47:これから
あれから私たちの日常は、穏やかにゆるやかに過ぎていった。
懸念していた他の適正者の登場もなく…もしかしたら、クラルヴァイン家が何かしら動いてくれたのかもしれないけど…私は今まで通り平凡な院生生活を続けている。
例の演習試験の結果を受けて、攻撃的な女子もかなりいなくなった。
まあ、多少睨まれたり陰口言われたりはしているようだけど、命の危険がないのだから気にすることもないと思う。そうモニカに言ったら、短期間で随分強くなったわねと苦笑されてしまった。相手が相手なんだから、こればっかりは仕方ないことだ。
さて、周囲は落ち着き邪魔はされなくなったのだけど、私たちが進展したかと問われれば……残念ながらしていない。と言うのも
「あれ、先輩今日も駄目なの?」
「うん、また実家関係で欠席みたい」
「また長いわね。もう十日ぐらい経ってない?」
昼休憩になってすぐ、扉でなくモニカを迎えに行った私に、相方は少し肩をすくめて返す。
そう、ギルベルト先輩は今年卒業する最高学年。加えて、魔術名門家と次期子爵と言う二重肩書きを継ぐ極めて多忙な身の上なのだ。
本来ならば引き継ぎなりに集中するべき年頃である。その時期に学院に在籍しているのだから、当然卒業した後には多大なツケを払わなければならない。
すでに色々と間に合わなくなってきているのだろう。この所先輩は欠席が多く、もう何日も顔すら見ていない。
こう言う部分は『身分を問わず』とうたっている割に、学院は貴族に対して優しくないと思う。わざとなのかもしれないけど。
とにかくそんな状態なので、周囲は落ち着いているにも関わらず、二人の時間は取れていないのだ。
寂しくないって言ったら嘘だけど、こればかりは私が口を出せる問題じゃないし、ワガママを言って困らせたくもない。
それよりも彼の体の方が心配だ。ちゃんと食べているだろうか、休んでいるだろうか。
「……見事なまでに心ここにあらず、ね。ご飯食べ損ねるわよ」
「え? あ、ごめん」
はっとすれば、眼鏡越しに心配してくれているモニカの目。意識を切り替えれば、昼時の食堂の喧騒が戻って来た。
「意識飛んでるわよ。なに、考え事?」
「先輩大丈夫かなーってちょっと心配になってさ」
「そこですぐそう言う台詞が出る辺り、アンタ恋人の鑑よね。先輩もこんないい女ひっかけて幸せ者だわ」
呆れたように笑いつつも、ポンポンと私の頭を撫でてくれる。
寂しいって騒がないで済んでいるのは、こうしてモニカが気を遣ってくれるからなんだけどね。
「有難うモニカ。ボーっとしちゃってごめんね」
「あたしは構わないけど、食事はちゃんと摂りなさい。彼が心配なのはわかるけど、そんな理由でアンタまで体調崩したらただのバカよ」
「おっしゃる通りです」
ほとんど手付かずだったご飯に、慌てて口を付ける。
本当にモニカの言う通りだ。先輩の事情には手を出せないのだから、私は元気で彼を待っていなくちゃいけない。
それこそが、今の私に出来る最善なんだから。
(そう、頭ではわかっているんだけどね)
平皿に小さく切り分けられたお肉は、彼がよく食べていた日替わりランチだ。こんな風ではなく、もっと綺麗に分けていたけれど。
窓辺の『いつもの席』は空いたまま。見慣れた風景に、彼が足りない。
「……寂しいと思うのは、仕方ないよね」
「…そうね」
* * *
そうして、ところどころぼんやりとしたまま、今日も一日が終わる。
こんなの二年生だからこそ許される態度だろう。実技授業が多い上級学年だったら、怪我では済んでなかったかもしれない。
それぐらいに我ながら重症だ。恋愛とは正に病気ね。
モニカは私の頭を撫でてから『いつでも愚痴は聞く』と笑って言い残し、先に寮へ帰って行った。恐らく気を利かせてくれたのだろう。
他のクラスメイトもそれぞれに教室を出て行き、気が付けば残っているのは私一人だけになってしまっていた。
(……何やってるんだか)
嘆息して視線を上げれば、窓の外が青から赤へと変化していく。
濃いオレンジ色の陽が世界を染め上げる。この時間は、やっぱり少し特別だ。彼と出会ってからは、特に色んな出来事が起こっていた時間だから。
(うわ、なんだか既視感)
誰もいなくなった教室に一人。強い夕日の光と長く伸びた影。
そう言えば、あの時は確か…本を読んでいたんだったか。友達に薦めて貰った小説が思いの外面白くて、つい集中して読んでしまって。
(気が付いたら一人だけになってて、驚いたのよね)
帰らなきゃって片付け始めたところに、急に知らない先輩が入って来て……
「“見つけた。捜したぞ、メリル・フォースター”」
ぐるん、と。回転する視界。
窓を見ていたはずの目は、いつの間にか天井を見上げていて、
更にその視界を、綺麗な男の人が遮る。
濃いオレンジ色の世界において、なお他を圧倒する刃のような青銀。
整った輪郭の内側には、すっと筋の通った鼻と抜群の位置で引き結んだ唇。
そして、私の間抜けな顔を映す金色の瞳。
……かつてとの決定的な違いは、その瞳には確かに熱があり、穏やかに微笑みながら私を見つめている。
机に倒された体も痛くないように配慮されているし、縫い付ける手も動かしたらすぐに外れた。
「……名前を、聞いた方が良いですか?」
「酷いな。もう俺の顔なんて忘れたか?」
