12:過去と好みと困惑と
※今回ちょっと長めです
『別れ』は、きっと悲しいことなんだと思う。
恋人なんて居たこともない私には実感がわかないけれど、好きだった人、特別だった人との関係を終わらせなければいけないのだ。
たとえ、それが初めてでなくても、悲しいことには変わりないんだろう。
私だって、モニカといきなり友達を辞めることになったら…すごく悲しいし嫌だ。
『友達』と『恋人』では、色々と違いもあるだろう。
らしからぬ台詞を呟いた先輩は、それから黙ってしまった。
髪を撫でていた右手は離れていたけれど、代わりに私の指を二本だけ掴んで、ぼんやりと遠くを眺めている。
少しでも力を入れたらほどけるような、ささやかな絡み。やっぱりらしくない行動を取られて、なんとなく振りほどけないでいる。
渡り廊下の低い壁にもたれて並んで、どれぐらい経ったろうか。長い時間ではないはずなのに、その沈黙はなんだか妙に苦しかった。
「……悪い、こう言う空気にするつもりはなかったんだが」
やがて、またぽつりと落ちた声は、やっぱり覇気がなかった。
“参考なのにな”と続ける弱々しい彼に、首を横にふって返す。
「私こそ、すみません。何の考えも無しに…聞かれたら嫌なこともありますよね。ごめんなさい」
「いや、大したことじゃない。何と言うか、メリルにどう話したものかと考えていただけだ」
再度こちらに向き直った金眼が、ふわりと細められる。
ああ、本当に。ツリがちな鋭い目なのに、笑うとすごく優しい形になる。
不本意ながら、この目は好きだなあ…いや、目の形がね。
「今更お前に嘘をついても仕方ないし、そのまま話すことにするか。元々、参考の話だしな」
絡めた指先が少しだけ深まる。眉を下げる彼をとっさに止めようとしたが、やんわりと制止されてしまった。
忌々しいぐらいの天然男が、やっぱり年上なんだと確認させられる仕草だ。
こう言う時折見せる部分が、反則なんだこの人は。
「……とりあえず、お前が思ってそうな『俺』の言い訳からな。
俺にはいわゆる取り巻きも居たし、『そう言う関係』だけだった女が居たことも否定しない」
立場的な意味もあってな、と付け加える彼は、やはり少し寂しそうに感じる。
クラルヴァイン家を考えれば、ある意味それは当然なんだろう。口を挟むのも憚られたので、頷いて返しておく。
「けど、そう言う女は最初から“それだけ”を望んで近付いて来たヤツらだけだ。
俺に飽きたら何も言わずに他へ行ったし、正直なところ、その関係に最初はこっちがショックを受けていた」
・・・・・・・。
ちょっと想像はつかないが、まあそう言う体だけを望む女性もいるんだろう。
女の側にも性欲はちゃんとあるだろうし、未経験の私がわからない世界を否定するつもりはない。
大丈夫か?とちょっと意地の悪い聞き方をされたので、とにかく続きを促して赤くなったであろう顔はそむけておいた。
「悪い、気分のよくない話だろうな。まあ何だ、あの女達にとって、俺に口説かれるのは優位性みたいなものらしい。
薄っぺらい言葉で自尊心が保たれるのなら、男として協力はするようにしている。それだけのことだ」
「…そりゃ、先輩みたいな美形に口説かれたり、そう言う関係ともなれば、自慢話でしょうけど」
わからなくもない。わからなくもないが、たかが自慢話のために体を呈する気にはならない。
この辺りは処女とそうでない人達の違いなのかもしれない。
「そりゃどうも。メリルに認めて貰えるなんて光栄だな」
「ハイハイ感情が微塵もこもってないですよ。それで、自慢の続きは?」
「……こんなしょーもない俺だが、恋人になって欲しい相手がいれば、もちろん一線は引いてきた。
感情を込めて、相手を想って接して…いたつもりだったんだけどな」
軽い返され方をしたので続きを促してしまったけれど…直後にちょっと後悔した。
前半の口調とは別人かと思うほどに、ひどく重い音が続いたからだ。
慌てて口を塞いだけれど、気にするなと目で伝えるように先輩は微笑みを浮かべてくれた。
