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2・恋模様

 黄色のタフタを重ねたお気に入りのドレスに着替えたユーリンダは、すっかり血色の良くなった笑顔で乳母に、

「みんなまだ眠ってるのかしら? ねえ、私、みんなを起こしに行きたいわ」

 と言う。

「まぁ、姫さま、いくらご家族でも、眠ってらっしゃる殿方のお部屋に入られるなんて、レディのする事ではありませんよ!」

 貴婦人としての弁えはしっかり身につけているユーリンダなのだが、時折こうした自由気儘な言葉が、ごく親しい者の前ではぽろりと飛び出す。子どもの頃はもっとずっとこうした傾向が強かった。この自由な姿が本来のユーリンダの性分なのでは、とたまに感じる乳母だが、彼女が大貴族の娘らしくなく自由に生きるなどという事は、仮に周囲が許したとしても、こうも世間を知らずにいては、あっという間に巷に溢れる人の悪意に利用されてしまうだろうとも思う。身分の貴賤を問わず、人は真に自由に生きる事など出来るものではない。それは野の獣や鳥にのみ許されたものなのだ。

 ともあれ、ユーリンダは乳母のマルタの言葉に、可愛らしくぷうっと頬を膨らませ、

「それは、勿論お行儀の悪い事だとは判っているけど、こんな特別な時なんだし、いつもみんなの方が早起きだし、とても気持ちの良い朝だから、眠ってるなんて勿体ないと思うんだもの!」

 と応える。『みんな』が、父と兄だけなのか、アトラウスも含まれているのか最初は測りかねたマルタだったが、今の言葉で含まれているのだなと思った。それは、想い人の寝起きの姿をどうとかいう問題ではなく、彼女はただ単純に、この気持ちの良い朝を大好きな人々と共有したいだけなのだ、とも。


 だが、たっぷりと睡眠をとったユーリンダにとってはいくら気持ちが良くとも、彼女と違って熟睡していた訳ではないマルタは何度か階下に用をしに降りていたので、ルーン公が帰宅したのは明け方で、待っていたファルシスとアトラウスも同じように徹夜状態、彼らが眠りに就いたのはほんの少し前なのだと概ねの状況を理解していた。

「姫さま、姫さまはゆっくりお休みになれてようございましたが、お父さまもお兄さまも朝方まで御用で起きておいででしたんですよ。元々、この式典続きの数日が過ぎて今日は、皆がゆっくり休めるようにとのお計らいでお昼過ぎまで何も予定がないんです。皆様をゆっくりお休みさせておあげになるのがよき事と思いますよ」

「朝方まで? え……アトラが帰って来たのは朝なの?」

 乳母の説教とは違う所にユーリンダは反応した。乳母は幾分慌てて、

「いいえ、ファルシス様もアトラウス様もご一緒に、夜半過ぎにはお戻りでしたよ。でも、殿さまのお帰りが遅かったので、お二方ともご心配されてお待ちになっていたんです」

「お父さまが遅いのはいつもの事だわ。いつだってたくさんのご公務で」



 この、のんびりした会話を打ち切ったのは、部屋の扉を控えめに叩く音だった。続き部屋になっている寝室と居間の、次の間に控えた侍女が、扉を開けてやったマルタに、

「若さまが、姫さまのお具合が良いようなら、お話があると仰っています」

 と伝える。

「あら! ファルはもう起きていたのね! いいわよ、居間に入ってもらって」


 ファルシスは寝不足でその端正な顔の目の下にくまを作り、不機嫌だった。だが取りあえずは、尋常でなかった昨夜の妹の様子を思って、

「もう身体はなんともないのか?」

 と気遣いの言葉をかけた。

「いっぱい眠って、とっても元気よ」

 という返事に、安堵と脱力の吐息を漏らしたファルシスは次に、

「僕はもっと寝ていたかったんだが、来客があってね。本当は父上にお伺いすべきだが、父上は芯からお疲れのご様子だったから、まだお起こししたくない。大した事ではないから、おまえの意志を優先しようと思ってね」

