fragment:2 善行と背徳の対話(上)
暗い部屋の中、萌黄色に発光する液体で満たされた円筒形のカプセル内で、裸体の少女が浮遊する。その瞳は固く閉ざされ生命感の無い無機質な存在にも観てとれる。その傍らには、少女の顔をガラス越しに掌で覆う、法衣姿の男性が一人佇み哀願に近い物言いで浮遊する少女に語りかける。
「おぉ・・・全てに与えられし始まりの女神よ。貴女はいつ真に目覚め、匣として魔轟の歯車を紡ぎ、私たち憐れな民をアルカディアに導かれるのか・・・。」
「第六千七百八十二被検体血液、魔轟値零・・・不適合と判定。ラプラス陛下、次の被検体に移行しますか。」
「今日は、もう終わりましょう。これ以上の継続は彼女への負担が大き過ぎます。」
カプセルから大樹の根のように伸びるケーブルと繋がれた機材を前に数人の研究者が計器盤に映し出される数値を確認しながら、法衣の男性に落胆の結果を告げるが、それを受けた法衣の男は、動揺せず中断を宣言する。
円筒形のカプセルに満たされた液体は、鈍い金属弁の開閉音の後、大小連なる無数の気泡が上昇するに合わせ、下方へと排出される。その光景は、少女でありながらも、波間より生まれ立つ裸婦の女神にも似た幻想的な光景を生み出す。ゆっくりとつま先より降り立つ少女、全身を覆う水滴が光を乱反射させ、より一層の荘厳さを放ち気怠さを帯びた表情の中、閉ざされていた瞳が大きく開くのと同時にガラスの遮閉板が開閉された。
「此度も夢かなわずとはラプラス、貴様も憐れよの・・・。」
少女は、その容姿に似つかわぬ老女のような物言いで法衣の男を一瞥し差し出す手を払い除け、法衣の男とは別の跪く下位の者より齎された白布を大きく振り、風を纏うかのように軽やかに自身の裸体に絡みつけた。
「ラプラスよ、お前が幾ら切望しようと鋼の如き心より生ずる滾る剣を持たぬ者が現れぬ限り、鞘である私は、匣としての務めは果たさぬぞ。」
「全てに与えられし女神を満たす贄は、模糊の存在と認識しております故、それは砂漠に投げた一粒の種子を探すのと同等かと・・・。」
「一粒の種子とな・・・。」
「左様にございます。女神よ、この世に魔轟の理を人として内に秘め生ずる者が幾人居りましょうか。」
「だから、お前は憐れなのだ、ラプラスよ。先の贄亡き今、砂漠の種子が一粒では、それは無に同じ事ぞ。」
「女神よ、それは喩にございますれば・・・。」
「黙れラプラス! 彼の者の代わりなど存在せぬ。今の私は空の匣じゃ・・・。全てに与えられた筈の『モノ』を何もかも吐き出した用無しの空匣じゃ!」
「あなた様は、聖櫃にございます。我々すべての迷える民をアルカディアへと導く崇高な女神よ・・・。」
「世迷言を申すな・・・。ラプラスよ、もしお前がまだ、その理想郷を渇望するなら、この枯れた壺を満たすがよい!!今の私を満たすのは、数多の戦場で私に魅せられ絶命する男達の断末魔の滾る灼熱の鮮血のみぞ!」
法衣の男の言葉に激高した少女は、縋る法衣を跳ね除け、地に体を着く法衣の男を、軽蔑の眼差しで見据え、その身を包む白布より手を放ち自身の喉元に宛がい触れた指先を胸元へと進め淫靡に唇を舌でなぞり、少女には似合わぬ吐息にも似た笑い声をあげる。法衣の男は女神を見上げ、その甘露な姿に男として湧き上がる激しい衝動と獣に狙われ喰われる恐怖を覚えた子羊のような感情が入交その身を法衣の内で震わせた。
「ラプラスよ。私を萌えさせてみろ・・・。」
少女は胸に伸ばした手を、目の前で震える法衣の男の顎に伸ばし、子猫をあやすかのように指先で弄びながら、ため息交じりに囁き、続けざまに、突き放し冷やかにされど、狡猾な口調で自身の渇きを力強く、先ほどまで淫靡だった唇で言い放つ。
「お前が民の王で有るなら数多の戦場を私に捧げよ、鮮血果てた数多の屈強な男達の屍を積み上げ背徳の塔を築きアルカディアへの階段を示すがよい。」