「残念ながら、好きになった相手に関して、自慢出来ることは一つもないな。
言われた言葉はいつも同じ、『思っていた性格と違う』だ。どんな予想か知らないが、そんなもの俺が知る訳ないだろう」
少し低くなった声に、何も返せなかった。
二日ほど前に、私も同じような感想を抱いたのは確かなのだから。
「期待に添えなかった俺も悪いのだろうけどな。あの女達はそこから俺に冷めて…失望もしたんだろう」
「し、失望って…ちょっと想像してた性格と違っただけでしょう?」
「さあ? もしかしたら、俺をオウジサマか何かとでも思っていたのかもしれないな。
自分で言うのも何だが、割と名の知れた家の出で、それなりの容姿と実力。外的要素は悪くない。中身はご覧の通りだが」
さっきから、意外なものばかりが目の前に出てくる。
先輩の顔はずっと微笑んでいるけれど、声は低く、さらに自嘲の色が濃い。
今日の昼までの彼は、周囲を気にせず、自信溢れた態度で振舞っていたはずなのに。
(どうして私は、こんな様子の先輩と対峙しているのだろう)
何を言ったらいいのかわからなくなって、半分開いていた唇を閉じる。
先輩のきれいな微笑みを、なんだか見ていられない。
「…俺に冷めているくせにな。なのに、女達が次にとる行動も決まって同じだ。
すぐに別れてくれればいいのに、俺の傍に居続ける。クラルヴァインへの繋がりが欲しいのか、あるいは俺と言う『装飾品』を置いておきたいのか。
好きだったはずの人が、『それだけの女』と同じになる瞬間は、何度やられても楽しいものじゃないな」
吐き捨てるような言い方だった。
惚れっぽいと言っていたように、彼はその人をちゃんと『好き』になっていたのだろう。
その人に、自慢話のネタのひとつとして扱われる…それがどんなことなのかは、やっぱり私にはわからない。けれど
「……その人たちは、予想外だった本当の先輩を知ろうとはしてくれなかったんですか? 先輩を好きだからこそ、恋人になったんでしょう?」
「そうしてくれなかったから、別れたんだ。俺だって彼女を知ろうとしたし、俺を知って欲しかった。過不足はあったかもしれないが、努めたつもりだ。
…結局のところ、恋人だと思っていたのは俺だけで、あいつらは最初から俺を『そう言う男』としてしか見ていなかったのかもな」
言い切った先輩は静かに息を吐いて、細めていた金眼を完全に閉じた。
自分が逃げるための作戦を実行していたはずなのに…私は、なんだかとんでもなく面倒な部分に触れてしまったようだ。
少なくとも、目の前で少し肩を落としている彼は、私が想像していた『モテまくりで女に困ったことなんてない面倒な美形貴族サマ』ではないようだ。
年相応の、それこそどこにでもいそうな、一人の男の先輩だった。
出自と容姿のせいで、不幸体験二割増し、ぐらいの。
(なんだかなあ…)
こんなはずじゃなかったのに、なんて後悔してみても、聴力総動員してしまった先輩の恋愛話は、しっかりと耳と頭に残ってしまっていた。
* * *
「…悪かったな、メリル。つまらん話をしてしまった。俺の好みの話だったのにな」
「いえ、良い人生勉強になりましたよ」
それから数分後、目を開いた先輩の顔は見慣れたきれいな無表情を浮かべていて、内心ホッとした。
つまらないキッカケで過去の傷をえぐってしまっていたらどうしようかと思った。
「先輩みたいな美形モテモテ男っぽくても、世の中上手くいかないもんですね」
「世の中そんなもんだ」
「ですね。私、ずっと独り身でいい気がしました」
「それは困るな」
流すように淡々と喋っていたのに、最後の台詞はちゃんと乗ってきた。チッ、そこはそのまま流そうよ先輩。
軽く絡めていたはずの手が、あからさまにしっかりと握り直される。
お互いに指先が冷えていたのだろうか。温度を分け合うようにしっくりと馴染んで、余計に居心地が悪い。
変な話を聞いた後だからか、振り払うのも躊躇われるし。どうしたもんか…
かける言葉が見つからず、繋いだ手を見つめていると、頭上から笑い声が降ってきた。
のどを鳴らすそれは、堪え切れなかった系の声だ。