 と言う。

「なぁに? お客って?」

「まずはティラール・バロック殿だ。昨夜も大層おまえの事を案じておられた。お見舞いだそうだが、そんなに元気になったんなら、取りあえず応接室で面会すべきだと思うよ」

 ティラール・バロックは、孫娘を王妃と成した事で最早誰もその権勢を阻む事は出来ないこの王国の第一人者、宰相アロール・バロックの四男である。昨夜が初対面であったが、なかなかの男前で女性慣れしている様子の彼がユーリンダに一目惚れしたらしく、ダンスの順番を巡ってひと騒動起こってしまった。その場で一番に申し込んだ彼に対し、彼の身分や立場を鑑みても、ユーリンダは当然それを受けるべきであったのに、『従兄のアトラウスと一番に踊る夢』に拘るユーリンダは、彼を後回しにしてしまうという常識では考えられない行動をとり、衆目を集めてしまったのだ。だが、ティラールは『元々約束していたのなら自分は二番目で』と快くアトラウスに譲り、鷹揚さを見せた。口数が多く大袈裟な言い回しばかりなので薄っぺらな人間にも見えるが、ファルシスは取りあえず悪印象は持っていない。だがユーリンダは鼻の上に皺を寄せて、

「あの仰々しいひとね。別に嫌いではないけど、あの方とお話するのは何だか疲れそうだわ。まだ具合が悪いと言って断ってもらえないかしら?」

 純粋で優しい心の持ち主のユーリンダが、このように嘘の口実を使ってまで人を避けようとするのは珍しい事で、ティラールは世間知らずな彼女の失礼な態度にも寛容に対応し、後で倒れてしまった彼女をひどく心配していたというのに、余程心証が悪いようだな、とファルシスは彼が幾分気の毒になった。ユーリンダは元々大袈裟な世辞を言うタイプの男が嫌いな上に、大切なアトラウスとのダンスに水を差されたと感じたのだろう。

「あと、ローズナー家のフィリア姫も見舞いに来られているんだが」

「フィリア?! 逢いたいわ! 昨夜はろくにお話しする暇がなかったもの!」

 フィリア・ローズナーは、ユーリンダの父アルフォンス・ルーンと同じ七公爵の一人スザナ・ローズナーの長女で、ユーリンダと同じ歳である。母と同じ、赤毛に翠のひとみの愛らしい少女だが、性格の方は控えめだった父親似であるらしく、闊達な母の傍では大人しく儚げな印象を与える。だがそんな優しい性格がユーリンダとよく合って、これまで幾度も聖都アルマヴィラに母に伴われて参拝する間にすっかり仲良しになり、頻繁に文をやり取りする関係だ。

「おいおい、ティラール殿を断ってフィリア姫に会う訳には絶対にいかないぞ」

「ええ~っ、フィリアはどこにいるの?」

「ティラール殿と一緒に応接室にお通ししてあるさ」

「まぁ、別のお部屋にすれば良かったのに」

「そんな事をしたってすぐ判るに決まってるだろ! それぞれ紋章付きの馬車で来られているんだからな」

 妹の浅慮に呆れながらファルシスは窘めたが、ユーリンダは自分の考えが特に馬鹿げたものだとは思わなかったので気にもせず、

「そうかしらね、まあ仕方がないわ。どうしたって、フィリアとお話ししたいもの。判ったわ、すぐ下りていくわ」

 と答えた。そして加えて、

「アトラは?」

「まだ休んでるだろ。僕だって眠いんだが、同席しない訳にもいかないな。全く、ティラール殿は元気だな。僕達が帰る頃、まだ踊っておられたのに」

「ファル、昨夜はアトラとずっと一緒だったの?」

「え? いや、帰る時までは別行動だったが? アトラは、ホールで交流のある年上の貴族達と会話を楽しんでいた様子だった」

 その間に自分は、さる伯爵令嬢と小部屋に入り込んでいたのだとは当然言わずにおくファルシスである。ユーリンダは兄のその答えに満足した様子で、

「そう、だったらいいの。アトラがファルと同じようにしたら嫌だもの」

「どういう意味だよっ!」

 乳母の前でもあり、思わずファルシスは赤面する。やましい気持ちがある為に強くは言い返せない。だが、

(ろくに意味も解っていない癖に……どうして僕がこんな風になったのかも……)

 とも思ってしまう。愛するひとと結ばれるのが、愛するひとと『だけ』結ばれるのが当然、と思い込んでいる妹のおめでたいおつむが羨ましくもある。ファルシスにとって、本当に愛している女性はひとりだけで、遊び人の評価は、そのひとに胸の内を明かせない苦しさを埋める為の行為に付随しるものに過ぎない、とは口が裂けても言えないし、言う気もない。本当はファルシスは、大恋愛の末にルーン家のしきたりを覆す結婚をし、今でもその身分に相応しからず母以外に一人も女性を持たない父に似て、一途過ぎるだけであった。言えば人は、そんな事、と笑うのは目に見えている。世間知らずな妹だけは『素敵だわ!』と応援してくれるのかも知れないが。

(だけどティラール殿はユーリィに求婚したいらしい。たった一度踊ったくらいで随分な入れ込みようだが、父上と宰相閣下のお考え次第でその願いはいつでも叶うのだという現実を、ユーリィも知っておくべきじゃないのか)