法衣の男は、女神の言葉と振る舞いに、先ほどからの言い様の無い情動の渦に困惑しながらも抗えず、無知な少年が高揚し意味が分からず深い溜め息と共に果てるかの如く項垂れた。女神と呼ばれる少女は、その身に絡める白布を天上人の羽が舞うが如く翻し、暗いその部屋を立ち去って行く。深く息を吐き虚ろな目で、女神を見つめる法衣の男に兵士が駆け寄り、その身を起こす。
「陛下御無事で・・・。先ほど『不倒の鋼騎』ドルフ殿が謁見の為、王宮に馳せ参じられたとのことです。」
「大事ない! ドルフは玉座の間にて待たせて置け。」
兵士の肩を跳ね除け、一括したのち自身で立ち上がり法衣の男もその部屋を後にする。部屋には数人の研究者達が次に備え、計器の調整を何もなかったかのように淡々と進めていた。
・・・玉座の間
重々しい扉を抜けた先には、丁寧な細工の施された柱が並び水鏡のように磨き上げられた自然石の床面には、真紅の厚く起毛した絨毯がこの国の建国よりの歴史の如く、主の不在にも統治者の威厳を放つ壇上の玉座へ向かい伸びている。
不在の玉座を何度も眺めては深く息を吐く老騎士と、その行動を幾度となく宥める術者姿の青年。
「呼びつけておいて、こんなにも長い時間待たせるとは、現王も偉くなったもんじゃの。」
「ドルフ殿、お気持ちは察しますが、そのような発言は控えられた方がよろしいのではないでしょうか。」
「何がじゃ? ワシは隠居のみで有りなが、らわざわざ老体に鞭打ち呼び出しに従い参って居るのじゃぞ。」
「それは、もう何度も伺っております・・・。」
老騎士の怒りが今にも爆発しそうな重苦しい空気の打開策を幾度も模索する青年術者。
「しかしじゃな・・・、どうもワシは、あのビューンっと全身が歪んで伸びる感覚が慣れんでなぁ・・・。」
「ドルフ殿それは、移送転移魔法のことでしょか?」
「お主たちの言う事は、よく分からんが、あの体の中身をグッと引き抜かれて戻される感覚がな・・・。」
青年術者は、老騎士の興味がずれたことに安堵し、思考を王の到着より逸らすため、ここぞとばかりに話かける。
「ドルフ殿は、この国を冥幻獣進軍より救った『英旗八将』の御一人。英騎の紋を持つ『不倒の鋼騎』が何と弱気な事を申されます。」
「なんじゃお主、若いのにえらい昔の話を知っておるな。」
「小さな民から年老いた民まで全てが知ることですよ。この国には、『英』の文字を頭に持つ『輝・祈・姫・機・悸・騎・牙・揮』八将が、英旗を翻す如く、全ての禍を振り払い守護すると。」
「おとぎ話じゃよ・・・。」
「いえ、現に今私の目の前にはドルフ殿が居られます。」
「お主も、こんな老いぼれに夢を見るか。しかしな、何もワシは英旗を望んだわけではない。誰しも守るべきモノが出来た時に、英旗となるのじゃよ。そうお主もな。」
「私が英旗にですか。私には、そんな力はありませんよ。」
「何を言うか、ワシには、お主のような魔法の力も、ましてや魔轟の力もないのじゃぞ。ワシに有るのは、この老いた体のみじゃて。」
そう話す老騎士の立ち姿は、青年術者の目に歴戦の傷を身に刻みながらも、威風堂々と聳える大樹の如く映るのであった。
「ドルフよ、お前は相変わらず殊勝な性分のようだ。その力を誇示せぬ生き方が民の信頼を呼ぶのであろう。」
法衣を靡かせ、壇上より言葉をかける男が現れる。青年術者は、慌てて声の主に対し跪くが、老騎士は法衣の男の歩みを、ゆっくりと目で追いながら、法衣の男が目の前に進んだのを確認したうえで、悠然とその膝を折り屈みこむ。
「ドルフよ変わりないか。お前が隠居して久しく、話し相手が居らぬので、退屈であったぞ。」
「ラプラス陛下もお変わりなく。老人の戯言など陛下のお耳汚しにもなりますまいて。」
当たり障りのない王と騎士の会話ではあったが、傍らの術者には鉛のような鈍く重い空気が二人を包むのを感じた。
「術者よ、お前はもう下がってよいぞ。」
その言葉に、青年術者は深く王に一礼し玉座の間を去りながらも騎士の身を案じるのであった。