眉を下げながらも、微笑みは崩さない。私が伸ばした手を受け止めて、掌に静かに唇を寄せる。
触れ合った部分がとても温かい。ああ、先輩の体温だ。
「逢いたかった」
「ああ」
長い影が重なる。
挑発でも寸止めでもなく、深く深く唇を重ね合わせて。
首筋に腕を絡ませれば、彼も抱き締めて応えてくれる。逢えなかった時間を埋めるように、何度も何度もキスをして互いを確かめ合う。
熱くて痺れるような感覚がたまらなく愛おしい。
ほんの数日間のことだ。何があった訳でもない。ただ彼に逢えなかっただけ。
なのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのか。目頭が熱いのか。
「…メリル、泣いているのか?」
唇を離した先輩が、少し驚いたように聞いてくる。
大きな掌が触れた頬は、確かに濡れているようだ。
「泣いてるみたいですね」
「悪い、嫌だったか? 苦しかったか? つい流れに任せてキスしたんだが…」
途端に、彼は鋭い雰囲気を霧散させて、おろおろと私の顔を覗き込む。大丈夫か?と何度も繰り返す様子は随分と初々しい。何この可愛い生き物。
大丈夫、と言う意思表示も兼ねて、彼の広い胸板に顔を埋める。彼の体温、彼の空気。少し早い鼓動の音さえ、たまらなく心地よい。…だからこそ、また涙が溢れてくる。
「メリル?」
「逢えないの、寂しいだけです」
自分で口にしておいて、また鼻の奥がツンとした。
そうなのだ。今はたった数日逢えなかっただけだ。こうして、先輩は私の所に来てくれた。抱き締めてくれている。
けど、来年には…彼はここにはいない。
彼の足りない風景が当たり前になってしまう。私の卒業まで、まだあと四年もあると言うのに。ギルベルト先輩が足りない。四年も逢えない。
「……わかりきってたことなのに、数日で堪えてたものですから。考えたく、なくて」
話している間にも、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。
なんて幼稚な考え。17歳にもなって、こんなことで泣く日が来るなんて。
そもそも、私みたいな劣等生がこの学院に居られるだけでも奇跡に近いと言うのに。自意識過剰も大概にしろ。ちゃんと卒業出来るかどうかも危ういのだから。
(わかってる。わかってるけど…!)
それでも涙は出るのだから仕方ない。
今の私はこの人が好きで好きでたまらないのだ。他のことなんて、考えてられる余裕がない。
逢えなくなる未来が、とても辛い。
ひとしきり喋りきって、彼の胸に頭をこすり付ける。……と、頭上からふってくるのは噛み殺した吐息。
ゆっくり顔を見上げれば、ギルベルト先輩は何故か笑いを堪えて肩を震わせていた。
「ちょっと…幼稚なのは自覚してますけど。何も笑わなくても……」
「あ、いや…くくっ…悪い、違うんだ。バカにしてるとかではなくて。メリル可愛いなあ、と。あと、俺頑張って良かったと思って」
後半にいくにつれて、声のトーンが甘くなっている。頑張ったと言うのは、家の引継ぎのことだろうか?
あまり働かない思考を巡らせていると、先輩は懐から何かを取り出し、私に差し出した。
「封筒?」
高そうな白地のそれには、学院の封蝋が押されている。一度開けた跡があるので、確認してから私も中身を失礼する。
同じく高そうな厚い紙にも学院の印。正式な書類のようだけど…
「研究生制度登録証? なんですか、これ」
「あ、二年生は知らないのか」
達筆な字で記載されたそれには、先輩の名前がしっかりと入っている。よくわからないので丁寧に畳んで返すと、先輩は微笑みながら説明をしてくれた。
「『研究生制度』と言うのは、主に学院の教師を目指す院生を対象とした制度だ。一定以上の成績を修めている者にだけ与えられる権利で、卒業した後も自由に学院に通うことが出来る」
「………」
学院に、自由に、通う?
「ここは国内屈指の研究施設だからな。卒業後にも利用したいと言う奴はとても多い。教師を目指す連中は、実地訓練もさせて貰えると言う訳だ」
「え、ちょっと待って下さい? 先輩は先生目指しているんですか?」
「いや、俺は家を継ぐから。まあ、さすがに毎日は来られないけどな」
動揺する私をからかうように、ニッと白い歯を見せて、笑う。
「悲しんでるところ悪いが、来年からも俺は学院に居る、と言うことだ」
とりあえず、メリルが卒業するまではな、と。
極上の笑みと共に告げられた言葉に、私は今度こそ全力で彼に抱き付いた。
二、三歩たたらを踏みつつも、受け止めてくれた先輩はしっかりと抱き締め返してくれる。大きな手で、私を離さないように。
「登録証を取るのも面倒だったが、親類の説得はもっと面倒だった。おかげで、ここしばらくメリルに逢えなかった」
「…はい…はい……っ」
「でもまあ、喜んでくれたなら苦労の甲斐もあった。悪いが、手放してやるつもりはない。四年も待ってたまるか」
「…はい、先輩!」
顔を見合わせて…私は多分涙でぐちゃぐちゃだろうけど…額をくっつけて、また笑う。
この温かさと、まだずっと一緒にいられる。悲しかった涙は嬉し泣きに意味を変えて、また頬を伝っていく。
「メリル、好きだ」
「私も、貴方が大好きです」
始まりと同じオレンジ色の日差しの中。
長く長く伸びた二つの影は、最後の鐘が鳴るまで重なっていた。