「……先輩?」
「いや、悪い。メリルはやっぱりいいなあと思って」
視線を上げれば、何とも楽しそうな姿。
金眼を糸のように細めて、口を開けて貴族らしからぬ笑い方をしている。
「何がそんなに楽しかったですか? 失礼な」
「メリルが楽しい。傍に居ると、すごく楽しい」
「はあ?」
思わずガラの悪い声が出てしまったが、ご容赦頂きたい。
人を見てケラケラ笑うような失礼な男に、礼儀なんていらないだろう。
「……メリルがいいな、俺」
苛立ってきた心を口にしようとした矢先、先制攻撃とばかりの声。
「……は、い?」
思わず聞き返した声はマヌケだったかもしれない。
けれど、そうなるのも仕方ないぐらいに、彼の声は凶悪だった。
……凶悪に、優しかったのだ。
「メリルがいい」
一つ、一つ大切に。
そう感じるほどに柔らかく、耳に吸い込まれた音に、言葉を返せなかった。
頬に集まってくる熱がうっとうしい。
「本題の好みの話だ。脱線してしまったが、俺の好みはやっぱりお前だよ。クラルヴァインは関係なく、俺がお前がいいと思ってる」
私が反応しないのをいいことに、繋いだ手を口元に持ち上げると、音を立てて口付ける。
食堂で見せられたあの『作った肉食獣の顔』でなく、私が好きな自然に笑った顔のままで。
「メリルの傍にいたいな」
だめか?と動いた口唇を読んだ瞬間に、体の毛が逆立つ気配がした。
「………ッッッッ!!」
慌てて手を振り払って距離を離す。
見なくてもわかる。きっと私の顔は今真っ赤だ。心臓の音だって、びっくりするほどうるさい。
でも、それがとにかく悔しくて、出来る限り強く先輩を睨みつける。
なんで、どうして今、そんな顔でそんなことを言うんだ。反則過ぎる。欲しいのは体質だけのくせに…!!
「……信じられないだろうな」
「当たり前でしょう…ッ!」
吐き出した声はちょっと裏返ってしまったが、気にしていられない。
こちらを見つめる金眼が、まだ優しい微笑みを浮かべたままなのだから。
今すぐ逃げ出したい。けど、それは負けた気がして…目を逸らせない。
「俺も正直不思議に思っている。さっき話した女達の時は、瞬間に『好きだ』と思ったからな。
けど、メリルは違う。電流みたいな強い感情じゃなくて、もっと一緒に居たいと思う感じだ。もっと話したい、長い時間を共にしたい。じわじわと、温かい。
何だろうな、これ。苦痛ではないから、好みだと思ったんだが?」
「違います絶対違います。貴方は私の体質が欲しいから、私を懐柔しようと無意識に動いているだけです!」
「……そんな器用な男に見えたか?」
一歩、また一歩とゆっくり近付いて来る。にこにこと笑みを浮かべたままで。
逃げようとしているのに歩幅が違い過ぎて、離したはずの距離が縮まっていく。
「今まで好きになった相手は、皆向こうから俺の所に来たヤツばかりだった。よく考えれば、その時点で俺の見方なんて偏っていそうなものだな。
……けど、メリルは違う。俺のことを全く知らなくて、関わりを拒絶しているぐらいだ」
コツと、直前に迫った足音が妙に響いて聞こえる。
彼との間はすでに半歩もない。
「ひ…っ!?」
逃れたはずの右手が再び私の手を絡め取る。
空いていた左手は腰に回されて、半歩の距離をゼロへと引き寄せる。
こわい、逃げたい。なのに、動けない。
なんで? 心臓がうるさい。先輩の目に映る私は、驚きよりも恐怖よりも、羞恥に震えていて
「…大恋愛をするなら、俺はメリルとがいい。
何も知らない周りの人間より、本人の言葉の方が信用出来ると思わないか?」
・・・・・・・・・・・・。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
あんなに熱かった顔が、たった一言で何も感じなくなっていて。
まるで幼い悪戯っ子のように、思い切り笑った彼の次の言葉が、気付きたくない事実を突きつけてくれた。
「『恋愛大作戦』だろ? ただし、俺の相手はお前でな」
「――――――!?!?!?!?」
ああ人間、発音出来ない声って出せるものなんだね…!!
