かる見込みが薄くなってきたと感じ始めた時、夫妻は長女ユーリンダの行く末を思って、自分たちの若気の浅慮を悔いる事になった。ユーリンダが幼い頃から従兄アトラウスの妻になるのを夢見ていると、勿論かれらは知っていたからである。自分たちの結婚の為に、娘の結婚を犠牲にしてしまう――勿論、かれらが結婚していなければユーリンダは生まれていなかったのだが――という苦悩は、しかし意外な形で解決された。ユーリンダの婿候補として名前が挙がっていたヴィーン家の若者五人は、皆が皆、病や落馬などの事故が元で、十代前半のうちに世を去ってしまったのである。あまり格下の家柄の男子が聖炎の神子の夫では釣り合わない……ゆえに、長老達も溜息混じりに、約定はユーリンダの娘に先延ばしする事を許し、晴れてユーリンダは、生まれる前から定められていた、ヴィーン家との婚姻という鎖から解放されたのである。

 しかし、一人だけ納得出来ていない者がいた。カレリンダの元婚約者、現ヴィーン家の当主、大神官ダルシオンの兄にあたるノイリオン・ヴィーンである。次期大神官の器と見込まれ、子どもの頃からひたすら厳しく宗教教育を受けて育った弟とは全く異なり、両親に溺愛され、甘やかされて育ったノイリオンは、無論黄金色の髪と瞳は持つものの器量はごく並、それが、絶世の美少女ともてはやされたカレリンダとの結婚を約束されていたのだから、気位だけは高いものの、婚約者に夢中で惚れ込み、それだけに彼女を失った時の怒りようは激しかった。アルフォンスに決闘を申し込む、といきり立つのを、両親は必死の思いで止めたものである。

 父親の跡を継ぎヴィーン家の長となった彼は、本来ならさっさと分家から妻を娶って跡継ぎを作るのも務めのうちであったが、それをしなかった。まず初めには、自分はアルフォンスより年長であるにも関わらず、不慮の事故や病でアルフォンスが死んでしまえば、誰に憚りなくカレリンダを自分のものに出来ると期待していたからである。そして、カレリンダがユーリンダという娘を産み、アルフォンスはいつまでも健在で、ユーリンダが母親そっくりに美しく育ってゆくのを見ていた彼は、次に、ユーリンダを自分の妃に、と言い出した。筋としては通っていなくはない。貧乏貴族の娘ならば、家の都合で親より年上の男に嫁がされる事だってある。だが、流石に、聖炎の神子の夫がそう歳をとっているのはあまり外聞が良くない。長老達はノイリオンの要求を黙殺し、アルフォンスは勿論拒んだ。にも関わらず、ノイリオンは、三十九歳となった今も、カレリンダかユーリンダ、と固執して、側女は幾人も持っても正夫人は置いていない。



 このような環境下で、ユーリンダが恋愛によって結婚相手を自身で決め得る、と思っているのは、殆ど本人のみである。従兄との結婚は、身分的にはおかしくはないが、元々彼女は、王妃候補の筆頭と思われていたくらいである。アルフォンスがそれを固辞したのは、ひとえに娘の真の幸福を願えば彼女の居場所は宮廷ではない、と判断した為であるが、それはアルフォンスにしか判らない。何しろ、母親のカレリンダでさえ、もし娘が王妃になるのなら、次期聖炎の神子の座はヴィーン家の他の娘に譲ってもいい、と考えていたくらいなのだ。ルーン公爵の一人娘が身内と結婚するのは、無難、という以外に家として特別な利点はない。しかもアトラウスは、宰相の娘を後妻に迎えたカルシスの最初の妻の息子、という微妙な立場である。ファルシスが、二人を大事に思いながらも慎重になっているのも無理のないことであった。

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