SIDE:12
その日は珍しく、朝から酷い雨が降っていた。
一年を通して温暖な気候であるロスヴィータ王国では、水不足にならない程度の雨量はあるものの、こうして天候が荒れることは滅多にない。
それこそ、視界を案ずるような土砂降りなど年に一度あるかないか、だ。
(遠出をした時に限って、厄介な天気にあたってしまったな)
馬車の窓を叩く激しい音を聞きながら、男…クラッセン元公爵は深い溜め息をついた。
とは言っても、今日この地に来ているのも自ら選んだこと。
爵位を息子に継いで久しい高齢の彼だが、その在位時代には数多の功績を残しており、今もなお各地で彼の助言を乞う声はとても多い。
そんな声に応えるべく、子や孫の心配を振り切ってあちこちを飛び回っているのだ。いまさら天候ごときに愚痴を言っても仕方ないだろう。
元公爵を乗せた二頭立ての馬車は、激しい雨の中でもまっすぐに街路を走って行く。やがてほんの少し雨足が弱まってきた辺りで、景色に緑が増えていることに気付いた。
確かとある子爵領だったか。
やや田舎寄りに分類されるこの辺りは、爵位の割りに与えられた土地が広く、その栄養豊かな土壌を利用した農業・畜産業が主だったはずだ。
流れていく景色も家と家との間隔が広く、代わりにとても緑が多い印象を受ける。彼が住まう王都近郊とは違う、穏やかでのどかな景色。
だが、あいにくと今日の空はこんな荒れ模様だ。農業関係者ならば懸念すべき事態だろうが……
「ふむ、なるほど」
ちらほらと伺える住民たちは皆、畑を気にしたり呼びかけたりはしているようだが、その様子に慌てや不安などは見受けられない。
馬車に乗っている彼同様に『厄介な天気だな』と苦笑しているだけだ。
つまり、水路などをはじめとして水災害の対策がきちんととられているのだろう。
そして、それらの対策……為政者たる領主を信頼している。
(田舎ではあるが、ここは良い地のようだな)
思わず笑みを浮かべる彼に、向かいに座った従者も『この辺りは食べ物が美味しいと評判ですよ』とやや楽しそうに告げる。
悪天候で距離を焦っても仕方ない。ならば、今日はこの地で宿をとり上手い食事を堪能させて貰おうか。
天候のせいで沈みきっていた空気を一掃するべく提案に、二人はまた顔を合わせて穏やかに笑った。
* * *
馬車を走らせること数十分。
また強くなってきた雨に視界を気にし始めた頃、突然激しい馬の嘶きが響き渡った。
ガタガタと揺れる地面と御者の慌しい声、今のは自分の車の馬の声に違いないようだ。
「何ごとだ!?」
主人の体勢を確認してから、従者は険しい顔で車を駆け下りる。
馬車が向かおうとしていたその道のど真ん中には……若い女が一人跪いていた。
物乞いの類かと思ったが、よく見れば違う。豪雨でずぶ濡れではあるが、彼女の装いは平民のもの…いや、それよりも更に上等な装丁に見える。
亜麻色の長い髪の下には白い肌、傷があったり汚れていたりすることもない。
そして、視界もままならない悪天候の中で彼女は“跪いて”いるのだ。転んでいるのでもしゃがんでいるのでもない。地位の高い者へ敬意を示す姿勢にて、ただ静かに佇んでいる。
「……何があったのかね?」
思わず顔を出した元公爵に、ようやく女は顔を上げる。少し大きめの眼鏡をかけて、人好きのする微笑みを浮かべて。
「ご無礼をお許し下さいませ、クラッセン元公爵閣下。多忙な貴方と私がお会いするには、もはやこの手段しかなかったのです」
その声はハッキリとよどみなく、そしてまた深く頭を下げる。
だが、彼女がその名を呼んだことでその場の空気は即座に張りつめた。
彼は『元』公爵であり、隠居生活を送っているはずの人物。今現在乗っている馬車も仕立ての上等さは伺えるとは言え、そこに家を示す紋などは一切入っていない。
ましてや、彼の予定は近しい者以外には知らせておらず、この視察も抜き打ちの意味もかねて行っているため、目的地の者でさえも具体的な彼の位置は掴んでいないのだ。
にも関わらず、女は彼の名を躊躇うことなく呼んだ。
それの意味するところは、クラッセン公爵家にとって二択。家の者か、公爵家に仇なす者か……
「………君は誰だね、お嬢さん」
たっぷり数秒の間を空けて、元公爵自らが名前を問う。勿論従者は彼の傍でその身を守るように立ち、御者も後ろ手に何かを構えて女を伺っている。
女はほんの少しだけ苦笑すると、胸元から何かを差し出した。姿勢はいまだ跪いたまま。
警戒しつつ御者が近づき、それを受け取る。銀製の鎖のついたそれは、ごく普通のペンダントのように見える。先には大きなメダルがついており、中央に刻印されているのは『伝書鳩』の絵柄。
それを主人に差し出せば彼は目を見開き、そして従者たちに警戒を解かせた。
伝書鳩はクラッセン公爵家の家紋ではない。また、彼らが知る貴族の紋のどれとも一致しないのだが…
主たる元公爵は制止を振り切って女の近くへ駆け寄ると、自分の上着を彼女にかけた。
『顔を上げてくれ』と。まるで身内のように心配そうに声をかけている。
「有難う御座います、閣下。実は貴方に、この地で会って頂きたい人物がいるのです」
優しく触れる老いた手を労わりながら、亜麻色の女はまたゆったりと微笑んで返す。けれどその目には、強い意志を見せて。
「ここは確か……『クラルヴァイン子爵』の治める地だろう。私は彼の家と関わりはないはずだが? それとも、別の誰かかね?」
「いいえ。いいえ、閣下。あるのです、子爵家に。貴方にはなくとも……
貴方の“孫娘”に」
そう、はっきりと彼女が口にした瞬間、彼はまたこぼれんばかりに目を見開き……そして、数秒の後に深く頷いた。
『やはり、貴女は本物のようだ』と。
クラッセン元公爵には三人の息子がいる。
後を継いだ現公爵の長男をはじめ彼らは既婚であるが、その子らもまた“男児しかいない”
男家系なんだと苦笑していた主人は、けれど今確かに女に頷いて返していた。
戸惑う従者たちに振り返ると『予定が変わるよ』と、男はいつも通りの様子で告げる。
その老いた身には似つかわしくない、強い意志を魅せる瞳で。
それは、激しい雨の降る日のこと。
王立魔術学院の卒業式まで、残り一月を切った、ある日のこと。




