三月弥生
「久しいな」
闇の中で、身体が半分しか存在しない烏は、そう僕に話しかけた。
身体が……半分だ。
円形の半月島、その真ん中から国境でも引いたように、綺麗に西半分は森に覆われている。白い砂の東の大地と、暗く深い西の森。この島がどれだけ昔から半月島と呼ばれていたのかは分からないが、上空から撮影された半月島の姿は、「なるほど半月だ」という様相をしている。
暗く深い、西の森。
月明かりさえも遮る葉の下。
そのどこかに、そいつが居ることを、僕は知っていた。
あたかもその身で半月島の姿を体現しているがごとく。僕から見て身体の左半分は闇に溶けるが如く存在せず、右半分が白い羽に包まれている。
森が暗すぎるせいで、その断面がどうなっているのかは分からないが、そんなことは、この場では些細な問題だ。
なにしろ、僕の前に居るそいつは、この島に伝わる伝説上の――架空の存在のはずなのだから。目の前に見えている存在しないはずの生物の右半身が存在するのかしないのかなんてことは、どうでもいい、と切って捨てられる様なことだ。
「覚えているんだね、前に会ったのは、十年以上前の話だよ」
「そうだな、それも覚えている。その時に君」
半月烏は、一度言葉を止め、僕の顔を白い半身に光る血液色の瞳で見つめると、
「三月弥生が」
と、僕の名前を言い直して続けた。
「私に何を願い。誓ったのか。ちゃんと覚えている」
人間と違って、私は過去を忘れたりはしない。
最後は、僕にというより。口癖がこぼれた様な口調で、半分の烏は言った。なんとなく、責められているような気分になる言い方だったが、僕は文句を言えるような立場ではない。
なぜなら、僕はまた、半分の烏――半月烏に、願いを叶えてもらうためにここへ来たのだから。
「半月烏。もう一度、僕の願いを叶えてほしいんだ」
「前にも言ったとだが、私がするのは無償で願いを叶えることじゃない」
そうだった。昔、半月烏に会ったときも同じ事を言われた。けど、なんだっただろうか。
「う、うん分かってるよ」
「ならばまず願え」
そう言って、赤い目は僕を捉えたまま促す。
「僕の友達に、養子として育った女の子がいるんだ」
相手が烏だからか、人間相手では言い出しにくいことをすんなりと言葉にできた。
「家は結構裕福で、でも両親がかなり厳しいというか、厳格というか、とにかく堅いヒトたちで。なんかありがちな話なんだけど、彼女は今、家の都合で、望まない結婚に迫られてる」
だから。
……なんと願うべきか。
考えていなかった。
「僕は、」
友達と言っても、実は知り合ったのは最近のことで、彼女は東京に住んでいる、だから深い関係性があるわけじゃない。なのにどうして僕は、十年以上来ていなかった森の、半月烏の所まで来てしまったのだろう。
取り敢えず、衝動に駆られたとしか、表現の仕方が思いつかない。
けれど、
「彼女を助けたい」
でも、彼女自身がその結婚を全力で拒否したとしても、周りの人間が否定したとしても、それで婚約の話が破棄になったとしても。彼女には家――一族と言ってもいいかもしれない――の中で、立場がなくなる。
彼女自身にも、本当の子ではないという、負い目のようなものは常にある様だし、家柄も厳格高貴。婚約を破棄したとなれば、これからどうなるか、僕には想像が及ばない世界だ。
「彼女を助けてほしい。それが願いだ」
「わかった」
特に感慨もなく、白い烏の半身は了承してくれた。
「では」
そして、微動もせず。次のセリフに移る。
「対価だ。誓え」
そうだ、前回も言われた、思い出した。昔この烏に会ったときのことも、なんとなく思い出してきた。
「もし、願いが叶うというなら、これからは僕が彼女を守る」
自然とそんなことを言っていた。
言葉にしてから、自分がなんと言ったのか理解した。
まさか、烏と話していて、自分の気持ちに気が付くとは思わなかったけれど……。
半月烏は変わらず僕を、その赤い瞳で見つめている。僕の顔は、その赤に負けないくらい、発熱しているかもしれない。
しかし半分の烏は、なおも冷たくこう言った。
「わかった」