目玉が落ちそうなぐらいに見開いて、驚愕に震える私を、今度こそ悪戯小僧の顔で先輩がゲラゲラと笑いながら抱きしめた。
おまけに人の背をばんばん叩いてくれる。痛いよ何すんだよ!!
なんだ、つまり、参考とか何とか言って……気付いていたのですね!!
「い、いつから気付いてマシタ?」
「最初からだ。帰ろうとしたら神妙な顔つきのメリルが人を回っているのを見てな。何の相談かと思ったら、俺の好みがどうとか。気になったんで、ずっとつけて来た」
「本当に最初からじゃないですか!!!!!」
私の慌てふためく姿が余程面白いのだろうか。
わざわざ顔が見られるように抱きしめた腕を緩めて、またゲラゲラ笑ってくれている。
こ、この男…ッ! どれだけ失礼なんだ全く!
「……売店に用は?」
「何も買っていないだろう? そもそも、俺は手ぶらだぞ」
ホラ、とご丁寧に上着やズボンのポケットまで見せてくれた。財布はもちろん、銅貨の一枚も出て来ない。
この嘘つきいいいいい!!!
怒りをぶつけるべく自由な右手を振り上げれば、下ろす前に腕の中に封じ込められる。
ぽふっと響いたマヌケな音は、私が胸板に顔をぶつけた音だ。
「先輩の嘘つき! バカ! 信じられないッッ!!」
「信じられないのはこっちだメリル。何が悲しくて口説いている張本人に女の世話をされなきゃならんのだ。嫌味か? ああ?」
くぐもってしまう私に対して、ハッキリと落ちる頭上からの声はもう笑っていなかった。
むしろ、少し怒気をはらんで聞こえて、一瞬ひるんでしまう。
だって仕方ないじゃないか。
私は貴族社会に巻き込まれたくないし、これなら先輩も幸せになれると思って…
「それに、俺が嘘をついたのは知らないフリをした部分だけだ。
つまらん長話もそれに加えた俺の本心も事実だし、お前を好ましく思ってるのも本気だ」
押し付けられた腕がまた少し緩んで、上半身が動くようになる。
顔を上げれば、見計らったかのように先輩の額がこつんと触れた。
「俺は、お前がいい、メリル。
俺にクラルヴァインを捨てたくなるような、大恋愛を教えてくれ」
近すぎる距離。
叫んだ訳でもないのに、彼の声は重なった頭を響いて、つま先まで。
ビリビリと、しびれるような余韻を残して通った。
けれど、それよりも。
頬を染めて、眉間に皺を寄せて。
まるで少年のような真っ直ぐさと必死さを浮かべた彼の表情が、あまりにも彼らしくなくて。
射抜くような金眼が、怖いぐらいに綺麗で。
ギルベルト・クラルヴァインはこんなに可愛い男の人だっただろうか、と言う間の抜けた疑問が心を埋め尽くしていた。
それから、まるで逃げるように駆けて行った彼の後ろ姿を引き止めることもなく。
私が正気を取り戻したのは、下校を促す最後の鐘が鳴り終わる頃。
『それじゃ本末転倒だろ!』と言う一番正しいはずのツッコミが口から出ることなく、私達の三日目はようやく終わりを告げたのだった。