 ティラールもまた、遊び人の風評を持っている。一時の思い込みで結婚に至っても、毎日見ていれば美貌にもいずれ飽きるし、遊び慣れた男がいつまでもユーリンダの少女っぽい単純な思考に付き合っていられるとも思えない。結局は愛妾を作ってユーリンダを泣かせるかも知れない。自分は既に、ルーン家の嫡男として、父の決めた相手を妃とするのだと諦めているというのに、妹は、自分がそんな人生を送るかも知れない、とは夢にも思っていない。

 だが勿論、今はそんな事を言い聞かせる時ではない。階下で客人が待っているのだ。ファルシスの思いも、ほんの一瞬、心に浮かんだものに過ぎなかった。

「まぁいい、とにかくあまりお待たせしてはいけない。言っておくけど、フィリア姫とばかりお喋りしてティラール殿をほったらかすような真似をするんじゃないぞ」

「判っているわよ。マルタ、私の髪、ちゃんとなっているかしら? そう、ありがとう、じゃあ後でね」

 

 ……ひとの運命はほんの些細と思える出来事がきっかけで無限にその未来を変える可能性を秘めている。もしもこの朝にユーリンダがまだ不調で、面会が出来ぬままになってしまっていたら、或いはティラールの情熱は時が過ぎるうちに淡く美しい思い出に変わってしまったかも知れない。そうなっていれば、ティラールとユーリンダ、ファルシスの未来は全く別なものになったかも知れないのだ。ルルアの導きか否か……答えられる者はいない。

 運命の流れに巻き込まれたのは、ここに居合わせた者のうちの三人だけではなかった。フィリア・ローズナーは、ユーリンダとファルシスが応接室に入ってゆくと、ぱっと立ち上がって、

「ユーリンダ! もう起きて大丈夫なのね! 心配したわ!」

 と叫んだが、その頬は、室内が特に暑い訳でもないのに紅潮していた。

 良質として知られるシルクウッドのシリーン織の赤い絨毯が敷き詰められた広い応接室には、フェルスタンからの輸入品である、一本の大木から彫り出されて細かい意匠が施され白漆で塗り上げた大きなテーブルが置かれ、それを挟んでティラール・バロックとフィリア・ローズナーが供の者を背後に従えて差し向かいに座っていたようである。ティラールもすぐに立ち上がり、

「ユーリンダ姫、お加減はいかがでしょうか? 昨夜は大変心配致しましたが、どうやらお顔のお色もよくなられたようで」

 とそのままつかつかと歩み寄り、右脚を引いてやや大袈裟なお辞儀をした。

「ありがとうございます。もう大丈夫ですわ。人に酔ってしまいましたの。わたくし、あんなに大きな舞踏会に出たのは初めてでしたもの」

 ユーリンダは丁寧に受け答えしたが、その視線はティラールを越えて親友のフィリアの方に向かっている。一方フィリアは、ティラールがユーリンダに近づくと、心配げな瞳をぱっとユーリンダからティラールへ移し、離さなかった。その表情は輝きと憂いを同時に浮かべている。

(おやおや……)

 ファルシスには、ユーリンダと似て初なフィリアの想いがこの僅かな間に手に取るように判った。フィリアは、ティラールの紳士然とした美男子ぶりに恋に落ちてしまったようである。恐らくは舞踏会で目を奪われていたが、奥手の彼女の事ゆえに自分からは近づけずにいた所を、偶然にこの見舞いで同席して向かい合って話す機会が出来た事で、運命的なものを感じてしまったのだろう。フィリアの事は幼い頃から知っているし、元々子どもの頃は彼女はファルシスに恋していたのだ。遊び人の噂が立ってからは、彼女の夢を壊したらしく、すっかりよそよそしくなってしまったが、それも全て判りやすかった。ファルシスはフィリアのようなタイプは相手にしない。好感は持てるが、軽く手を出すとすぐに婚約者気取りになり、心がよそにあると知れるととんでもない大騒ぎになると、一度の失敗で身に沁みているからだ。

 フィリアの背後に立つ、護衛を兼ねた女騎士セシルは、やはり姫君の心を既に察している様子で、困惑した表情を浮かべている。


 だが、こうしたひとの心の動きに鈍感なユーリンダはまるでそんな空気に気づいておらず、ティラールに型どおりに挨拶を返した後は、にこにこしてフィリアに歩み寄り、

「わざわざ来てくれてありがとう! とっても嬉しいわ!」

 と友人の手をとって、心を込めて言った。

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